誕生日にそわそわするのは、遠慮とか申し訳なさが原因じゃない
昨日は会社で、今日は日刊かきあつめメンバーが、それぞれ誕生日を祝ってくれた。ケーキを食べたりプレゼントをもらったり。とても嬉しかった。嬉しかった、はずなのだけれど、しかし落ち着かないのも事実だった。
「なんだか祝われるのは落ち着かない」という話をその場で数名のライターにしてみると、「分かる気がする」と一部で共感を得られた一方で、「むしろ自分から『祝ってくれ』と伝える」という意見もあった。
この差は一体なんなのだろう。
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人を祝うことにためらいはない。つい先日も、同僚のサプライズバースデイパーティを成功させて、感涙する姿を見てみんなで喜びを分かち合ったところだ。
祝われることに抵抗はあっても、「祝う」という行為そのものになじめない訳ではない。
だのに、なぜ自分が祝われる側になると途端に戸惑うのだろう。遠慮、申し訳なさ、いたたまれなさ、いろんな気持ちがないまぜになって、そわそわしてしまう。
じゃあ「祝ってほしい人」は、そういった気持ちが一切ないのかと言えば、それもきっと違うだろう。祝われることに抵抗がない人のことを、図々しいとは思わない。
むしろ彼らは、何かがあったときに「率先して祝える人」なのだと思う。「お祝い」はして当たり前のことであって、「祝う」「祝われる」にあまり差がない、ように感じた。たまたま今日の主役が私だっただけで、別の日は別の誰かが主役になる。それだけのこと。
私は、「人を祝うことにためらいはない」なんて考える余地がある時点で、「お祝い」に対して一歩引いてしまっているのかもしれない。
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なんとなく、「祝うこと」と「褒めること」は似ている気がする。「祝われること」に抵抗がない人は、「褒められること」にも抵抗がなく、同様に「率先して人を褒められる人」だと思う。我ながらちょっと説得力がある気がする。
うん、来年の誕生日にそわそわしてしまわないように、今年はもっと素直に人を褒められるようになろう。
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