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夏の元気なごあいさつー壱

 ジョギングを終えて帰宅するころには、かなり気温が上がってきていた。
 厚手の狩衣のようなものを着ているナナシだが、暑さを感じないのか涼しい顔をしている。

「ふむ。ここがイチヤの実家というやつであるな。なかなか立派じゃのう」

 玄関前で建物を見上げながらナナシが言った。
 香月家があるのは、町南西の小高い丘の上だ。二階建ての母屋と平屋の離れがあり、そこでは祖父母が生活している。

「四六時中、俺につきまとうと?」
「そんなことはないぞ。自由に動けるからのう」
「一緒にいるのは、神幸祭までってことでいいんだよな?」
「そうじゃの」

 千年に一度の特別な祭り。ナナシは、そう言っていた。しかし毎年祭りに出ているが、そのような話は一切聞いたことがない。
 ナナシに詳細を訪ねようとすると、玄関の扉が開いて母が外へ出てきた。

「あら、おかえり。いま、誰かと話しよらんかった?」
「あ、いや、ちょっと電話があったけん」
「こげん朝はよからね?」
「うん、大学の友達が……」
「まぁ、よかたい。シャワー浴びてこんね」

 それだけ言って、母は再び家の中へ入っていった。話し声が聞こえたので出てきたようだったが、あまり細かいことを気にしない性格の母でよかったと、壱弥はホッと胸を撫で降ろした。

 そしてやはり、母もナナシに気がつくことはなかった。神様かどうかはいまいち分からないが、ナナシが自分にしか見えていない、という状況は間違いないらしい。

「観念して、信じる気になったかの?」

 壱弥の心の内を察したのか、ナナシが勝ち誇ったような表情を見せる。

「人間ではなさそうっていうことだけは分かった」

 それだけ言って、壱弥は家へ入った。

 柴犬の茶太郎が、尻尾を振りながら居間から駆けつけてくる。どうやら、壱弥の帰りを待っていたらしい。
 しかし突然、壱弥の肩のあたりをじっと凝視しはじめた。そこはナナシがいるところだ。まさか、茶太郎には見えているのだろうか。

「犬はヒトより敏感だからのう。なんとなく、我の気配を察したのであろう。だが見えてはおらぬと思うぞ」

 茶太郎は首をかしげていたが、頭を撫でてやると満足そうな顔をして居間へ戻っていった。

「猫だと見えるんかな。猫は霊感が強いって言うし」
「おい。我は霊ではないぞ」
「似たようなもんじゃないの?」
「お主、まこと不敬じゃのう。けしからんぞ!」

 あまり話していると母に怪しまれそうなので、抗議するナナシを無視して浴室へと向かうことにする。

 待っているのは退屈だから散歩をしてくると言って、ナナシが居間の壁をすり抜けた。それを見て、壱弥は言葉を失った。
 あの調子でなんの前触れもなく、この浴室にも入ってくるのではないか。恐ろしくなった壱弥は、手早くシャワーを浴びて浴室を出ることにした。

「ここがイチヤの部屋か。殺風景じゃのう」

 汗を流したあと二階の自室でくつろいでいると、ドアをすり抜けたナナシの顔が突然現れる。まるでホラー映画のようだ。

「いきなり顔出すなよ、驚くだろ」
「驚いているようには見えぬが」
「表情に出にくいだけやし」
「ところで、それはなんじゃ?」

 ナナシが壱弥の手元をじっと見つめた。目が輝いている。

「これ? ゼリーだけど」
「ぜりぃ。さっき冷蔵庫から出してきたのはそれか」
「どこで見てたんだよ……ていうか冷蔵庫は知っとって、ゼリーは知らんと?」
「いや、分かるぞ。果汁とゼラチンと砂糖、お好みの果肉などを加えて冷やし固めたものであろう。ほほう、それが噂の『ぜりぃ』か。所望するぞ。我にもひと口くれ」
「いいけど……神様って、人間の食べ物も食うの?」
「お主たちが供物を持ってくるであろう。ほれ、はよう『ぜりぃ』をよこさんか」

 壱弥はゼリーとスプーンをナナシに手渡した。
 喜色満面で受け取ったナナシは、ゆっくりとゼリーを口に運ぶ。すると、大きな目がさらに大きく見開かれた。

「お、おお……! これは美味であるのう! うむ、美味じゃ! 入っているのは、なんの果肉じゃ?」
「マンゴー」
「これがかの有名な『まんごお』であるか! なるほど、魅惑の果実じゃのう」

 自分にはナナシの姿が見えているが、他人の目にはゼリーとスプーンだけが宙に浮いているように映るのだろうかと、壱弥はぼんやりと考えた。

 ナナシは夢中でゼリーをかきこんでいる。ひと口と言っていたのに、結局完食してしまった。

「おお、すまぬ。つい全部食べてしもうたぞ……」

 ばつが悪そうな顔をすると、本当にただの子供にしか見えない。やはり神様ではなく、妖怪などの類ではないのかと思ってしまう。

「いいよ、まだあるし」
「なんじゃと? 香月家は『まんごおぜりぃ』を常備しておるのか?」
「お中元で、たくさんもらったからさ」
「オチュウゲンとな? それはなんであるか?」
「この時期になると、お世話になった人に贈り物をする習慣があるんだよ」
「それはなぜじゃ?」
「なぜじゃって……なぜでしょうね」

 壱弥とナナシは、一緒に首をかしげた。

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