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 2章-(3) 滑車井戸と乳

ガラガラガラガラ、ピシャン。

広い庭の北の方から音が聞こえる。小さな屋根の下で、短いかすりの着物を着た男の子が、綱をたぐっている。ガラガラガラ。上の方で音がする。たぐり上げると、つるべが現れた。

ザザー、男の子はかたわらの水おけに水をあけた。井戸だ。

かよはぽかんと突っ立って、ながめていた。なんて、便利な井戸だろう。  なんて立派な!これがたった一軒の家の持ち物?

「啓一、かよが来たけん、たのむぞ」

とうちゃんの声に、男の子はびくんとして、ふりむいた。

「あっ、おっちゃんか。びっくりしたがな」

ぎょろりと目をむいた四角い顔が、弟のとめ吉に似ている。いとこ同士だというのに、めったに行き来もないのだ。

啓一はかよと目が合うと、照れて急にはげしい勢いで、綱を手繰った。ガラガラガラ。

ザザー。手桶に移し込む水の半分が、地面にこぼれ落ちている。

「もってぇねぇ。ばちが当たるが」

かよは思わず非難した。

「水やこ、ぎょうさんあらあ」

啓一は乱暴に手桶をひっさげて、台所らしい戸口へかけて行った。

とうちゃんが先に立って、母屋の脇を通り抜け、サクラや桃の花の下を、どんどん奥へ進んでいく。じいちゃんの住まいは、屋敷内の北のはしに、マサキの生け垣に囲まれてあった。平屋のかわら屋根。地主の屋敷内に住まわせてもらえる、小作人がしらであった。

ひとり残らず田に出ているとみえて、家の中はがらんとしている。

とうちゃんは勝手に風呂の残り湯をくんで来て、かよの手足を洗わせた。  身ぎれいにして、旦那様にお目見えするのだ。

目をさましたつるが、泣き始めた。袖口をすすっている。おむつだけは取りかえたものの、腹を満たしてやることはできない。

また、つるを胸に抱えて、母屋にひき返していくと、台所口から、たらいを抱えた小太りの女が、胸をたぽたぽ揺らせて出て来た。

「その子じゃね。うちが乳をやるちゅうのは」

その女は、泣いているつるをのぞきこんだ。

「やせこけて、けぇでも赤ん坊かな。うちに貸しねぇ」

たらいを地面に裏返しに置くと、二の腕まで袖をまくり上げて、つるを抱き取った。たらいの上にめりめりと音立てて座ると、さっそく胸をはだけた。真っ白な大きな乳房が、わっとあふれ出て、かよの後ろで、とうちゃんが  目をそらせた。

「だんなさまにこれを・・。わしゃ、ご挨拶してくるで・・」

とうちゃんはカニの入った網を置いて、そそくさと台所口へ入って行った。

「東の間におられるで。おくさまが、お待ちかねじゃ」

つるがこくんこくんと音をたてて、生まれて初めての乳を吸っている。かよはしゃがんで、むちゅうになってのぞきこんだ。なんとたっぷりした乳だろう。やせこけていたかあちゃんにはない豊かさだ。ああ、来てよかった! この人のいる限り、つるはきっと丈夫に育つだろう。

「おばちゃん、これあげる」

かよは、たもとからシカ婆にもらった、芋飴の包みを差し出した。何かしてあげずにはいられなかった。

「あれ、うまそうななあ。ありがとう。うちに水持ってきてくれん?  乳を飲ますと、のどがかわいてなあ」

かよは井戸へとんで行った。おそるおそる滑車つきのつるべを水に落した。高く積んだ石垣の上の屋敷内にある井戸なのに、水は豊かに黒ぐろと光って、すぐ近くに見えている。ぐいぐいと数回、つなをひっぱれば、もう汲み上げられるのだ。そばにあったひしゃくにすくって、持って行った。

「ああ、うめえ。ここの水はいつ飲んでもうめえなあ。うちゃ、興除こうじょ村の出じゃけん、ここは水の天国じゃ。うちらあ、天水あまみずしか飲んだこたあなかったけぇ」

かよはなるほど水の天国だと思う。こんな所に住んでいたら、喉を枯らして死なせることはなかったのに、かあちゃん!ところが変われば、人の暮らしは何と変わるものだろう。

「せえでもな。天国と地獄は、紙一重じゃ。水がありすぎても、ようねえど・・」

その人は、なぞのようなことを言った。この家の娘たちが、洪水で亡くなったことを言っているのだろうか。

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