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1章 -(1) 入寮日

・・もう遅刻になっちゃってる。ママったら、おそすぎるよ・・

清和女学園の校門の前で、笹野香織はジリジリして、半べそになっていた。ママは通りかかった外国人青年を道案内しに行ったきり、まだ戻ってこないのだ。

何かに夢中になると、他のことは見えなくなるんだから、とママはいつも そう言って、香織を責める。でも、自分こそそうじゃないか。その外人が 地図を手に、しかめ顔をしてきょろきょろしてたからって、香織を置き去りにして、いっしょに行っちゃうなんて!

正面の時計塔は、早くも4時15分を指していた。入寮時刻は〈4時厳守〉なのに、もう15分も遅れてる! 目指すあじさい寮は、校内の奥の方に あって、歩けば数分はかかる。ママと4月末の〈園遊会〉に何度か来ていて、あれが寮なんだ、と憧れていたのだ。

ひとりで駆け出したくても、ママが来なくては、香織は文無しだった。本代や学用品代、お小遣い用の大金を香織に失くされては、とママは最後まで、財布を渡してくれなかった。

ママは寮の玄関の外で香織に財布を渡し、それから寮監先生にくれぐれも 監督をよろしく、とお願いして、大阪へ帰るつもりだ、と自分でそう言っていた。

この10日間、香織はママに叫びたい〈切り札の言葉〉を、幾度言い出し かけたことか!

「沙織お姉ちゃんは、私と同じ15歳でアメリカに行ったじゃないの!  同じ15歳の私を、もう少し信用してよ!」と。

その姉は、今17歳。サンフランシスコに住むつよし叔父の家から、近くの高校に通っている。もう2年間も日本を離れていた。

沙織の名を口に出せないのは、ママの答えが分りすぎるほど分ってるから。

「お姉ちゃんは特別よ。成績は抜群だし、とってもしっかりしてる。香織はどう? 頼りなくて、面倒みなくちゃいられないじゃないの」

明日は清和女学園の入学式。前日の今日は〈入寮式〉がある。


「うまくご案内できて、よかったわ。案外近い、住宅街だったの」と、嬉しそうな声でやっとママが校門前に現れたのは、4:25分をまわった頃だった。香織は泣き声になって、ママを急き立て、財布を受け取った。

「こんなに遅刻して、ママに遅刻の言い訳してもらうなんて、恥ずかしすぎる。ひとりで行くっ!」

半べそ顔のまま、ママの返事も待たずに、香織は駆け出した。今度はハイ ヒールのママが、置き去りになった。

「寮監先生に大事な話があるから、私は後から行くって、先生にお伝えしてねー。約束したこと、忘れちゃだめよーー」

ママの叫び声を後ろに、香織は八重ザクラの並木の下を駆け続けた。涙で かすんだ目に、ピンクの花びらの絨毯が、どこまでも続いて見えた。   寮まで連なるサクラ並木は、いま満開、ハラハラと絶え間なく花びらを振らせている。

ふいに、風が起こった。香織の頭上で無数の花びらが拭き上げられ、舞い ながら降り落ちてきた。

わあ、サクラ吹雪だ!

香織は思わず立ち止まって、花びらを両手に受け止めた。並木がサクラ色のくす玉を割って、香織を迎えてくれたみたいだった。香織の胸の不安のくす玉は、いっしゅんで、はじけ飛び、喜びが湧き上がってきた。

・・・清和に来たんだ、とうとう! おまけに、あじさい寮よ!

自由なんだ! ママからも受験勉強からも、不合格者の恥も、そして、言葉の違う大阪の高校へ入る不安からも、解放だ! ちょうど、パパの操縦する飛行機に乗って、大空へ舞い上がる時の気分と同じ!

・・・なんとかなるって! 心配したって、しなくたって、おしまいには なんとかなる。

いつもの〈おまじない〉の言葉が、ふいっと浮かんだ。すると、気持ちが さらに大きくなった。

そう、遅刻したって、ビリだって、〈なんとかなる〉って。小さい頃、仕事で忙しいママの代わりに育ててくれた、ママの母親の富江おばあちゃんが、何度もこの言葉を唱えていた。おばあちゃん子の香織は、このおまじないで、15歳まで、なんとか切り抜けてきたのだ。

特に、中学3年の1年間は、1家中秀才だらけという点で、似た境遇で親友の野田圭子と、この言葉で、何度なぐさめ合ったことか!

野田圭子のパパとママも、2人の兄もすべて高名な T 大出身という圭子は、結局、都立高の最終選抜にやっと受かって、バスを乗り継いで1時間半かかる N 高に決まった。

「なんとかなった」と、圭子は自分でそう言って、首をすくめて笑ってた。

でも、香織が電話で、清和女学院補欠入学を伝えた時、オリはいいなあ! うらやましい! と、口数の多い圭子が、小さくつぶやくように、最後に もらした声が、まだ香織の耳に残っている。今でも、圭子に悪いみたい、と思ってしまう。

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