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Motherhoodについて考えた

「How is motherhood?」

メキシコに暮らしている友人のガビーから
メッセージが届いた。
ん?motherhoodとはなんぞや?
childhoodなら知ってるんだけどな。
メキシコで多少なりとも英語を学んだにも関わらず、お恥ずかしいのだけど、今まで生きてきて42歳まで「motherhood」なる単語に出くわしたことがなかった。
調べてみたら、「hood  」には、状態、性質、集団を表す意味があるらしい。だからよく使われるchildhood は、子供である状態のこと、すなわち幼少期と訳す。
motherhood は、どうだろう?
母親である状態のことだから、母親期なのかな。
とにかくガビーは、母親であることはどう?って質問をしてきたんだなと理解した。
母親であること、母親、母性。

子供を望んでいた数年前までは、自分には縁の無かった単語だった。
でも今の私はどの角度からみても娘の母親で、母性を目の前に掲げながら歩く、正真正銘「お母さん」なんである。

幼少期には終わりがあるなって思う。
ずっと子供じゃいられなくて、否が応でも、
自分を取り巻く雑多な事情が、日々の成り立ちを大人の色に変えてしまう。
子供である状態は、知らない間に消えてゆく。
煙みたいにもやんとした場所から、やけに落ちついた色味の現実へと引っ張っていかれ、
床のシミや剥がれた壁紙を目の前に突きつけられる。
動揺と共に季節を過ごしたあと、私たちは大人になる。
どんなに幸福な子供時代を過ごしたとしても、
終わりが必ずやってくる。

反対に母親であることはどうだろう。
これには終わりがない。と言うよりは、終われない。母親は子を産み落として、少しづつ母になっていく。生まれた瞬間から煌然と輝きを放つ母性炸裂の女神のような母親もいるけれど、わたしはきっと前者タイプで、毎日毎日、ほんの少しづつだけれど母親になっていくような気がする。子供が赤ちゃんから幼児、少年少女や成人になって、しまいにはお腹なんてぷよぷよの中年や、白髪が混ざる年になっても、母親にとっては、死ぬまで子供のまんまなんだよね。
当たり前のことかもしれないけど。
子供である状態は過ぎ去っていくけど、母親である状態は過ぎ去らない。

いつもの居酒屋で中年の息子と70歳過ぎた母親の2人と、カウンターで隣同士になった事がある。息子は酔っ払い声高々に喋っている。「俺は脳梗塞やっちゃって、手足が不自由なの。」呂律が回らない口調で、私たちに話かけてきた。
隣にいる母親は、息子のおっきな身体とは正反対の小さくて華奢なおばあさんだったけど、息子に寄り添うように静かに笑いながら、目の前に出されたつまみをちまちまと食べている。
「母ちゃん、明日のごはんは何にする?
あそこのさ、刺身がおいしいよな。」
母親は意見を言うでもなく微笑んでいる。
酔いが回るにつれて息子はヒートアップしてきて、過去に恋人を連れて行ったら母ちゃんたちに反対されただの、母ちゃんへの愚痴もこぼし始めた。
ヒートアップする息子を尻目に、母親は相変わらず静かに笑っていた。
「よし、次に行くぞ」
息子が立ち上がり、歩き出した瞬間にバランスを崩した。ベロンベロンだから仕方がないのだけれど、身体も不自由なのだから、余計に不安定なのだ。
私たち周りにいるみんながひやっとしたけれど、とっさに母親が倍以上あるであろう息子の身体を一人で支えてしまった。
何のことはない、無事だった。
今思えば、息子があまりにもかわいくて不憫で仕方がなかったのか。
母親は彼を守りたい一心だった。
鍛冶場のくそ力ってのはこれのことなんだなと感心してしまうくらいに、母親のくそ力を見せつけられて、子供がいなかった私はとっても感心してしまった。
これから姉ちゃんのいるバーに行くと言う息子を車に乗せて母親は走り、車の中で彼の帰りを待つらしい。

殊更に美しくもない話だし、世間からみたら、なんてだらしのない息子にかわいそうな母親という見方が出来ないわけでもない。
だけど、私はなんだか感動してしまったのだ。

あんなに年老いた母親が、瞬間瞬間に生きているのはきっとあの息子のおかげなのだもの。

居酒屋で息子と隣に腰掛けながら、まだ息子に「母ちゃんはさー」と言われる幸福。
明らかに息子は「母ちゃん」を必要としているのだ。
彼の中にあったchildhoodはもう過ぎ去った。一端の顔をして母ちゃんを叱ったり、自分の仕事を語ったり、愚痴をいったりする彼は、大人の世界の荒ぶる波に飲み込まれてしまった。
一方母親は未だにmotherhoodの状態にある。
母親であるという状態をずっとずっと維持してきた母ちゃんの折れ曲がった小さな背中は、私からしたらおっきな背中に見えた。

どんな状態も必ず変化していくのにも関わらず、頑丈なまでに変わらないのは、もしかしたら母親という状態しかないのかもしれない。
幸せだって不幸だって、状態の事だから、次の瞬間には手のひらを返されてしまうかもしれないけど、母親だということには、終わりが見えない。
Babyhood Girlhood Boyhood Adult hood
様々な「状態」を経て、私たちは確固たるhood=状態に辿り着くのかもしれない。

私は私のmotherhoodをどう生きよう。
小さな自分を抱えながらも、それでも鍛冶場のくそ力(母親のくそ力)が私にも備わっていたらいいなと切実に願っている。















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