鮎歌 #04 [エッセイ]「かへりみち」をうたうひと──紀貫之『土左日記』
高知旅行と「土左日記」
七月の終わり、高知旅行をするからと思って、読み返していたのは「土左日記」だった。
あまりにも有名な冒頭文は、読むたびに謎が深まる。当時、「日記」というものは、「男」が「漢文」で書くものだったから、「仮名」で書くためには、「女」にならなければならなかった、くらいは学校で習う。そして、この試みが平安期の女流文学の隆盛を導いた偉業であったことも。
しかし、なぜその「仮名で書く」という新しいスタイルを、「土左日記」でとらなければならなかったのか。それはなかなか見えてこない。この紀貫之からの千年の謎に生涯をかけて挑んだ研究書やら解説本を手にとってもよかったが、ひとまず「土左日記」の地を歩いてみて、それから気ままに考えてみても遅くはあるまい、と思った。それで、高知まで来た。
暑い日だった。二年前にも高知に来たが、こんなに暑かったか。高知駅から帯屋町商店街を通って、ホテルまで歩く。それだけで、滝のような汗が流れる。だが、「土左日記」は冬の旅だった。だから、どちらかと言えばこの夏の景色は「海がきこえる」(氷室冴子)とか「竜とそばかすの姫」(細田守)のものだ。前回来たときは、「海がきこえる」をテーマに旅をしたが、やはり杜崎拓や武藤里伽子のことを思うと何度でも胸が高鳴った。映画のエンディングテーマ「海になれたら」(坂本洋子)を口ずさみながら歩くと、なんだかなつかしさで泣きそうになる。といっても、暑さの方が勝ってしまって、ゆっくり妄想を膨らませていると命がない。定期的にコンビニに立ち寄って、汗が引くのを待った。
その日は、ひろめ市場でゆっくりとカツオのタタキを味わい、二日目の朝、日曜市をぶらりとまわり、県立文学館に行くと、なぜか「ムー展」がやっていた。ささやかな不思議を楽しみつつ、とりわけ感動的したのは隣の宮尾登美子の直筆原稿の数々だった。美しい文字がならんでいた。手書きで、丁寧にこれだけの原稿を書き続けるという、その日々を思って、原稿のまえで立ち尽くす。文学館とは、そういう場所だと思う。そうして、高知の文学者たちの息吹をあびて、いざ、その足で室戸岬を目指した。
「土左日記」の旅
「土左日記」の旅は、55日間の船旅である。土佐の国司を終えて、京に帰り着くまでの道中が、毎日欠かさず書かれている。が、大半は、海が荒れていて動けない。土佐を出発してすぐの「大湊」では、すでに10泊しているし、土佐の南端、室戸岬でもやはり10泊しているので、土佐を出るまでに、実に全行程の半分の時間をかけている。とはいえ、この足踏みが、「土左日記」を生んだことを思えば、この20日間は必要なものであったのだ。
今回は、その室戸岬を目指す。当然、当時の船は、少々の雨風が命取りになる。慎重に海の様子を見ながら、進むがゆえに20日もかかっているのだが、いまは車で1・2時間も走らせれば着いてしまう。一行の苦労は一飛ばしに、貫之の足跡を辿る。
貫之たちが立ち寄った場所は、石碑が建っている。いくつか細かくあるようだが、行けるところは寄ってみた。大湊、奈半利、羽根岬、御崎(室戸岬)である。といっても、どこも、ちょこんと石碑が建っているだけだ。こんなの気づかないよ、というところもあった。この暑さのなかでこんなスタンプラリーに励んでいる人はそうそういるまい。せっかく発見したのだからと、念入りに一緒に写真を撮ったり、「うた」を詠んだりした
ただ、こんなに楽しんではいるものの、実は、どれも「ここなのではないか?」という一説にすぎない。正確な場所はわかっていなくても、石碑を建ててしまえば、そこだったということになる。言ったもの勝ちといってもいい。紀貫之が寄った場所ということが、どれだけの観光効果があるのかはあやしいところだが、それを嘘だとかなんだとか言っていては、「土左日記」そのものも楽しむことができない。むしろ、ここだ、と決めつけてかかってどうだ、とふんぞりかえっているくらいがいい。というのも、この「土左日記」自体が、そもそも「嘘」かもしれないからだ。
