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Every version of you

アメリカのドラマ「This is us」が好きで好きでたまらない。
それは取り留めのない家族の物語。
大冒険も大脱走も宇宙人も魔法使いもでてこない。ささやかな日常を描いただけのドラマだけど、観るだけで自分の気持ちが波打つように押し上げられて身体を突き破り、しぶきになってシャワーの如く降ってくるみたいな抑揚と幸福を感じる。
この物語が紡ぎ出すピアソン家の全てが愛おしい。
そしてこの物語は「視線」の物語でもあると思う。

母親のレベッカが息子のランダルと過ごす1日。
人生の最終章を生きる年老いたレベッカと、少しづつシワや白髪が増えてきた中年のランダルの小さな旅。
レベッカが今のランダルと一緒に引き連れているのは、生まれてから今まで全てのランダルだ。
大人になった息子の一挙手一投足が、母親にとってはあらゆる年代の彼を彷彿させる。

並びながら歯磨きをしている中年の息子を横目で盗みみる時、彼女の隣には10歳の彼が歯を磨いている様がありありと見えている。
あの小さかった息子の背丈は彼女をとうに追い越してしまった。おまけに白髪混じりの髭まで生えている中年の彼が、隣で歯を磨いている不思議と、小さな彼が今なお色褪せることなく彼女の側に存在し続ける不思議。

当たり前のことかもしれないけど、そんな当たり前の中にある奇跡のような、奇跡と呼ぶには大袈裟だけれど、決して見下してはいけない類のwonderがこの物語にはたくさんたくさん詰め込まれている。

今のレベッカとランダルの旅には、始終「終わり」が近いことの不穏さが幅を効かせてこちらを睨みつけているのだけれど、過ぎ去った日々は「過去」として古びた化石みたいに彼らの足元に転がるのではなくて、むしろ遠く過ぎ去った日々は、光を強く帯びながら彼らを取り巻くから、過去は「思い出」という宝物になって、また新たに彼らに寄り添うのだ。それもより一層優しく、そして切なさを伴って。

そんな「思い出」同伴の旅の中で、今=現在は、何重にも何倍にも膨れ上がり、豊かな表情を持つようになる。


過去に囚われるなとか、過去に縛られずに今を生きなさいとか、私たちにあるのは今だけだから、などと言われるようになった昨今だけれど、本当にそうだろうか。
もちろん今にフォーカスして全身全霊をかけて生きることは素晴らしいことだと思う。
だって私たちは確かに今この時を生きているから。
けれど一瞬一瞬を生きることは、つまり一瞬一瞬が過去に変わっていくということでもある。
振り返る時間もなく、時は光のスピードで私たちの後ろへと流れていく。捉えることのできない時間をどうにかして私たちは捕まえることができないだろうか。
逆説的だけれど、今を生きるということは、次々に過去になっていく瞬間を握りしめて進むことなんじゃないかなとも思う。
そしてその過去を握りしめることこそが、時間を捕まえることなんじゃないかなと。

次々に捲られ続けるページを巻き戻すように、時々パラパラと捲り返す。それは過去へと私たちを運ぶ旅。隣にいる中年の息子と、母親のめくり返したページが合わさった時に、過ぎ去った過去のランダルが、彼の思い出と共に寄り添うように彼女の目の前に現れる。
視線を気づかれぬようにそっと相手に落とし、そこに思い出を重ね合わせる時、優しい気持ちになったり、懐かしく胸が締め付けられたりする。
こんなにも「視線」の交差する物語を私はみたことがない。
相手を見つめる優しい視線や、相手を慈しむ視線、憂いを帯びる視線。そしていつもそれらの視線と共にある、「過去」という宝物。その宝物を大事に抱えながら「今」を生きる家族の物語。
誰も知らないところで、誰かが誰かをそっと見つめている。

去年の秋に私は娘を産んだ。
コロナ禍で付き添いもない中、帝王切開で赤ちゃんはあっという間にこの世界へとやってきた。
産む前も後もお医者さんと看護師さんにしか会えない入院生活の中で、ママからの手紙が届けられた。
1人病室で読んだ手紙の最後の一行で、私は降り止まない雨みたいな涙をざーざーと流しながら嗚咽した。

「張り裂けそうなくらい大好きです。」

世界一大好きとか愛してるとか、もっと大袈裟で壮大な愛の言葉はいくらでもあるはずだ。
けど張り裂けそうってなんだ?

そこには私たち家族の物語が、そう遠くはない未来に最後の章を迎えるであろう切なさも混じっていて、私はそれこそ張り裂けそうに嬉しく、そしてとてつもなく切なくなった。
色味の違う気持ちの束をどうにか一個にまとめて、瑞々しい感情の花束のグラデーションをなぞる。
また涙が溢れてくる。その繰り返しの夜だった。

そして最近気づいたのだ。
娘を抱きながらあやしている時やお世話をしている時、誰かの視線を感じる。ふと目を上げるとママが私を見つめている。
私を見つめながら何を思っているのかな。どんな年代の私が彼女に寄り添っているだろうか。
視線と共に、過去が、思い出が、そして何パターンもの私が、彼女にそっと触れて撫でて、私は私のお母さんを幸せにできていたらいいなぁと思うのだ。
そして私の視線はこれからの日々、私の娘に100%注がれ続けるだろうと思う。
1歳の娘、10歳の娘、20歳の娘、30歳の…どのバージョンの娘が未来の私に寄り添ってくれるだろうか。
誰かの視線と共に、素晴らしく愛しくてかけがえのない「思い出」と言う宝物も付随して私たちを照らしてくれるだろうか。
「This is us」を観ながら、そんなことを思った。





















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