私が【おっさんずラブは「劇場版で完結」】という事実を受け入れられた理由~終わらない関係が強すぎる~

※初見~最後の舞台挨拶を通じた私のOLに対する心境の変遷です。無駄に長い。
※色々書いていますが、根底におっさんずラブ関係者全てと全役者陣への感謝と敬愛しか私は抱いていません。が、敬称略どころか呼び捨てです。

上記記事にも書いたが、初見時、私はおっさんずラブの完結=別れを受け入れることができなかった。
ただただ、悲しかった。寂しかった。あのラストを観て、続編があるとは到底思えなかった。別れを突きつけられたのだと悟った。
ストーリーの良さや渇望していた春田と牧のイチャつきが見られたことへの喜びを遥かに、遥かに凌駕する途轍もない寂しさで、23日の夜はずっと泣いていた。
もうこの映画は見られない、とすら思った。田中圭も林遣都ももうTVで、舞台で、見たくないとすら思った。可愛さ余って憎さ5000000000万倍だった。
そんな私が、「最後の舞台挨拶」を観て、完結を前向きに受け入れられるようになり、続編を望まなくなった、という話。

初日以降、本日9/6時点で5DEADしている。ハマった映画は7回は余裕で見る私にしてみたら、そしてこの一年半のOLへの狂乱の日々を考えたら、異常に少ない回数といえる。
それは私が初見時に味わった、「別れの辛さ」を反復することを本能的に回避したかったからだと思う。
2回目も辛かった。嗚咽ってこういうことなんだろうな、という程泣いた。劇場の外に出ても涙が止まらなかった。異常だと自分でも思った。

OLを見るのが辛いだなんて、全く想定していなかった。一年半寝る間も惜しんで片時も考えないことはなかったほど愛し続けたOLをこんな気持ちで受け取ってしまった自分を殴りたくなった。でもどうしようもなかった。
ストーリーに満足していないんじゃない。(映画としての粗はあるが)
ただ、寂しかった。もう、春田と牧は行ってしまった。田中と林から、「これで終わり」と役を通じて言われているのがはっきりと分かった。

7話後も寂しくはなったが、とても満足していた。全てのドラマが映画化するわけじゃない。OLもきっとしない。だから、もうこれで終わり。両思いになってよかったー!と。わずかに、もしかしたら映画や続編ができるかも、と淡い期待を抱けるくらいだった。叶わなくても良かった願いだった。

でも、OLは映画化”してしまった”。「続きがみたい」という願いが叶ってしまった。
一度願いが叶ったら、もっともっとと欲を出す、人間てなんて愚かなんだ。強欲は身を滅ぼす、ってほんとそれ。
でもこの劇場版は、淡い期待や願いを抱くことすら許してくれないほど、完璧で強力な「次はない!」をぶつけてきた。私達は、もう願うことすら許されないのだ。

8/23以降、情緒がぶっ壊れた。仕事中だろうが、電車乗ってる時だろうが、寝る前だろうが、泣いていた。病んでるなぁと漠然と思った。仕事も私生活も全て止まった。(会社も家事も休んだ)
でもそんな自分が嫌だった。OLでこんな風になってしまう自分を恥じた。こんなにOLが好きなのに、OLによってズタボロに勝手になっている自分を軽蔑した。

仕事も私生活もぐちゃぐちゃで辛うじて息だけしていた時、横川さんの記事を読んだ。(おでこキスはこうして誕生した。田中圭&林遣都だから作れた、春田と牧の幸せな世界https://news.livedoor.com/article/detail/16982699/)
「映画作りに携わっているたくさんの人々=走者から渡されたバトンは、今、アンカーに託された。最終走者は、他でもない観客だ。作り手たちの愛がたくさんこもった作品を、今度は観客があふれる熱量で愛し、語り継いでいく。その幸せなリレーが今、日本中に広がろうとしている」
という最後の一節がすごく刺さった。
泣いている暇なんてない。というか、泣きながらでも、足が折れても、全てを捨てても、OLのために走らなければならないと思った。
ズタボロになっても走って、たくさんの人に届けて、それが巡り巡って公式に届いてほしい、と思った。高慢だが、使命だと思った。
やることができて、少し気持ちが上向いた。悲しさと寂しさはそのまま見ないようにして。