「帰り道」しか書かれない
だいたい自分は「女」だといって書き始めていて、すぐに「嘘」とわかるような仕掛けになっているし、これも諸説あることだが、「土左日記」であって、「土佐日記」ではない。もしかしたら架空の「土左」なのかもしれない(「土左」と表記したのが紀貫之だったのかはわかっていない)。そして、約六十首に及ぶ「うた」が散文とともに、きれいにおさまっていることも、明らかに、その日その日に、書き足されていったものではない。さまざまなバランスを考えて、全体が構成されている。そういう意味で、「嘘」というか、多分に「虚構(フィクション)」的な作りになっているのである。だから、「作り物」として、楽しむくらいの姿勢も持っていなければいけない。
あまり、こうした「近代小説」的な側面を見出そうとすることは、平安期の文学にすることは避けたいのだけれども、それでもこの「土左日記」成立の背景には、明確な意思があるように思う。
そのいちばんの根拠は、この「土左日記」が、なぜか「帰り道」しか書かれていないことにある。「土左日記」が抱える数々の謎。「仮名」で書こうとしたのも、「女」になろうとしたのも、それを「土左日記」でやろうとしたことも、そして、なぜか「帰り道」しか書かれていないという謎も、ぼくにはこの「帰り道」をモチーフにしたこと自体が、一つの鍵なのではないかと思える。
出発から、6日ほど経ったころの12月27日に、こんな「うた」が詠まれている。京で生まれた娘が、土佐で死に、一緒に京に帰れないことを嘆くものだ。ここでの記述は、「ある人」の話ということにしているが、これは実際のところ、紀貫之自身の話だと言われている。「土左日記」では、いろんな人が「うた」を詠むものの、その大部分は貫之自身が詠んでいたのではないか、と。つまりは、語り手は「女」なので、その視点人物から見て、仮に貫之が詠んだものだとしても、それを「ある人」が詠んだことにしているということである。そう考えると、この日記には、かなり多くの人が登場するのだが、それらの人々は本当にいたのだろうか、とも思えてくる。
ともあれ、この「かへらぬひと」である。「帰り道」なのに、「かへらぬひと」がいる。それこそが、「土左日記」という「物語」なのであり、亡くした「娘」を偲ぶ帰り道の「物語」なのである。
もちろん、土佐での暮らしのなかで、嘆き悲しむことはあったろうが、ようやく京に帰るという段になってこそ、ともに帰ることのできなくなってしまった、亡くしたひとのことを思う。しかも、その帰り道が、なかなか思うように海が落ち着かない。何日も、何日も海が凪ぐのを待っている。その時間を、どう思いながら過ごしていたのだろう。
今回のぼくの旅は、夏だったこともあって、ずいぶんと波は穏やかだった。しかし、室戸岬あたりは、凄まじい岩礁だった。こんなところで十泊も、どうしていたのだったか。いまのぼくたちなら、一日だって、船のうえにはいられまい。本当に「土左日記」の旅はあったのだろうかと思えるほどだった。そう思うと、この旅の過酷さというものが身に沁みる。それは、「うた」でも詠まねばやってられないといったところだろうか。
紀貫之が生きた時代と「うた」
あったけれども、なくなってしまったもの。
この「土左日記」を読んでいると、もう一つ、何か亡くしてしまいそうなものがあるような気がしてならない。それはつまり、貫之が担ってきたことを重ねていくと、この「うた」そのものが、「娘」の存在と重なってくるように思えるのだ。
というのも、貫之が生きていた時代、平安初期は「漢詩(からうた)」が主流であった。平安朝遷都後の嵯峨天皇は唐風の政策を展開し、嵯峨・淳和天皇二代に渡って漢詩集も編纂されている。それから、ほとんど百年後の905年に「古今集」は編まれることになるのである。もちろん「和歌(やまとうた)」の復権は醍醐天皇の前の宇多天皇よりあったが、「仮名序」では「今の世の中、色につき、人の心花になりにけるより、あだなる歌、はかなき言のみ出でくれば、色好みの家に、埋もれ木の人知れぬこととなりて、まめなる所には、花すすき穂に出すべきことにもあらずなりにけり」と、もはや「うた」は、風流人だけのものとなって、公の場には姿をあらわさなくなった、と嘆かれているように、「うた」そのものも、失われようとしていたものだったのだ。
