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Vtuberの推し疲れ

こんにちは。えんどうあゆむです。
今回はVtuberファンの私なりの視点から、いわゆる「推し疲れ」について考えていきます。


推し疲れとは自分の好きなアイドルなり芸能人なり応援していく中で、応援すること自体に疲労感を感じてしまうことです。まぁそもそも、推し疲れなんて本末転倒もいいとこなんですよね。心の支えにしてきた存在を応援することに疲れてしまうのですから。推し疲れというのは目的と手段が交錯している状態とも言えます。
人間完璧じゃないから目的と手段を履き違えて心労抱えて自滅、なんてことはよくある話です。分かっていても推しの事を考える度に考えすぎてしまって疲れてしまう。分かっているのに…という状況がなぜ起こるのでしょう。

まず、Vtuberというのは声優では無いという前提をここで提示しておきましょう。それぞれのVtuberに与えられた「設定」こそ存在はするものの、配信では基本的に「中の人」の感性に基づいて言葉が発せられ、台本は存在しません。台本が存在するケース(例えば有料ボイスや、企業案件の配信等)はありますが、ここでいう配信は雑談配信のようなものを考えてください。
YouTubeを中心としたプラットフォームで展開される生配信では、放送を聞きに来た人のコメントに対してVが答えるという形態をとる事が少なくありません。アニメのキャラクターのように声優が命を吹き込まなければ定型文しか喋る事が出来ないのではなく、バーチャルという2次元チックな形を取りつつ、本人のありのままの感性によって視聴者と会話が展開されていく。これはVtuber最大の魅力ですが、同時に、このように等身大の男の子or女の子と会話出来る事が、推し疲れを助長する要因だと思います。

感情を持っている者を推す対象にしていく以上、対象が自分の言動によってどんな感情を抱くのか考える必要が生じてきます。聖人君子のような性格の持ち主でなくとも、普通の良心を持って生まれてきた人間なら、会話する上で相手の気持ちに思いを馳せるのは至極当然の行動でしょう。そんなバーチャルでは無い、現実世界では当然の行為を、日頃の疲れや承認欲求の渇き、それこそ現実世界での人の関わり方で悩んでいる時に心を満たしてくれる推しを推す際に求められているのです。これでは癒しを求めるという行為は完全に達成されません。

バーチャルの世界で等身大のサイズ感を求めすぎてしまった結果、現実世界で要求される事をバーチャルの世界でも義務として果たさなければならなくなってしまった。推しに安寧とか距離間の近さとか現実逃避を求めてたいた人間からしたら疲れて当然でしょう。恐らく、今推し疲れを感じている人間はこの手の者が多いと思います。

要はVtuberと言っても本質的には現実世界に存在する人間と変わらない存在であり、セリフのある2次元キャラクターのように都合のいい存在では無く、無条件に癒しを与えてくれるものでは無く、自我を持った存在だということ。それはサンドバッグにして袋叩きにすれば生身の人間と同じように簡単に壊れてしまうということです。これはVtuberを難癖つけて叩きまくる人間に届いて欲しいことですね。

色々グダグダ申し上げましたが、簡潔にまとめると、Vtuberは等身大の人間を推す事を楽しむコンテンツだから現実世界の人間関係に疲れるのと同じように推し疲れが起こるのは当然。だから推し疲れてしまった自分を責める必要はないということです。
推し始めてから時間がそこまで経っていないならまだしも、1年とか、推してる期間がそういう単位に来ている人ならば、現実世界の人間関係で悩むのと推し疲れは同じものと考えていいと思います。
推し疲れてしまったらリアルの人間関係を立て直す時のように、頭を冷やして長い時間をかけてまた元に戻る。それで充分でしょう。

推しのVtuberを一生懸命応援するのもいいですが、たまには羽を休めて、推しとしてでは無く昔からの知人との距離感のように、1歩引いた立ち位置でゆるめに応援していくのもひとつの推し方なんじゃないかなぁ。と思っています。とまぁ、総括するとこんな風に私は考えていますよ〜。ということですね。参考になれば幸いです。

ここまで読んでくださりありがとうございました。皆様が今後とも良い推し生活を送られる事をお祈り申し上げております。

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