劇場版おっさんずラブ1Dead後感想:幸せで、誇らしくて、寂しい。

※1Dead後、2日経過した時点での感想です。ふせったーで流した乱文を加筆修正しています。

私の1Dead目は、公開初日の8月23日、舞台挨拶付き上映会だった。公開が発表されてから約8ヶ月、「椅子から立てなくなる!」「AED用意しないと!」「興奮で声も動きも止まらんからレクター博士みたいに拘束した状態で見なきゃ!」「気絶する!」「死ぬ!」とTwitterやOL研究会(という愛すべき仲良しOL友のLINEグループ)でそれはそれは騒ぎまくった。なんて幸せな日々だったんだろう。
ただただ純粋に楽しみで仕方なかった。無知は幸せとは正にこのこと。まさか、観終わってこんな風になるなんて思わなかった。

見終わった後、自分でも驚くほどの壮絶な喪失感でいっぱいになった。
すごいものをみた。
端的に言うと、打ちのめされた。寂しさと幸福感にボコボコにされた。

思い返せば、7話直後も私は寂しくて泣いていた。こんなにも私を夢中にさせたた大好きな人が、いなくなってしまうことを悲しむように。行ってしまうのは分かっていても、それでも寂しい悲しい嫌だ行かないで。
そんな風に思っていた。でも、どこかで幸せも同居した寂しさだった。そして、やっと「いい思い出」にできた頃、劇場版が発表された。この時はまだ、分かってなかった。「いい思い出」に、寂しくて辛くて泣いた記憶は残っていなかったからだ。
劇場版は違った。7話後とは比較にならない寂しさを感じた。絶望ってこういうことか、と思った。
だって、分かってしまった。
これは、おっさんずラブからの「お別れ」だ。田中圭や監督が言っていた「出し切った。これ以上は無理。これが完結」の意味が分かって、これで終わりなんだと、思うより早く実感したら、涙が止まらなかった。映画の内容よりも、終わりを実感して泣いた。同行した友が本気で心配するほど憔悴した。この劇場版おっさんずラブは、いろんな意味を含んだ作品だと思う。メッセージ性、という程強いものではないが、色々な捉え方でたくさんの人に何かしら思ったり考えさせてくれる作品だ。ただ、約一年半追いかけた私が最初にこの映画から受け取ったのは、おっさんずラブ公式(制作陣役者陣全て)からの「じゃあな」。
縋ることもできないくらいの、完膚無きまでの「お別れ」だった。

別れだと気付いて次に思ったのは「この映画はもう観られない」 。
田中圭や林遣都ですら、もうTVでも観たくない、見れない。だってもう春田と牧はいない、と思った。
観たくない、のでは勿論ない。
「終わりを何度も実感してしまうから」だ。
それぐらい、劇場版では春田と牧の関係の”それから”と”これから”が描ききられていて、これ以上は蛇足だと思った。そう思う反面、「お別れ」するならせめて結婚式やってほしかった!と劇場から出るエスカレータで泣きながらそう思っていた。短慮浅思過ぎる。

「これからも二人は幸せに暮らしました。めでたしめでたし」はあらゆる物語のカップルの話を一旦の区切りとして終わりにしているだけで、その後の物語はカップルの数だけ勿論ある。それを妄想やら解釈で埋めるのが楽しいし二次創作が広がるのも道理だ。それは、シンデレラだろうがセーラームーンだろうが宇宙戦艦ヤマトだろうがなんでもそう。私は普段から腐った女なので、二次創作ありきで原作を見る/読むだなんてザラだし、抵抗は殆どない。カップルのその後は、描かれずとも補完できる。だから、どんなにハマった作品があっても、終わることにそれほど(これほど)の悲しさはなかった。私が誰かが妄想すれば、その中で彼らは生き続けるからだ。