それはちょうど、いまのぼくたちが江戸時代の文学を読もうとする感覚に近いかもしれない。この百年の間、ぼくたちは「西洋」を手本にしながら「近代化」してきた。そのなかで、文学も「近代小説」「近代詩」などと呼ばれて、それまでと明確に区別されるようになった。それと同じように、貫之の時代の平安初期の百年は「唐」を手本にしながら「近代化」する時代だった。そのときに流行った「からうた」は、まさに「近代文学」だったわけである。だから、いまの感覚で言えば、失われようとしている江戸時代の文学をいまに復権しようと試みるアンソロジーを組もうとすることが、「古今集」の編纂だったとも言える。
もちろん、それだからと言って、「からうた」を否定することはできない。「からうた」の吸収によって、「やまとうた」も鍛え上げていかれたことだろう。しかし、歌人としての貫之のなかには、「やまとうた」に対する強い愛のようなものがあった。
だから、「土左日記」でもことさら「からうた」に触れられ、そのときは、きまって「やまとうた」に言及される。「ここに、からうたは書かない」と強い意志で、(それは女であることを強調するためなのだが)書かれていくのだ。
千年の「うた」
とすると、なぜ、この日記は、六十首もの「うた」が詠まれているのか。それは、単なる歌人としての矜持だったのか。単に、「うた」の復権を目指したのだろうか、というと、それだけではないだろう。「古今集」の編纂をしていた貫之だからこそ、「うた」の力、それは、長く読み継がれるということを知っていたはずだ。
「うた」は、神代の時代から伝わったもので、万葉の時代から百年、二百年と隔たっても、貫之の時代にも残っている。そして、「古今集」を編纂することで、たとえ時が移ろい、楽しみも悲しみも、さまざまなことがあったとしても、それは「永遠」になる。そういう祈りを込めて編まれたのが「古今集」でもあった。
そう言った彼は、この「土左日記」を書き上げた最後に、「とまれかくうまれ、疾く破りてむ。」と書いたものの、破られることなく、千年のときを超えて、ぼくたちの眼前にあることに、あらためて思いを馳せてみなければならないのではないか。なぜなら、ぼくたちは、「土左日記」を読み、彼の亡くした子を思っているからだ。
あの子が、千年生きた松のように長く生きていてくれたら、遠い土佐の地で悲しい別れなどしなくてもよかったのに。「土左日記」の結びで貫之はこのように詠んだ。ここにぼくは、どうしてもドラマティックな演出を見たくなる。そう、貫之は亡くした子を、「千年」生かそうとしたのではないか、という想像である。
「土左日記」が、ほとんど「うた日記」になっているのは、そのためだったのではないか。だから、この百年で取り入れられた「からうた」ではいけなかった。神代から続き、これからも「とどまれる」「やまとことば」でなければならなかった。それをするために、無理やりにでも、「女」にならなければならなかった。我が子の永遠を願う祈りが、「うた」であった。その、なくしたものを、この世にあらしめるためにこそ、「帰り道」だけがうたわれなければならなかった、のではないか。
だから、はじめから「土左日記」は、「虚構」にならざるを得なかった。それは、もうなくなってしまったものだから。しかし、それが、「うた」の強さだとも思う。
あったけれども、なくなってしまったものへの、祈り。
そういえば、「帰り道」ばかりを書いてしまった自分の詩集のなかに、こんな一節を書いてしまったのを思い出した。
なぜ、詩を書こうとするのか、という問いへの答えのようなものは、千年経ったいまも、自分の深いところにあって、眠っている。ああ、自分のなかにも、「うた」があったのだと、暑い岬に立って思う。
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