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2章-(2) 大きな波紋

香織は憧れのユキさんを前に赤くなって、なんと言おうかと迷いながら、  おじぎだけは深く丁寧にした。頭を上げたとき、思わずある言葉が口から  出てしまっていた。
「ユキさんの〈なるべく気高く〉のモットーをまねしようと、ずっと思ってました」と。

「まあ、先生、そんなこと、バラしておしまいになったの? 恥ずかしい!」
ユキさんは目を丸くして赤くなって、江本先生にちょっと体をぶつけた。

「あら、いけなかった? とてもすてきなモットーですもの、忘れられなくてね。この人落ち込んでたから、励ましたかったのよ。私も励まされたし」
「それなら、私も励まされましたよ」
と、上田ますみさんも口を添えて、皆で笑顔になった。

「落ち込んでたっていう人が、こんな素晴らしい作品を、これだけたくさん展示されて、今も編んでる姿が、とってもステキだわ。わたし、今すぐ電話をして、うちの週刊誌担当の人に取材してもらうことにする」
ユキさんは失礼、と一礼して、少し脇に寄ると、携帯で電話を始めた。

香織が断るひまもなかった。わあ、どうしよう、とんでもないことになり そうだ、と胸が震え始めていた。

ユキさんは黒いまっすぐの短髪で、グレーの麻のジャケットスーツに、白のブラウスを合わせていて、きびきびしている。上田ますみさんは、黒い長髪を後ろでひとつに縛って、紺色の半袖ワンピースを着た、穏やかな感じの人だった。

その時、別の年配の女性が、香織に声をかけてきた。
「失礼します。あなたがこの作品すべてをお作りになった笹野さんですか?」

香織が答える前に、江本先生がすぐに答えてくれた。
「そうです。うちの寮生でして、わたしも知らないうちに、こんなに見事なものを作っていたのですよ」
「あの、わたくし、こちらの卒業生の小山美子と申します。卒業後、編み物教室をやっておりまして、もう25年ほどになりますけど、こんな形にもできるのだと、勉強になりました。良いものを見せて頂いて、心打たれました。ありがとうございます! うちの生徒たちにも、明日ぜひ拝見に来させますね。列に並んで、お待ちした甲斐がありました」

香織は恐縮して、何も言えず、丁寧にお礼のおじぎをした。その人も深く おじぎをすると、その場を離れて、もう一度壁のモチーフを見直し、幾つか記入欄に記入して、帰って行かれた。 

それだけでは終らなかった。廊下の方で、大きな声の押し問答が聞こえて、ドアが開くと、行列の世話などしていた松井委員長が、押されるようにして、その後ろから、腕にマークをつけた男性とカメラを持った女性の2人が入ってきた。

「A新聞社の記者さんが、取材をしたいそうです。順番を守ってくれないの」と、松井さんがしかめ顔で言った。

「A新聞の小橋と申します。できれば、今日の夕刊の地方版に載せたいものだから、勝手をしますが、写真を撮らせて下さい。ここまで来る間に、1年B組の〈特技展〉が素晴らしかったという声を、それはたくさん聞きましてね。ぜひ、どんなものか拝見したかったのです」
と、先頭の小橋記者が言うと、早速写真機を持った女性が、教室内のあちこちの写真を撮り始めた。女性の方は、順にマンガのテーブルや生け花、絵画、習字と見て回り、演奏中のピアノ、お琴、ギター写しながらめぐり、最後に香織の壁のところに来た。

「部長、これですよ、皆さんが素晴らしいと言ってたのは!」
小橋部長が寄ってきた。
「なるほど、きれいで見事だな。これを全部、1人の作者が作ったんですね。そして、この展示の具合が実によく考えてあるなあ。ほほう、この場で売ってしまうのではなく、寄付金を募って、後から作品を送り出すとは」

「えっ。それっていけませんか?」
と、松井委員長が挑むように言い返した。
「とんでもない、大したアイデイアですよ。こういう文化祭のやり方は、 初めて見たな。この気に入った作品に印をつけるとかも、面白いし、ただ、どうして買いたい人を2人に限定するんです? 3人でも5人でも増やした 方が、寄付金はぐんと集まるじゃないですか」

「それは私たち、まだ高一の生徒だからです」
と、声を上げたのは佐々木委員長だった。
「編み物をしているのは、そちらの笹野香織さんですが、普段は勉強がありますし、1週間に頑張っても、3枚か4枚ですから、希望者3人とすると、見本を別にすると、48枚必要となり、16週間、つまり、お送りするのが来年1月末までかかってしまいます。それに、そんなに丈夫な方ではないので、もっと時間がかかるかもしれません。それで、クラスの人たちで考えて、できる範囲にすることにして、2枚までとしたのです」

「なるほど、実にいい話だ。勉強と体力を考慮して、か。これはぜひ、記事にしたいものです」 

記者達がやっと帰って行き、香織がほっとしている間に、ユキさんの出版社の雑誌部の人が、ユキさんと一緒に入ってきて、こちらの取材も早速に始められた。いくつも写真撮影が行われたが、雑誌の方は、女性週刊誌なので、少しは時間の余裕があるらしかった。

ユキさんたちは、2名制限の欄に残っているアジサイの額を探して、注文者に名前を書き入れ、住所なども記入していた。


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