あるかもしれない第五の性と、伝えられなかった恋の話。
好きだった先輩がゲイで、わたしは二度ショックを受けた。
ひとつは彼とわたしがコミュニティを共にした、わたしにとって思い出深い期間は彼にとって「カミングアウトに至れなかった暗黒期」でしかなかったということに。もう一つは、多種多様な才を携え、麗しい見目を備えながらも、その彼はいまのわたしの齢をこえてなおパートナーに恵まれる機会がなかったということに、だ。
全てはわたしの空虚な妄想に過ぎないが、彼はほんとうにゲイなのか。彼はほんとうにその「カミングアウトに至れない、パートナーに巡り会えない」苦痛を味わう必要があったのか。そんなことに思いを馳せてから、わたしの思考は稼働をはじめた。
厳密にどう定義されているかはわからないが、いまのところ『性』というものには以下の四つの観点があるらしい。
法律上の性
性自認
性的指向
性表現
法律上の性とはいわゆる身体の性。性自認は自身を男女どちらの性と認識しているかで、性的指向はどのような性を対象に性的欲求を持つか。そして性表現とは、自分をどのような性の人間であるかを示すもの、であるそうだ。
わたしを例にとってみよう。
わたしは女性の身体を持って生まれた。つまり1.法律上の性は女性だ。そして、自分が女性の身体を持っていることに違和感はない。つまり2.性自認も女性である。このように1と2の性が合致しているのをシスジェンダーと呼ぶらしい。わたしはいわゆるシス女性である。
3.性的指向だが、恐らくわたしは女性に恋慕の情を抱く事があっても女性と性的行為を行うことに対して快感情を抱きにくいだろう。後述するが、これは構造上の問題である。よってわたしの欲求の対象は専ら男性ときまっていた。一致する1、2の性と異なる性を性的指向の対象にとるセクシュアリティを、ヘテロセクシュアルと呼ぶそうだ。つまり、わたしはシスヘテロ女性ということになる。
シスヘテロ女性ということにはなるのだが、表現したい性も同じく女性かというと必ずしもそうではない。以前のnoteでも少し触れたが、わたしにはたびたび自分より肉体的に華奢な人間を「庇護対象(女性的)」と認知して男性的に振る舞う習性があり、そうしたときには当然表現性も男性のそれに寄る。3.性的指向でも構造上の問題と述べたとおり、わたしの身長は170cmと女性のなかでは比較的長身であり、その体格で生きてきた経験から自身より肉体的に華奢な人間を男性的と看做してみずから女性的に振る舞うことがむずかしかったのだ。閑話休題。もちろん、社会的な身分としては女性であることに違和はないし、然るべき時にはきちんと化粧もしてヒールも履く。要するに、わたしの表現したい性は状況に応じて流動的であり、明確にどちらと決まったものでもない。4.性表現については、anone.のような診断サイトを頼ると大抵ノンバイナリーやトランスジェンダー、つまり男性と女性どちらでもないとされている。
さて。
わたしの実感として、人間が性差を見出すものとして、まだ一つ足りないものがあると思う。もちろんこんなもの分類していったら無限に分けていけるに違いないのだが、それはさておき。
1.身体がどうか。2.自我がどうか。3.対象は誰か。4.どう表現したいか。恐らくそれらとは明確に別物で、性差を見出せるものはもうひとつある。
それは、『他者にどう扱われたいか』だ。
決着のつきようのないインターネット上での論争ネタのひとつに、【奢り】に関するものがある。曰く、男はデートに際して女に奢るべき、と。このような文脈についてまったく触れず知らずに育ってきた人間は、(たとえ実例が身近になくとも)このインターネット文化圏の肥大化した昨今にはさすがに存在しないのではないか。つまり、ざっくりいうと、多くの人間には「男は施す側」「女は施しを受ける側」という『扱い方』が浸透しているのだとも言える。
だが、当然この「施す側にいたい」「施される側にいたい」という欲求は、本質的に性別とは無関係だ。シスヘテロ女性であるわたしも、かわいいと思った歳上の男とデートをして全額奢ることだってある。わたしに奢られて至極楽しそうにしている彼がたとえ「施しを受ける」ことに対して快感情を覚えたとしても、それは別段女性的な待遇を求めてのこととは限らないはずだ。
