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幻の焼肉屋


鎌倉には、幻の焼き肉やさんがあった。
鎌倉駅を降りると、ほどなく「小町通り」という名前のにぎやかな通りがある。
観光客目当てのおみやげやさんやお食事処が
ひしめきあう場所だ。
小町通りをまっすぐに歩いて前方、左の角に傘やさんが見えてきたら、そこを左に曲がる。
まっすぐに歩いていると、ちいさな踏切が見える。
その踏切の真ん前にその「焼き肉や」さんはあった。
ちいさな白い建物はすこしすすけたマッチ箱のようでふるぼったい引き戸のドアがぴっちりと閉まっていた。
そこにはそっけのないのれんがかかっていて、
なにやさんかまったくわからない外観から、香ばしい良い匂いが漂っていた。
古いドアについた窓から中をのぞいてみた。
中にはカウンター席が4席ほどあり、その後ろにテーブル席が2つほどあった。
すでに1組の家族が食事を楽しんでいる。
雰囲気に惹かれ、意を決して古ぼけた引き戸を開いた。
中にはおばあちゃんが二人いて、ほかには店員さんらしき人が誰もいない。
二人とも白い割烹着を着ている。
一人は少しふくよかで、髪は年の割には黒々としている。
もう一人は、細身で耳下くらいの白いおかっぱ頭だ。
たぶんこの店を切り盛りしているのは、ふくよかな方のおばあちゃんだ。
注文を取りにきたのは、細身のおばあちゃん。
にんまりと笑いながら、ご注文は?とつぶやく。
とりあえずビールを頼んだ。
細身のおばあちゃんはビールを運びながら
細い目をもっと細め茶目っ気たっぷりに話しかけてくる。
どことなく私のひいおばあちゃんに似ていた。
ひいおばあちゃんがぼけてしまったあとの顔に。
茶目っ気おばあちゃんが突然、2本目の瓶ビールをもってやってきた。
カウンター内で忙しく立ち振る舞うふくよかなおばあちゃんに背を向けて、人差し指で「しー」のポーズをする。
勝手にビールを振る舞ってくれて、私たちは困惑したけど、ふくよかなおばあちゃんはそれもすべてわかっているようで、ただ黙ってたんたんと、おもちのように白くてふっくらとした体を揺らしながら忙しく動いている。
韓国風の味噌汁が、このお店の一押しで、たっぷりの野菜が入った味噌汁なのだけれど、どこかぴりっとした辛みがある。
店内を見回すと、さっきまでいた家族連れがいない。
私達だけになったちいさな店内で、カウンター越しにふくよかなおばあちゃんが話してくれた。
おばあちゃんたちは80歳に近いということ。
戦争時代に青春まっただ中の彼女たちが、毎日生きるか死ぬかを繰り返していたこと。
空を飛ぶB29を目で追いかけながら暮らしたことなどを、ゆったりとした口調で話してくださった。
結局この焼き肉やさんにいったのは、この日を含めて2回だけ。
ある日突然なくなってしまった。
まったく忽然と。
跡地にはこじゃれた雑貨屋さんが立っていた。
あれはまさしくまぼろしの焼き肉やさんだ。
夢みたいに忽然と現れて、夢みたいなおばあちゃんが2人きりで切り盛りする。
あれは夢だ。
でも夢だけじゃ食っていけない時代を生き抜いた人たちのお店だった。
今でも幻の焼き肉屋の跡地をみるたびに
白い割烹着をきた二人のおばあちゃんがそれぞれの在り方で存在していたあの夜を思い出す。

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