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国への愛にピンとこない28歳のライターがナショナリズムを考えてみた話

「議員になるのは純血の日本人がいいよ」

親類の集まりでふと親戚がこぼした言葉に、言いようのない気持ち悪さを覚えた。ちょうどその数日後には、「100%日本人である自身」というあるスポーツ選手の発言が批判を浴びていた。

こういう言葉を見聞きするたびに、わたしはナショナリズムの力を感じて、複雑な気持ちになる。ここでわたしが考えるナショナリズムとは、自分の生まれ育った国への愛や帰属意識のようなものだ。

もちろん、ナショナリズムにはいい面もあるし、ナショナリズムが人種的な差別と必ず結びつくわけではない。でも、そうした言説の背景に、ナショナリズムがあることは確かであるように思う。

とはいえ、今回ここでしたいのはナショナリズム批判ではなくて、わたしの心にずっとある疑問の答えを探ることだ。それは「なぜただ偶然生まれただけの場所に、そんなにも愛着が持てるのだろう」という疑問。もっと言えば、「なぜわたしは自国に愛着を持てないのだろう」という疑問だ。

わたしの親類にしろ、件のスポーツ選手にしろ、そのアウトプットの形が歪んでいるようにわたしには見えるけれども、きっと日本への愛とか誇りがあるからこそ、ああいう発言が出てくるのだと思う。

それはきっと、わたしからは永遠に出てこないであろう言葉だ。それは単に差別に反対だからというわけではなくて(もちろん差別には反対しているけれども)、そんな言葉を発するほど、ただ偶然生まれただけの国にそんな強い想いを持てないからだ。

ナショナリズム研究の古典とも言える『定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』で、著者のベネティクト・アンダーソンはこう書いている。

偶然を宿命に転じること、これがナショナリズムの魔術である。

『定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』 P34 /書籍工房早山

どうやら、わたしにはこの魔術が効きにくいらしい。この愛国心の希薄さはわたしにとってアイデンティティでもあり、コンプレックスでもあるように思う。

別にこれが自分だし、今さら愛国心を持ちたいとは思わないけれど、スポーツの大会で盛り上がっているのを見たり「日本人として〜」みたいな発言を耳にすると、愛国心がないことに対する後ろめたさとか日本社会に馴染めてないなという劣等感を持つことはある。

後者に関しては、たまたまここに生まれただけなのに勝手に一緒に括って勝手に何かを背負わせんな!みたいな反発心もあるけども。

ところでこういう、自分に何かかが欠けてることをコンプレックスに感じながらも、欠けてるピースを埋めたくないみたいな天邪鬼さってなんなんでしょうね。

どうしてわたしはこうなったのだろう。「ちゃんと国を愛している」彼らとわたしの差は何なのだろう。

そのシンプルな疑問から、「ナショナリズムの魔術」が効く人間と効かない人間の差異を生むのは何なのかを自分なりに考えてみたので、思考の過程をここに書き残しておきたいと思う。

まずは本を読んでみた

今回ナショナリズムについて考えるにあたって、まずは冒頭でも紹介した『創造の共同体』を読み返した。といっても前回も今回も難しかったので、読み解きが甘いかもしれない。

そのせいかもしれないが、結論から言うと愛国心を持つ人間と持たない人間の差異は、明確にはわからなかった。一方で、土地や血縁と言語が重要らしいということはわかった。

この著書のなかで、ベネティクト・アンダーソンはこう言っている。

こうして、国民というものは、皮膚の色、性、生まれ、生まれた時代など―ひとがいかんともしがたいすべてのものと同一視される。そしてこうした「自然のきずな」のなかに、ひとは、「ゲマインシャフトの美」とも言いうるものを感知する。別の言い方をすれば、そうしたきずなのまわりには、それが選択されたものではないというまさにその故に、無私無欲の後光がさしている

『定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』 P236 /書籍工房早山

ゲマインシャフトとは、家族や村落など、地縁・血縁などによって自然発生的に形成した集団を指す。対義語はゲゼルシャフトと呼ばれ、学校組織や企業組織など、特定の目標の達成のために人為的に創られた集団を指すのだそうだ。

たしかに無私無欲的な純粋な絆は美しいと思う。でも選択されてないからこそ無私無欲だ、みたいなつながりはよくわからないなと正直感じたが、ここで土地とのつながりがどうやら大切らしいと理解した。

また、ベネティクトは、言語についても多く触れていた。

同じ言語を使っていることにより、仲間意識が生まれる。また、同じ出版物を同じタイミングで読んでいることによる同時性も感じられる。この「今、ここで違う誰かも同じものを読んでいる」といった同時性が、ナショナリズムにおいてはすごく重要で、そこからナショナリズムが生まれてくるのだそうだ。