『施し』に限らず、性に付随するラベルはいくつも存在する。女子力、男らしさ、etc…。古典的な慣習に基づいて作られたこれらの単語をいまさら疎ましいとは思わない。言葉狩りをしたいわけではないからだ。ただ、女子だから女子力があるものとして思われたくない、男だから男らしくあるものとして思われたくない、というのもまた当然の帰結である。もちろん、これは他者に要求をするなという話ではない。自らの扱われ方に対して、「女子力のある女として扱われることで自分の価値を高めたい」という考え方もあるはずだ。自分の性がどうかとは別に、あるいはそれである/それでないことを前提に、このように扱われたいという意図は、無意識であれ誰しもあるはずだというのがわたしの推測だった。
つまり、わたしが思ったのは。
「成功体験のない性的少数派」はこの扱い方のセオリー、『第五の性』に阻まれて求められる働きを遂行できず、自身の指向性についてそのような解釈に落ち着いたのではないか、ということ。
2.性自認や3.性的指向の主観判断の多くはあくまで相対的なものに過ぎず、それまでの体験の質に依存する。すなわち自らを少数者と称する者の中にも、『第五の性』さえ他者に適切に理解されていればシスヘテロとして生きる事に違和がなかった人間も少なからず存在するのではないか、ということ。
かくあれかし、という規範から自由になり、「施されたい男」「施したい女」というようなアイデンティティの確立が許されるなら、もしかしたら彼は、自身を少数派と言い募って険しい道を辿るような真似はしなくてもよかったのではないか、ということだ。
もちろん、同性の身体にしか性的欲求を抱けない、というケースはあるだろう。同一世帯の人間として共に生計を立てるに相応しいと感じた人間が同性であったがために法的契約関係に臨めない、ということに不満を持っている人間もいるだろう。
それらはたしかに疑うべくもない少数派であるが、なにもわたしはそれらを否定したいわけではない。ある事象にのみ欲求を生ずる、という絶対的事実は捻じ曲げようがないし、なんなら後者についてはわたしも同性婚の適法化に賛成だ。選択的DINKsが適法であって同性婚が不適法だなんてそんなバカな話があるか、と思うからである。
ただし、「シスヘテロとして生きられる人間が敢えてセクシャルマイノリティとしての可能性に目覚める必要はない」とも強く考えている。この辺は、たびたび炎上している政府のお偉方の発言とあまり思想は変わらない。
シスヘテロでない人間が自認通りに生活を営んだ結果、後続世代の育成に私的リソースを割くようになる可能性は限りなく低い。意中の人間と性交渉を行ってもそれは繁殖と直結せず、養子縁組などの制度は多くの人間にとってあまり身近なものではないからだ。
そして人間の集う共同体を管理する人間からしてみれば、「後続世代の育成に寄与しない人間」は、長期的に見れば損失である。本人の主観的充足度がいくら向上しようと、その共同体には関係ない。だが後続世代が、共同体を支える人数が減ってしまえばそれは即座に共同体の損失に直結する。「セクマイ思想が過剰に広まれば人類は滅ぶ」というのは、政治家という【運営サイド】にいるからこそ痛感する、そして燃やされるほどもない、いたって当然の理屈なのだ。もちろん、その立場でその理屈に私的所感を合わせて述べるから炎上するのだ、というのはあるが。
本人の生存欲求を削ってまで後続世代を育成せよとは言えないというのはわかる。自らの養育経験より、自身が養育者になることへの恐怖を植え付けられている知人に向けて、「子を成せ」と説教する気はさらさらない。その干渉はハンディキャップを持たない者の、「持つ」者の傲慢であると自覚しているからだ。しかし、「自分個人の主観的幸福度の向上のために、自分の稼いだリソースは自分自身にのみ注ぐことに決めている」とだけ宣う人間は何かを履き違えている。あまりにも利己的だ。端的に言ってクソ食らえである。
これらをもってわたしは、「そうでなければ生きられないのでもなければ、人類はシスヘテロであれた方が幸福に違いない」と確信している。だからこそ、成功体験も強い絶対的事実の表明もなく少数派と公言した彼に、「どうして彼がそのような目に遭わなければならなかったのか」と思わずにはいられなかった。
もちろん、このような傲慢を彼にぶつけることはない。すべてはわたしの空虚な妄想だ。わたしにできるのは、SNSで少数派のアイコンとして生きることを決めた、その一歩を踏み出した彼のpostに、ひとつ「いいね!」をつけることくらいである。
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