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「毒になる親」を読んで

スーザン・フォワード「毒になる親」、長らく読み進める力が出ず、積読してましたが、年明けようやく読み終えて、自分自身とても学びになりました。個人的備忘録としてメモ・要約を記します。



私たち人間にとって、子育てというのは決定的に重要な技術を必要とする仕事のひとつなのだが、残念なことに、ほとんどの家庭においては経験から学んだ勘を頼りに手探りで進んでいかなくてはならないのが実状だ。

この分野の研究が進んだのはごく最近のことであり、私たちの親の世代までは、子育ての方法については、ほとんどの場合あまりそれが上手ではない人々、つまり彼ら自身の親から学ぶ以外になかったのである。
私たちは親が自分を育てたやり方を見て気づかない間に学び、自分に子供ができた時には無意識のうちにその多くを模倣してしまう。

研究によって「家族」というのは単に血縁者が集まっただけのものではなく、ひとつの”システム"であるということがわかってきた
どういうシステムかというと「一人ひとりのメンバーが複雑に結びつき、それぞれがお互いに根本的な、しかし表面的にはよくわからない影響を及ぼし合う集まり」というものだ。
すなわちこの集まりは、愛情、嫉妬、誇り、不安、喜び、罪悪感、など人間の持つさまざまな感情が、最大の振り幅をもって潮のように満ちたり引いたりする、複雑なネットワークなのである。
子供はそこで教えられた通りの見方で世界を見、その体験をもとに「自分はだれなのか」「自分を取り巻く世界はどういうものか」「他の人間にはどのように反応し行動したらよいか」などのことを判断していく。

親の義務
1.親は子供の肉体的なニーズ(衣食住をはじめ、体の健康に必要としていること)に応えなくてはならない。
2.親は子供を、肉体的な危険や害から守らなくてはならない。
3.親は子供の精神的なニーズ(愛情や安心感、常に注目していてやることなど、心の面で必要としていること)に応えなくてはならない。
4.親は子供を、心の面でも危険や害から守らなくてはならない。
5.親は子供に道徳観念と倫理観を教えなくてはならない。

この世に完全な親などというものは存在しない。どんな親にも欠陥はあり、だれでも時にはそれをさらけ出すことはあるものだ。
どんな親でも一日二十四時間子供に気を配っていることなど不可能だし、時には大声を張り上げてしまうこともあるだろう。
それに、時には子供をコントロールしすぎることもあるだろうし、たまになら、怒ってお尻を叩くこともあるかもしれない。  
そういう失敗をしたら親として失格なのかといえば、もちろんそんなことはない。
親といえども人間だし、自分自身のことでもたくさん問題を抱えているのが普通なのだ。
親子の間に基本的な愛情と信頼感が十分にあれば、たまに親が怒りを爆発させることがあっても子供は大丈夫なものなのである。  

ところが世の中には、子供に対するネガティブな行動パターンが執拗に継続し、それが子供の人生を支配するようになってしまう親がたくさんいる。
子供に害悪を及ぼす親=毒親とは、そういう親のことをいう。

「毒になる親」の場合は、ひとことでいえば考え方が常に自己中心的で、何事も自分の都合が優先する。
自分の考えが間違っていることを示す事実には必ず抵抗する。
そして自分の考えを変えるのではなく、自分の考えに合うように周囲の事実をねじ曲げて解釈しようとする。

彼らは「常に自分の都合やニーズが子供のそれより優先する自己中心的な人間で、愛情というものが決定的に欠けている」

彼らは自分自身の行動や欠陥の責任から逃れるために、以下の手をつかう

事実の否定
①そんな問題は起きていない ②問題はあったが、それは今後もう起きない または そんな問題は大したことではない

問題のなすりつけ
①能力の不足など自分自身の問題を、相手の問題に転嫁して責めること ②自分が救いようのない状態になっているのは自分自身の抱えている問題のせいなのに、その原因として相手を責めること