では、言語と土地の縛りから人間が解放されたら、ナショナリズムはどうなるのだろうか。

もし、国籍を自由に変えられる世界だったら

ちょうどこの本を読むのと同時並行的に、「国籍を自由に変えられる世界になったら人々はどうするのだろう」ということを考えていた。

私がイメージしたのは、こんな感じの世界だ。

・20歳から30歳までの間に、これから国籍を取って永住したい国を決められる
・世界中の人が母語のほかに世界共通語(これは英語ではなくて何かまったく新しい言語)を習得しており、どこで暮らしても言語で困ることはない想定
・移動は世界のどこでも最大往復1万円程度かつ1時間程度で済む
・一度国を決めると、母国へ戻ることや他国への移住は不可能ではないが今の10倍くらい厳しくなる。(旅行や帰省はいくらでもできるけど、ガッツリ腰を据えて住むのは難しいイメージ)


これはわたしがこうなったらいいな〜と思ったことのある世界でもある。多分こうなったら、わたしは迷わずフランスに移住する。それは今のところ、自分の価値観や考えと、かの国のスローガンや歴史など国の根底にある価値観がめちゃくちゃ合っていると感じるからだ。

少し話が逸れるが、フランスに対してちょーーーすき!フランスに住む前に死んだとしても絶対にお墓はフランスに建ててほしい!!!とか思うので、とち狂ってフランスを自分のネイションと捉えて勝手に愛国心持ってるだけなんじゃない?と思ったこともある。

でも、わたしは「自由・平等・博愛」の理念ゆえにフランスを愛していて、それを捨てたら絶対に愛せないし、そこに純粋さも宿命性もあまりないように思えるので、やっぱりナショナリズムとは違うんだろうな〜と考えている。

本題に戻ると、「わたし的・国籍を自由に変えられる世界」おいては、わたしは絶対に出るけれども、意外とみんながみんなは出ていかないし、ナショナリズムも消滅しないだろうなと思った。それは日本人だけのことではなくて、世界共通ではないかと思う。

豊かさや自由を求めて人が移動し、いわゆる先進国や民主的な国では人口増加が起きそうだとは思う。でもその片側でそういうメリットじゃない何か(それこそがナショナリズムの魔術なのだろうけど)で国に残る人が一定数いそうな気がする。

いくら世界共通語ができたといっても、きっと日本語を母語とする人同士は日本語で話すし、フランス語を母語とする人同士であればフランス語で話し続けるだろう。

そうなると、結局その土地の言語を知らない人はいつまでもよそ者であり続けるし、言語が同じであることが生む同時性の効果はなくならないと思うからだ。

でも、その一方で、グローバル化もすごく進むだろう。

インターネットの影響

この文章を書いていてふと思ったのだけれど、自分の愛国心の希薄さというのは、インターネットも影響しているのではないかと思う。

ネットの世界では、それこそ同時に世界中の情報を見ることができる。わたしのように母語以外の言語を学んでいたらなおさらだし、学んでいなかったとしても今はAIが翻訳してくれる時代だ。

ナショナリズムとは、同じ場所にいないけれど、今同じものを読んでいる同胞がいると想像することから生まれてくるものだった。

インターネットによって、同じものを同じタイミングで、世界中の人と見れることになったことは、ナショナリズムの落ち着きや、愛国心の希薄性と結びついているはず。

もとの思考実験に戻ると、世界共通言語が生まれたことで、愛国心というか国への帰属意識の希薄化が起き、より多くのより多様な情報に触れられるようになることで、世界はどちらかというと地縁よりもイデオロギーでまとまっていくようになるのではないかと考えた。

友人に聞いてみた

こうしていろんなことを考えてはみたものの、いくらインターネットが普及しても愛国心や強い帰属意識を持つ人はいるわけで、結局「差異ってなんなんだよ」という疑問にはこれだという答えを出せずにいた。

そこで、三人よれば文殊の知恵的な考えで、何人かの友人・知人に、前述の思考実験のような世界だったらどうするか、聞いてみることにした。

5人くらいにしか聞いていないし、わたしの周囲の人はえてして海外志向や独立心がめちゃくちゃ強いというバイアスはあるので、それを加味してもらいたいが、結果はこんな感じ。

日本を出る:3人/出ない:2人
出ると答えた人の理由は、海外で生活することへの興味、経済の没落具合への不安、政治への不満などだった。一方出ないと答えた人は、治安面や生活の便利さを挙げていた。