友と話して気持ちを落ち着かせたり、考察を書いて納得しようとしたり、色々やっていた中、「最後の舞台挨拶」実施の報が出た。
これは集大成だ。
この頃にはもう「おっさんずラブは劇場版で完結」ということを頭では受け入れ始めていた。
一緒に見た一般人の友は全員、「ここで終わる方がいい。その方が伝説になる」「海外ドラマみたいにシリーズ化してグダらないためにも、ここで終わるのが一番キレイ」「始まったらいつか終わる」と慰められていたからだ。
分かってる分かってる分かってる!!!
頭では分かっているけれど、一年半、誇張なしに春田と牧を、OLを考えない日なんてなかった。ずっとずっと私の一部だった。それが無くなってしまうことは、認識できても、理解できなかった。一方で続編を要望するのなんてとてもじゃないができなかった。あんなにもやりきったと言ってくれた監督や田中にもっと、だなんて我儘は口が裂けても言えなかった。
でも打ちひしがれてる場合じゃない。バトンを繋げなければ。集大成を、見届けなければ。
情緒がズタボロでも、立とう。この「終わりの終わり」を見届けよう、と思った。

レポはたくさんの方が上げているし、円盤にも多分入るので割愛するが、舞台挨拶を観て思ったのは、
「なーんだ、そっか。分かった!またいつかどこかで会えたらいいね!」だった。なんというか、そうとしか言いようがない。
劇場版OLが始まってから、初めて晴れ晴れとした気分になった。これが噂の多幸感か!と感動した。

田中と林の仲の良さは分かっていた。強い絆があることも。
でも舞台挨拶で改めて「見せつけられて」分かった。
舞台挨拶で終始楽しそうだったのは、田中も林も寂しいと思ってなさそうだったのは、
「ああ、二人だからなんだね、そりゃそうだよね」と。
変な話、二人の絆の前にこの盛り上がりは関係ない、というか2人にとっては当たり前のことというか。
二人で過ごした一部に過ぎないんだなぁ、と。
二人にとってOLは単なる共演作、なのではなく、仲良くなったきっかけであり、今後も続く二人の関係性の一部に過ぎないのだなぁ、と思った。

田中は空気が読める人なのでちゃんとありがとうや嬉しいを私達に分かりやすく伝えてくれるけれど、林はもっとピュアだし憑依型なので、OLは思い入れもある作品だしファンに感謝はすれど、取り立てて騒ぐほどでもないのだろう。
もう牧から彼は離れている。だからOLに関する熱狂がどこか他人事のように見えてしまうのは、民の偏愛による色眼鏡なんだろう。
(「牧である林としてOLを惜しんでほしい!」というエゴだ)

林にとってはOLが特別、というよりも、OLで出会った田中が特別なのであって、田中を中心としたOLチームの関係性が大事なのであって、なんだろう、林の中での特別の比重が違うのだろうな、と感じたんですよ。
林の中で田中がでかすぎて、だからこそ牧としてあんなに春田を愛せたんだろうな。そしてそれを田中も理解しているし、同じように思っている。
だから、「春田は圭くんじゃなきゃできない」「牧を遣都が生きたから」という発言がお互いから自然と出るんだろうな。

でもさ、それって凄くない?役をやり続けたいと言われるより凄くない?
牧と春田が、田中と林の関係性だからこそ、たくさんの人に愛されたと全OL民は勿論理解しているわけですが、こんなにもそうだって、え?みなさん知ってた???私知ってたはずなのに理解ってなかった!!!「1+1=2」くらい分かってたのに、ちゃんと理解ってなかった。

だって林と田中がそうであることで、牧と春田のいる世界が私たちの現実の世界ともリンクしている。田中と林を通じて、春田と牧が表出したのなら、田中と林がいるこの世界は、私達の世界と同じで、つまり、春田と牧もいるじゃないか。上手く言えないな!?語彙をくれ。むしろこのことを何語でなら表現できるんだ。いつになったらOLに溺れてる私は言葉を取り戻すんだ。そして、またもや気付いた。だから、劇場版は、ドラマのファンタジー性が薄れて、現実的な雰囲気が出たんだ。

劇場版で、春田と牧の、「恋愛」を経て「人生」を考える事になった時初めて、互いを見つめていればいい時間が終わった。
だからこそ、すれ違うし、あんなにも言い合いをする。互いは吐いては行けない言葉だって分かってるのに、言ってしまう。熱に浮かされた目で互いしか目に入れていていいだけの時期はもう終わり。それは、春田と牧の、田中と林の関係性がそうだから。
春田と牧は、死んでも一緒にいたいと言う。
田中は、林との関係を一生モンだと言う。
これは、今この瞬間楽しくて仲が良いから出る発言じゃない。ずっと先を見据えた春田と田中が、それを受ける牧と林がいる。ここでドラマと現実がその垣根を超えてリンクした。