しかし、春田と牧に関しては違う。おっさんずラブの特徴の一つである「描かれない余白」から、たくさんの妄想幻想解釈が生まれたにも関わらず、2人のその後をそれでも欲してしまうのは、彼らがフィクションなのにとても「生きていた」からだ。「生きている」彼らに、分かりやすいハッピーエンドを求めていた。
それは私だけじゃなかったと知ったのは公開直後のこと。阿鼻叫喚の様相を呈していた。私たちの望んだのはこんなんじゃない!と多くの人が悲嘆に暮れた。

この映画は分かりやすいハッピーエンドは描かれなかった。
いや描かれているんだけど、「めでたしめでたし」、あー良かった、と終わるものではなかった。でもちょっと落ち着こう。そもそもこのおっさんずラブはドラマの時も、ラブストーリーとは銘打ちつつも、ラブストーリーの枠を超えていた。男同士という設定もそうだし、脚本、演技、音楽、演出、どれもどこかで見た気がするのに新鮮に感じた。観てハマって追いかけた誰もが感じたはずだ。これは、私たちの知っているラブストーリーのドラマじゃない、と。私達の既存概念を揺さぶった作品だ。
それは 劇場版でも同じだった。何せ作り手側が同じなのだから。ここを、ちゃんと分かっていなかった。一筋縄でいかないよそりゃ。単純な分かりやすい「ラブストーリー」としての結末はなかった。当然だと思う。

おっさんずラブ劇場版が描いたのは、1つのカップルの「分かりやすい、一旦の結末」などではなく、
春田と牧、それぞれの生き方の話だった。
二人で、ずっと一緒に、生きていくための。
結婚とか身体的に結ばれるとか、そんなんじゃなくて、春田が牧に、牧が春田に心を渡している。
互いの心を互いが抱きしめて、大事にしている。それがずっと続くことが分かった。これが、おっさんずラブの結末だった。
それを役として表現できたのは、田中圭と林遣都の二人だったからに他ならない。
この二人じゃなきゃ、劇場版のこの描き方も、演出も、ラストシーンもなかったと思う。
他の人も役としては演じられるかもしれないが、きっと説得力が全然違う。
おっさんずラブは、田中圭と林遣都にしかできない、二人による、牧と春田の為の、物語だ。

この映画には、分かりやすい「カップルの関係の行き着く先」という、我々が3000万回は見てきた形式のハッピーエンドはない。
少女漫画のオマージュが多い作品なのに、少女漫画的な”結婚””指輪交換”という分かりやすい「終わり」がない。(プロポーズはあるが)
それは男同士だから描けない、法律で無理だから描かない、のではなく、春田と牧だから、それにこだわる必要がなかったからだ。
この劇場版で、春田と牧にとっては、普遍的で分かりやすいハッピーエンドは必要ない、と春田も、牧も、私達も分かった。
たった114分で、あのストーリー展開で、あのキャラ数で、そう提示しているという事実が、あまりにも、あまりにもすごい。

7話で鉄平が「部長さんは形が欲しかったんだろうな」と言っていた。
部長は春田の心の中に自分がいないことを、春田に心を貰えていないことを分かっていた。
だから、結婚という形が欲しかった。春田と自分の関係はこれです、と言える箱。中身がないことは分かっていた上で。
それでも箱が貰えるなら欲しかった。それは現代社会では分かりやすく万人に通じるものだから。
春田と牧は、箱がなくても良いという結論になったのだと思う。
箱の中身を剥き出しのまま、二人で抱きしめていく、抱きしめていけることがわかったから。

結婚というのは分かりやすい、関係性の最終形態だ。
でも最適解ではない。あくまでマジョリティなだけだ。異性愛を正としてきた人類史の中でメインに据えられてきただけのこと。そしてそれには多くの犠牲や悲しみが伴ってきたことを、洋の東西も古今も問わずに知ることができる。(異性愛者の私は結局”知る”に留まるのだが)
春田は7話で「結婚してください」と言った。それが「ずっと一緒にいたい」牧といられる方法だと思ったから。
春田はそれが当たり前の価値観の中で生きてきたから。
でも、春田は牧に出会った。
そして、それができないことを牧は分かっていた。