ちなみに生活の便利さについては出ると答えた人も言及していた。彼女の言っていた「日本は生活しやすさはNo.1だと思うけど、生きやすさはワースト1だと思う」という言葉が強く印象に残っている。そこも「この生きにくさはどこから生まれるのか」をめちゃくちゃ掘り下げたいな〜と思うけど、それはまた今度。

あと、出ないと答えた人が特に愛着ではなくて治安とか便利さといったメリットを挙げていたのも面白かった。むしろ、みんな愛着を持っているとする前提が間違っていたのかと思ってちょっと不安になった。

三人寄れば文殊の知恵を体感

そして、日本に残ると答えた友人に「愛着で残るとかはないの?」と聞いてみたところ、こう答えてくれた。

「愛着はないね。田舎嫌いで都会に出てきたくらい地元にすら愛着持ってないのに、国みたいなより大きいものにはなおさら愛着湧かないわ

この返信を見た時、「え、それじゃん」と思って、こんがらがったネックレスのチェーンを解く糸口を見つけたみたいな気持ちになった。ていうか、逆になんで気づかなかったのか謎すぎる。バカすぎて義務教育を100周くらいしたい。

で、そこから友人と話していて、地元を出ているか出ていないかも関係していそうだよねという話になった。たしかに、転勤や積極的でない理由で地元を離れた人は別として、わたしや友人のように地元以外の土地で暮らしたくて地元を離れた人は愛国心が希薄な傾向にありそうだ。

あとはたとえば運動部のようなチームで何かを頑張る経験や、クラスを率いたような経験を持っていて、かつそれが好きな人というのは、集団への帰属意識を感じやすいはず。つまり国への帰属意識も高くなりがちなのではないか、という話もした。

そういう話をしていて、じゃあいわゆる陽キャっぽい人より陰キャより、というか一人でいるのが好きな一匹狼的な人は愛国心希薄な傾向にあるのかな〜とかもぼんやり考えた。チームをはじめとする他の領域に対して帰属意識が低い人が、国にだけ帰属意識めちゃくちゃあるということは考えにくい気がするので。

そしてそれに紐づいて、フリーランスの方が愛国心の薄い人は多そうだな〜とも思ったりした。性質上、帰属意識が生まれにくい働き方であることと、先ほどの思考実験で国を出ると答えた3人のうち2人が特定の企業に所属していないことがそう思った理由だ。

こうして、下記の3点(と数多の何か)が作用して、自分の愛国心のなさを生んでいるのでは?、そしてそう考えると下記に当てはまる人は愛国心や国への帰属意識が弱い傾向にあるのでは?という仮説ができた。

  • 進んで地元を出て暮らしたことがあり、特に戻りたい思いもないこと

  • フリーランスであること

  • チームで何かをした経験が少ないこと

一定の仮説は立てられたけど、これが本当に関係しているのかバイアスのないデータを集めて検証するすべがないのでしばらく仮説のままになりそうだ。でもめちゃくちゃ検証したい。もしかしたら先に検証している人はいるかもしれないけど、わたしには見つけられなかったので、これに関する研究や本あれば教えてください!

おわりに

ここまでグダグダ考えてきたけど、ナショナリズムが気になるくせにあまり文献は読めていないので、とっくに研究されていることかもしれないし、めちゃくちゃ的外れかもしれません。書いてる途中でインターネットとかいうめちゃくちゃすぐわかりそうな発見するし。なんなのわたし。

それにそもそもの「自分はナショナリズムに馴染めない」みたいな話からして、ナショナリズムなんてただの近代以降にできた文化なのに、それに馴染めないことに対してある種のコンプレックスを感じて、こうしてウジウジ考えていることが、すでにナショナリズムに囚われているのかもしれない。

なんならわたしが勝手に愛国心なくてナショナリズムに馴染めない!と思っているだけで、専門家の人から見たら「君のそれもナショナリズムだよ」みたいなこともあるかもしれないけれども、一旦わたしのここ最近で考えたことをまとめてみました。

ナショナリズムについては、冒頭引用した『創造の共同体』しかまだちゃんと読んだことがないので、いろんな本を読んだりいろんな話を聞きながらさらに考えを深めたいな〜と思っています。

今回も友達の発言で「うわ、それじゃん」ってなったし。なので、さっきも書いたけど、これについて「わたしはこう思う!」とか、「そのテーマならこんな本や研究あるよ」とかあればなんでも教えてください〜〜

12月からフランスに行きます!せっかくフランスに行くのでできればPCの前にはあまり座らずフランスを楽しみたいので、0.1円でもサポートいただけるとうれしいです!少しでも文章を面白いと思っていただけたらぜひ🙏🏻