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人間であることの超越とダンディズムと

久しぶりに、ある人のことが頭から離れなくなった。

『ジャック・リゴー 遺稿集』(エディション・イレーヌ)を読んでから、彼のことばかり考えている。一旦は最初から最後まで目を通したので、本棚にしまってもいいのにしまえない。

ここで目を通したと書いたのは、濃すぎてきっと全然理解できていないので、読んだと言えない気がしたからだ。これはどの本でも多かれ少なかれそうなのだけれど、本書においては特にそう感じた。

全然読めていないし、そうでなくとも、リゴーのテキストと離れるのが嫌で本棚にしまうことができない。毎日のように読んでる。

ジャック・リゴーとは、フランスのダダイストだ。

WW1への抵抗や、大戦が喚起したニヒリズムを根底に持っており、既成の秩序や常識に対する、否定、攻撃、破壊を志向するダダイズムの詩人として活動したのち、ダダを離脱。20歳の頃から自殺を標榜していたが、1929年、30歳でいよいよ自らの銃弾により「周到に予定された」自殺を遂げている。

彼のテキストに触れることになったきっかけは、友人である脱輪さんからの勧めだった。そして勧められるままに読み、ブッ刺さりどハマりしてまったわけである。

文章から感じられる彼の緻密な思考、皮肉の効いたユーモア。代表的な文章である『自殺総代理店』はかなりブラックユーモアが効いていて、とても好みだった。そして言うことがいちいちかっこいい。一番好きな言葉がこれだ。

とびきりの破滅を予約したまえ。

『ジャック・リゴー遺稿集』(p113)

このセリフからして、ダンディズムの権化でしかない。ちょーーーーかっこいい。

彼の遺稿集を読み、彼の残した文章、生前の振る舞い、その予定通りの死まで含めて、すべて緻密に計算された演出のように感じた。ここまで完璧な装いではないけど、葉蔵にも通ずるところがあるように思う。

ともあれ、死によって彼のダンディズムと人生は完璧に完成したのだ。彼の「私は大いなる死者とならん」という言葉どおりに。

そしてわたしがリゴーに惹かれる大きな理由が、彼が人間の本能を超越したことだ。

わたしはかねてより人間という生物に備わった動物的な本能がどうも苦手で、理性では間違いだとわかるのに抗えない認知バイアスとか、合理的に判断をする上での生物上の壁を感じるたびに少し萎え、こうした本能という名の「人間であることの鎖」を解き放って、人間であることから自由になりたいと思っていた。

そこにリゴーはやってきて、もっとも強い本能であるはずの死への恐怖を理性で叩き潰してみせた。ように見えた。

彼の死は、苦しみによるものでも、未来への絶望によるものでも、狂気に唆されたものでもない。わたしには彼の論理を完全に理解することはできていないけれど、自分の存在に対する答えとして、非常に論理的に判断されたゆえに選択された死のはずだ。

同時代の詩人アンドレ・ブルトンはリゴーについて書いた文章のなかで、以下のように語っている。

人生に与えられた最も美しい贈り物、それは生が私たちに許してくれた、自分が選んだときに生に別れを告げられるという自由である。

少なくとも論理的につじつまが合うこの自由は、人間の臆病さや、人間が引き起こすあらゆる必然性の罠、それは自然的必然性と余りに曖昧で一貫性を欠いた関係にあるのだが、そうしたことに対して飽くなき戦いを挑むことによって、辛うじて勝ち取られるに価する自由なのである。

『ジャック・リゴー遺稿集』(p9)

わたしはこの美しい贈り物としての自由を行使できる人間になることを希求し続けてはいるものの、飽くなき戦いに敗北し続けている。この自由を獲得できる日が来る気がしない。

別にこの世界に絶望しているわけでも特に辛いことがあるわけでもないが、いつまで生きるかわからないのはゴールのないプロジェクトと同じで計画が立てづらいし、期限があるからこそ物事は楽しいし、何より自分の命は自分で始末したい。病気、戦争、他者、これらの何ものかに始末される前に、自らの手で始末したい。自分が好きすぎるから、自分で死にたいのだ。

そんな考えで、あとあれとこれをすれば満足だから何歳くらいかなとぼやっと考えているのに、どうも死への恐怖(厳密には無への恐怖)が拭えない。小さい頃から無、何も知覚できなくなることへの恐怖があって、毎日のようにうっすら怖がっている気がする。

それゆえにどうせ自分はその日を先延ばしにし続けるのではないかという確信に近い予感と、そんな自分の弱さへの諦念が日に日に強くなるなか、そうしたものをすべて理性で超越したかに見えるリゴーは、とてもかっこよく見えてしまった。人間なのに人間に定められた本能を超えている。しかも人間の美徳である理性によって。

シオランのことは大好きだけど、あれだけ生を呪いながら生き続けたシオランと対照的だ。わたしもシオラン側の人間に違いない。もっとも、わたしに文学的才能はなく、あんなに素晴らしいテキストは残せないので、シオランくずれにもなれない、おおまかに分類すれば同じ側に属するものの、実相はまったく異なるただの愚か者とかそんな感じだけど。

と、これまで長々と書いてきたけど、要するに自分がしたいけどできそうもないことをしていてリゴーがかっこいい、という非常に陳腐な話に思えてきた。

ともかく、こうやって「リゴーかっこいいなあ」、「また今年もリゴーの歳を超えてしまった」とか考えながら無の恐怖ゆえに何もできず生き続けて何者かによって死ぬのかもしれないのかと思うと、自分の意気地のなさに陰鬱な気持ちにしかならないが、所詮わたしごときはただの人間らしい。でも美しき贈り物である自由のための戦いはやめられないので、ゆるっと自由を勝ち取るための飽くなき戦いを続けたいと思う。

最後に、めちゃくちゃかっこいいので読んでください。


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