断っておくが、別に田中と林をそういう目で見ているわけじゃない。あくまでも関係性の話だ。
でもこの関係性が無ければ、OLはこうならなかった。こんなに愛されなかった。
でも、そういう外野の評価はある意味、田中と林には関係ないのだろう。あるがままを、二人が思う春田と牧を演じたら、そうなったという、それだけなんだきっと。

田中が、仲良くなりすぎて牧と春田に戻れないかもと怖くなったのもわかる。
だって牧と春田はドラマの登場人物で、あくまでもフィクションでファンタジーだった。しかし、田中と林という”現実の”2人は役を離れて仲良くなって絆が生まれて信頼し合った。そこには、恐らく友情でも恋愛でもなく、根源的な「好き」があるんだと思う。広義の「愛情」が確かにある。あるったらある。もう私にはそうとしか思えない。でなきゃ何も説明がつかない。
そういう、性別も友情も越えた「愛情」はきっと誰にでもある。それは、一過性のものとどこか思っていても目の前の熱を追いかけるのに必死になる「恋」よりも強いものだと個人的には思う。終わらない関係、って最強じゃないですか??終わらないんですよ。「恋」はいつか終わるのに(結婚したらある意味で「恋」は終わる)。この二人は、終わらないんです。終わりようがないんです多分。でも、誰もがそんな関係を維持できるとは限らない。この二人は稀有な例なのでは?それが愛した作品で出てくるなんて、尊いどころの話じゃない。

牧と春田として恋をしながら、
田中と林として心を寄せた、
あの2人はきっとずっとあのままだ。
少し距離が開く時があるなら、林が結婚して構ってくれなくなった時ぐらいじゃない?とすら思った。互いの息子と娘を結婚させよー!とか言いださないか心配だよ私は。そんぐらい家族ぐるみでずっと続いていく関係なんだきっと。
何度も言うが、終わらないんですよ、あの二人は。
だから、あの二人の中にいる、春田と牧も、OLが完結しても、終わらない。消えない。いなくならない。この世界にいるんです。
私達があんなに夢中になった、春田と牧は、田中と林を通じて、この世界に存在している。
最後の舞台挨拶で感じた、田中と林の終わらない関係を見たことで、春田と牧の永遠を感じたんです。

だから、私は完結を受け入れた。
完結したからといって、永遠に会えないわけじゃない。
かと言って、田中と林にいつまでも春田と牧を重ねるわけでもない。
春田と牧が、二人の中にいるんだろうな、と田中と林を(個別にでも)感じられるだけで、もう十分。
牧と春田は、確かに、この私達の世界に生きている。

それって、すごくない?
私、OLに夢中になった時、こんなことになると思ってなかった。
すごい体験をしてると思う。こんな風に思ったドラマも漫画もアニメも映画も無い。つまり、今までのフィクションの全ての世界と現実の私たちの世界は、リンクしていなかった。当たり前だけど。だからこそ、おっさんずラブは私の生涯の宝物だ。私の中で、ずっとずっと燦然と輝く、宝物。触れたらとても幸せになれる、宝物。

もう悲しくないし寂しくない。
彼らはいつでも帰ってこられる。帰ってこないつもりでもいい。全然いい。
だって、離れゆく彼らは、あんなに楽しそうで幸せそうだ。
彼らはきっと、これからも、幸せで楽しい日々を過ごしていく。気が向いた時に顔を見られればいいけど、それも別に大して望んじゃいない。遠くに暮らす親戚みたいな気持ちだ。便りがないのは元気で幸せな証拠だもの。
良かった。
本当に、本当に嬉しい。
こんなに嬉しいこと、ないよ。初見で流した涙は寂しさと悲しさでいっぱいだったのに、今はこんなにも嬉しくて泣いてる。(いい加減泣くなよ)

「好きな人には幸せでいてほしい」、本当だね、牧。
あの時の牧は辛そうだったけど、私は今心底そう思うよ。強がりでも未練でもないよ。
幸せでいてほしい。どんな時も。私が大好きな、田中も林も、春田も牧も、みんなみんな。
二人の関係性があるからきっと今までも、これからも、大丈夫。
その確証をもたせてくれて、本当に、ありがとう。
そう思わせてくれた最後の舞台挨拶は、最高の二人のフィナーレだった。
ファン感謝祭の側面もあったみたいだけど、いいや、私こそ感謝したい。
あれは、二人の、最高のフィナーレだった。

フィナーレを迎えた彼らに最後に声をかけられるなら、こう言いたい。

「そっか!そうだよね!ありがと!さよなら!気が向いたら、また来てね!」

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