健康な家と「毒になる家」の最大の違いは、家族のメンバー一人ひとりにどれほど個人的な考えや感情を表現する自由があるかという点である。
健康な家庭では、子供の個性や責任感や独立心などをはぐくみ育てようとする。そして子供が「自分は人間としてそこそこの価値はある」と感じ自尊心を持つことができるように励ましてくれる。

私たちはだれでも、子供の時に親から心に「感情の種」を植えられる。
そしてその「種」は、本人が成長するとともに芽を出し成長していく。それは、ある親子にとっては「愛情」、「他人を尊重する心」、「独立心」などに成長する「種」であるが、そうでない多くの家庭においては、「恐れる心」、「不安感」、「過剰で不必要な義務感」、「罪悪感」、「いくらやっても不十分な気分」などに成長する種である。
植えられた種は、あなたが成長するとともに心のなかに根を張る雑草となり、いまではあなたが夢にも思わなかったような形で人生のさまざまな局面に侵入しているからである。その雑草はあなたが気づかない間に生え広がって、対人関係や仕事や結婚生活を危うくさせる原因となっているかもしれない。少なくとも、あなたはその雑草のおかげで、一人の人間として存在していることへの自信が持ちにくくなっていることは間違いない。

人生のシナリオは、たとえそれが子供の時からしみついた意識によって書かれたものであっても、その多くは書き換えることが可能なのである。だがそのためには、まず「無意識のうちに抱いてしまう感情」「自分の送っている人生」「自分が信じていること」などのどれほどが、自分が育った「家族というシステム」によって作り上げられてきたのかを知る必要がある。
ここでひとつ忘れてはならないのは、親にもまたその親がいるということだ。(ゲーム〟に勝つための唯一の道は、その〝ゲーム〟をしないことなのである。)

今までの人生ですでに身につけてしまっている生き方のパターンは、それがよくないからといってもそう簡単にすぐ変えられるものではない。まずは有害な「考え方」と自滅的な「行動」を変えることから挑戦を始めるべきだ。だが、本来の自分を回復するには、自分が一体何者なのかをよく知る必要がある。

常に100%本当の自分でいられる人はない。人間は社会的な生き物であり、他人の同意などまったく必要でないということはありえないからだ。感情的に他人にまったく依存していない人もいないし、そうなりたいと思う人もいないだろう。人とオープンにつき合っていくには、ある程度の相互依存は必要なのである。

「本当の自分でいる」ことには柔軟さが伴わなければならないのは当然である。なにごとも自分の自由意志で選択してそうなったと思えることである、つまり自分に誠実であるということだ。「自分にはできない」実際には自分の意思で「しないでいる」のだということをはっきりと自覚してほしい。選択してそうしているのか、それともそうでないのかの二つには、大きな違いがある

感情というのは正しいとか間違っているとかいうものではなく、ただそういうものがそこに存在しているという事実があるだけなのである。それはあなたの一部分であり、あなたが人間であることの証拠なのだ。

人間として真に成長するのは平坦な道のりではない。上り坂もあれば下り坂もあり、進んだり戻ったりすることもあるだろう。たじろぐことも、ためらうことも、間違いを犯すことも当然あると思っていたほうがいい。不安、恐れ、罪悪感、心の混乱、などといったものが、永久に完全になくなるということはあり得ない。そういうものがないという人間はこの世に存在しないのである。だが、あっても、もう左右されなくなる。これがカギなのだ。

 今後、二十一世紀には、「心」や「感情」の問題が人間にとってますます重要な課題となってくることは間違いない。
国の将来も、ひいては人類の将来も、一人ひとりの人間が「毒」で「汚染」されない「心」や「感情」を持つことができるかどうかにかかっている、と言ったら、大げさだと笑われるだろうか。私にはどうもそのように思えてならない。

少しでも多くの人々がこの問題について関心を持たれ、理解を深められることを願ってやまない。

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