劇場版でも春田は「結婚」に拘っているわけじゃなかった。「焦ってねぇけど」って。
好き合う二人がずっと一緒にいるために結婚は自然で、必要なことだと素直に単純に思っていたにすぎないと思う。
そして牧は結婚ができないからこその今を大切にしたい気持ちと、春田と先を生きたい気持ちに揺れて不安になる。今の関係の儚さと強さを知っているからだ。(武川時代からの教訓も多分ある)

その二人が想いを、心を寄せて「死んでも一緒に」いたい、と辿り着けた。
二人で出した二人だけの二人のための”これから”。

正直私は、「結婚エンドかも!」「ドラマで三回キスしてるから劇場版はもっとする!」と鑑賞前は思っていた。
なんて浅はかだったんだろう。能天気だったんだろう。1ヶ月前の自分をぶん殴りたい。
私はOLの何を見てきたんだろう。
映画を見終わった後、自分の予想と違ったことに衝撃を受けたのは事実だが、それは私が所謂普通の、一般的な、大多数の人が観てきた少女漫画的な「ハッピーエンド」に骨の髄まで調教され、慣れ親しんでいるからであり、それこそ異性カップルの既存概念に囚われていたことの証だ。
馬鹿か私は!!!!
OLは人として人を好きになること、愛すること、大事に思うこととは何か、を問き提示してきた。
そんなOLが分かりやすい結婚エンドにするわけなかった。
(一方でジャスやマロとの対比にもなっているのも構成として凄くいい。結婚を否定しているわけじゃないことがここで分かる)

もうすごい。
すごいとしか言えない。
語彙が消失するなんて当然だから私は恥じない。
言葉が追いつかない、なんて、OLの世界では当たり前のこと。
1年半毎日毎日OLのこと、春田と牧のことを考えてきたのに、この体たらく。
完全に予想の上をいかれた。公式のドヤ顔が目に浮かぶ。やられた!でもすっごい爽快感。上述の内容に気付けた時のカタルシスったらなかった。
話の筋をネタバレされてたとしても、この感動というかカタルシスは味わえると思う。

だからこそ、「これでOLは終わり」とすごく感じた。
もちろんビジネスだから収益次第によって、作品そのものはそれこそ鋼太郎さんが言うように寅さん化するかもしれない。
徳尾氏やきじPがもう無理!ってなっても、別のスタッフを追加してでもやるかもしれない。
でもきっと、田中と林は出ないと思う。
スケジュール的な話ではなく、あの二人が今の関係性と信頼でできる最大限の牧と春田だと思う。
それがとてつもなく、寂しくて、誇らしい。

だから私たちはもしかしたらいつか来る続編やスピンオフで、「死んでも一緒にいたい」という想いの二人がどうなったか、少しだけ見れればいい。
二人でいろんな喧嘩をして怒ったり泣いたり喜んだりしながら、死まで向かっていく二人を垣間見れればそれだけで。切望は、しない。できない。
(もちろん頂けるものならありがたく頂戴しますが。)

あぶない刑事みたいに、ドラマが終わっても何度も何度も映画をやって役者の年齢的にこれが最後、となって初めて終わる。
もしOLが続くなら、それでいい。
正直、この劇場版は性急すぎた。もっと間隔空けてからで全然よかった。でもまぁビジネスだから仕方ない。
今はこのOLの「終わりの始まり」に浸る。
何年も間隔を空けて、いつか戻って来るかも、と淡い期待をずっと持って居られるなんて、最高じゃないか。
そう思ってこの喪失感と付き合っていかなきゃ、寂しくて仕方ない。

初見後受け止めきれずに私がOLを愛しすぎていることを分かってくれる友にぶちまけて、それでも足りなくて徹夜でネット徘徊しまくり、やっと落ち着いてこれを書いた今、もう一度見たくなってきた。
でも、観たらきっとまた寂しくて泣くと思う。
それを上映期間が終わるまで、ずっと繰り返すと思う。

最高だった。
旬ジャンルのど真ん中を駆け抜け、喜怒哀楽のメーターを振り切って味わい尽くしたこの約一年八ヶ月、幸せでした。
本当に、幸せだった。

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