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【鑑賞録】朗読劇「あの日・その前・その後〜語り継ぐ南三陸」


 女性は、会場に問うた。

 「今、どんな気持ちでここに居ますか?」

 僕はすぐには答えられなかった。



1.公演について


 3月2日、豊島区目白でその公演は行われた。演者の一人が中学時代の友人で、日頃から「INPUTは脈絡が無ければ無いほど良い」を信条とする僕は、ふと思い立ってその公演を見に行くことにしたのだった。

 18時にすぐ当該演目の上演が開始され・ソレの幕引きが20時だとばかり思っていた僕は、まずその構成にやや面食らうことになった。当該演目の総上映時間そのものは約35分程度。その前に本公演主催団体や舞台となる「南三陸町」に対するインストラクションを挟み、団体が提供を受けた7分ほどの本題材に関する映像を鑑賞したのちに実際の演目の上演と相成った。そして上演後は、出演者やスタッフの方々と交流を行うことができ、実際にはその後の解散の目安時刻が20時となっていたのだった。

 不満があった訳ではない。むしろ、その手厚さに感心してしまったほどだ。
 僕の「東北リテラシー」は著しく低く、三陸と聞いて真っ先に浮かぶのが「北三陸?南三陸?がたしかあまちゃんの聖地だよね」程度で、両語句が凡そ別の県とされる地域を示していることすら知る由もなかった。かろうじて聖地が岩手県にあったことを覚えていたことにより、宮城県の南三陸町は、というフレーズで、ようやく「何かがおかしいぞ」と気づけるレベルである。生まれてこの方東京を離れて住んだことのない人間はこんなもんではなかろうかとも思いつつ、しかし鑑賞者として参画時点で不適格なことに違いはなかった。
 そんな僕でも十分に正しい理解を得られる程度には、主催団体や題材舞台に対する背景情報のインストラクションが行われた。つまり、当該事象についての事前知識が一切なくても、作品を楽しめる配慮がなされていたのだ。チケットさえ持って来れば、必要な情報は全て提示してもらえる。なんと贅沢なことだろう。
 もちろん、それは当該作品と演者の関係性、「作品が演者の私物ではなく、演者には聴衆へ作品を正しく届ける義務がある(可能性がある)」というやや特殊な側面から起きている事象ではあると思う。ただし、この公演が知覚・芸術としてこんなに手厚いものだと、僕は事前に得た情報(パンフレット)などから理解していなかった。わかっていたなら一も二もなく飛びついていたことだろう。演者の友人から招待を受けて、「誰かが行くなら行こうかな」なんてクソ舐めた口は利かなかったはずだ。

 だから、この公演が、もしかしたら当該主催団体の公演がアナログな・連続的な情報で描かれる芸術であることに不満などはあるはずもない。素晴らしい公演だった。ただ僕はディジタルな娯楽に、提供するだけ・享受するだけの娯楽に慣れきっていて、そして身勝手にも面食らっていただけだ。


2.演目について


 演目は、朗読劇。
 舞台となる南三陸町で、3・11を経験した人の言葉のみで綴られた、朗読劇である。

 合唱団による合唱ののち、演者が壇上に上がってそれぞれの『ことば』を発する。心臓音のサウンドエフェクトや様々な色の照明、あるいは演者の手元のライトのみで照らされる世界で、それは表現された。
 汲み易いストーリーラインが保たれているわけではなく、ただし全体としての時系列が揃っている、不完全で緊迫感のある群像劇。さながらそれは、「追体験」のようであった。


3.感想


 残念ながら令和のこの時代、死も災害も断絶も、表現としては飽食・飽和している。得ようと思えば、なんなら金銭的対価の支払いを抜きにしたって、ディジタルな娯楽表現はいくらでも手に入る。少なくとも、僕にとってはそうだ。僕にとって令和とは、そういう時代だった。
 では、僕はここで、一体何を感じればよかったのか?
 答えはおそらく存在しない。きっと、これを観に来たことそのものに価値があって、理由はなんだってよかった。今はそんなことを考えている。

 単に文章表現として見做せば、あの演目に真新しいことは一つもない。似たような文章刺激をインターネットの海から見つけ出すことは、おそらく可能だ。そうした表現を連ねることのできる人間は、そう少なくない。
 でも、実際に四千円払って目白にやって来ない人間もいる。四千円払って目白に来ることを、「割高」だと思う人間は、沢山いる。東京の人間は恐らくそうだ。東京は、ディジタルな街だ。利己とディジタルの街から見たら、「あんま身近じゃない震災ネタの演目で四千円」は、ちょっと高い。
 そして例え似たような文を綴ることができる人間がいたとしても、当事者であっても、「忘れてしまう」。忘れてしまえば、なかったことと同じになってしまう。
 だから、あの公演には、あの演目には、価値がある。
 すべてを目の当たりにした真実の言葉であっても、ただの体験では薄れてしまい、ただの文字列だけでは残りえない。真実の言葉を、「それを目の当たりにしていない聴衆が追体験可能な表象」という形に抽出することに価値があるのだと思った。
 それに興味を示して、観て、知覚したことを記録することに価値があるのだと、僕はそう思った。


 インストラクションの際に、進行を務めた女性はこう問うていた。
 「今、どんな気持ちでここにいますか?」
 その時に僕が思い出したのは、「夕凪の街」という漫画だった。

 もしかしたら、僕は「災害文学」にどこか惹かれるものがあるのかもしれない、とふと思った。
 もちろん、戦禍と天災を十把一絡げに「災害」と呼ぶ姿勢には問題がある。だが、それ以上の言葉がいまの僕には見つけられない。人間の頭で想像して起こした文章より、平時の生活では編めないような解像度の高い文学・描写が僕の魂を惹いてやまないのだ。それは当然解像度が高いのではなく、単に真実であるのだが。


 僕は東京で、ディジタルな娯楽に埋もれて時折欲望を娯楽に操作されながら生きている。それは生まれてこの方ずっとのことで、この先もずっとそうなのだと思っていた。
 でも少しだけ、薄々自分でも気づいていた。ディジタルとはすなわち孤独だ。核家族社会は僕には寂しすぎる。
 何に対する羨望かはわからない。ただ、久方ぶりにアナログな芸術・表現に出会って、僕が南三陸町の様相のインストラクションを受けてまっさきに考えたことは「田舎に移住したい」だった。
 現実にはそんなことは不可能だ。でも、例えば旅行をして、その場所を訪れることはできる。僕にその感慨を植え付けたその地で、何が起きたかを知ろうとすることはできる。恐らく、人生はそういうことの繰り返しだ。或いは、そういうものの積み重ねが僕の人生で在って欲しいと、僕は僕に思っている。



4.余談


 南三陸町東日本大震災伝承館には、あのみんな大好きクリスチャン・ボルタンスキーのインスタレーションがあるらしい。
 いつか、本当に行ってみたいですね。


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