マイナスイメージへの耐性

弱者男性、非モテ、コミュ障、KKO(キモくて、金の無い、おっさん)、
これを自らに当てはめて言う日本人がいる。
ときに、自分がそう言われていても、そのまま受け止めて話を続ける人たちがいる。

「すごいな」と思う。すごくマイナスイメージへの耐性がある。

まあ、「実るほど頭が下がる稲穂かな」の日本だからでもあるのだろうけども。
当人たちには自己イメージよりも、もっと大切なものがあって、それは、安心であったり、安全であったり、安定であったり、変わらない日常であったり、小さな幸せであったり、そういうものなのだと思う。
もしかすると、この流れの中で、「手鍋(てなべ)下(さ)げても」という言葉が復活するかも知れないと思うほどである。


なぜそんな「すごい」と思うのかと言うと、
これが、イメージで周りとの関係を構築するアメリカなら、自分のことをマイナスイメージで語れないであろうからだ。
日本のように「(成功できなくとも)貧しくとも幸せ」とはアメリカでは行かない。「手鍋」なイメージは受け入れられない。
だから、今、アメリカで一部の人が吹き上がっている。自分に結びつくマイナスイメージ(成功できない自分のイメージの欠落)を受け止められない人が他人に攻撃的になっている。
こういうことは以前にもあった。例えば、日本の高度成長期に『ジャパン・アズ・ナンバーワン』なんて本が出て、そのころのアメリカでは反日的な動きがあった(いわゆるジャパンバッシング。日本車が破壊されたりした)。
あれって、超大国アメリカという自分のプラスイメージを傷つけられたアメリカ人の怒りであったわけで、
私から言わせると、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』も今で言えば、燃えている火に燃料を投下する炎上商法の一種であったのだと思う。少なくとも著者(社会学者エズラ・ヴォーゲル)はアメリカ人が本の題名を見て、どう受け止めるか分かっていたはず。

イメージが重要な、自分MAXの国、アメリカであれば、最近日本で見るような、自分をマイナスイメージで語るような(語らせるような)ことは、できないのでは? なんて想像している。

アメリカ人は親しい人を褒めるそうだ。これは、自分の欲しいものを相手に与えているのだ。
これが日本人の場合だと、親しい相手に安心や安全を提供する。それが自分の欲しいものだから。
一番先に求めるものが違う。価値観が違う。

昔見たヒーローものの映画の中で、ナイスガイな主人公をコンピューターを使って助ける脇役が「僕はネット世界のカーボーイなんだ」と自分をプラスイメージで語って、ヒロインがあからさまに嫌な顔をする場面があったが(記憶で書いている)、
どのような状況であれ自分をプラスイメージでしか語れないアメリカが、よく出たシーンだったと思う。

それに比べて、冒頭にあるように、自分をマイナスイメージと結びつけられるとは(周りも気を遣っていないし)。
これは、すごいことだと思う。

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