ずっと余生
どうも山ぱんだくんです。心はいつまでも男子中学生なので、「(親不知)ヌいてきた?」「ヌいてきた、意外と早かった」って会話を聞くだけで吹き出してしまいます。申し訳ありません。
さてさて山ぱんだくんと月曜の理屈
第四十回は「ずっと余生」
第四十回 ずっと余生
成人の日です。新成人のみなさん、おめでとうございます。今日はみなさん幟をつけたバイクを乗り回したり、市長の挨拶中に檀上に上がったり、金の袴で闊歩したりするんでしょう。羨ましい限り。ちなみに三年前の成人式の日の僕はといえば、お家のこたつでテレビ見ながらゴロゴロしていました。
なんだかもう何年も余生を送っているような気持ちなので成人を迎えた時も、それから三年経った今も、「もう二十歳(二十三歳)か」みたいな感慨はなくて、むしろまだ二十三年しか生きていないことにビビります。23て。全然やん。
二十の頃から何か変わったかなあと思うのだけどきっと何も変わっていないくて。二十の人を見ると若いなあって思うようになったぐらい。二十って若いよね。なんか、こう、いろんな意味で。(23も充分若いはずなのだが)
今、近くに二十の子がいて一緒にいろいろやっているのだけど、もうすごいん。なんかギラギラしてる。キラキラってかギラギラ。自尊心と顕示欲に満ちた感じに「もう惨敗」って気持ち。戦う気持ちもないのだけど。
かといって自分にそんな時代があったかというと、多分、なかったと思う。二十の時の僕は所在なさげにいろんな場所をフラフラしていた。サークルも籍だけ置いて行ってなかったし、バイトも個人経営のようなことをしてたし、いつもどこにも居場所はなかった。
居場所を作るのって根気がいることだから僕に根気がなかっただけといえばそれまでなんだけど、居場所がないことはそこまで悲しいことでもない。
居場所がないってことはどこにも居られないってことじゃなくてどこに居てもいいってことで、それが楽で良かった。
なるべく身軽に自由に。
ずっと余生とタイトルづけたけど本当にそのままの意味で、何故だか僕の人生はボーナスタイムだという感覚がずっとある。ボーナスタイムだから好きなことしかしたくないし好きなものしか食べたくない。
実際やらなきゃいけないことの多くは本当はやらなくてもいいことだし、思い悩んでいることのほとんどについて僕に選択権はない。
その代わり、世界に何も望まない。
これがきっと何よりも大切なことなのだけど、ちょくちょくこれを忘れては心の調子を崩す。
でも、これがあるから、なんとか自分でリカバリーしてまた一日生き延びている。
新成人の皆さんおめでとうございます。あなたたちの命は生きてるだけで美しい。親に感謝してギラギラとその命を燃やしていってください。ただ、疲れたら休んでくださいね。