目的論の陥穽(1)
現在、私はBlogおよびNoteに「光田健輔論」を書いている。長年の懸案事項であった「ハンセン病問題史」を光田健輔を中心に、絶対隔離政策がどのように推進されていったのか、その過程におけるハンセン病患者への人権侵害、それらに関与した人びとの思想と行動などを明らかにする試みである。
杉山博昭氏が『キリスト教ハンセン病救済運動の軌跡』の「序章」で「本書の意義と課題」を書いている。私の目的と重なる部分も多いので、杉山氏の記述を引用しながら、現在のハンセン病問題に関する研究動向と課題について整理しておきたい。
「ハンセン病をめぐる動向」と題して、杉山氏はハンセン病問題が脚光を浴びることになった時期を、次のように整理する。
戦後の動乱の中、戦前からの世代交代の中、無らい県運動は当然のように推進され、1960年代にはハンセン病患者のほとんどが療養所に収容されていった。その最大の要因は、プロミン等の治療は療養所でしか受けることができなかったからである。高度経済成長期を迎え、国民の生活が大きく変わっていく中で、ハンセン病患者を目にすることが皆無となり、人びとは彼らを忘れていった。
杉山氏の整理は、政治・社会状況や人権思想などの影響、全患協や支援者らによる運動などを「背景」として詳細に考察する必要はあるが、大きな流れとしての把握においては的確である。
ただ、「人権研究者、人権運動家、教員、有識者、マスコミ人らが、気がつく機会はいくらでもあった」にもかかわらず、あるいは「らい予防法が悪法だというのなら、なぜらい予防法が存在したときに、その悪を語らなかったのか」等々と、杉山氏は批判するが、私には「後出しじゃんけん」のように思える。では、杉山氏は声を大にして訴え、活動していたのか。(「おわりに」に自分とハンセン病の関わりを述べているが、それによれば本格的に取り組んだのは1990年代であるという。)
問うべきは、人権研究者や教員、マスコミ人の個々の責任ではなく、なぜ彼らが取り組まなかったのか、取り組めなかったのか、大きな壁によって存在自体が隠されてきた(隠してきた)こと自体ではないだろうか。
ただ、杉山氏がハンセン病問題の課題として、「自分自身」の向き合い方(「自省なき批判」)について提起していることにはまったく同感であり、今後のハンセン病問題や人権問題に関わっていくうえでの重要な視点を提起していると思う。
確かに杉山氏の指摘は的を射ていると思うが、まだ一面的な把握でしかない。換言すれば、現象面を捉えているだけであって、本質まで言及していない。
なぜ国民は「隔離政策を支持した」のか、なぜ「隔離に加担し、同調した」のか、その背景、特に国民を「あお」った人間や賛同して推進した者たちの行動や思想を考察する必要があると考える。国民の責任を追及する前に、国民をそのように煽動した者の「思惑」こそを明らかにすべきである。たとえば光田健輔の「思惑」の変遷も解明すべきであり、光田に追随した者たちの「思惑」もまた明らかにすべきである。
このことは、杉山氏自身もわかっているからこそ、本書で考察を試みたのだと思うが、私には不十分と思える。
着眼点は正しいと思うが、「キリスト教に限定」して果たして「奥深さ」が「実証」できるだろうか。「小川(正子)は含むが光田は含まれない」と「限定」して「周辺的な人物にとどまる」とするが、むしろハンセン病救済に携わったキリスト者である彼らが、どのように光田と関わりをもち、どのような影響を受けたのかを考察することなしには、「実状の把握」や彼らが手を下した「隔離政策の奥深さ」も明らかにはならないだろう。それゆえ、私は本書を読みながら不十分さを感じたのだ。
なぜキリスト者が「ハンセン病救済」に向かうのか、その考察は杉山氏だけでなく、多くの先行研究でも考察されてはいる。だが、なぜ光田健輔の「詭弁」を盲信したのか、「絶対隔離」だけでなく「断種・堕胎」や苛酷な「患者作業」、絶望的な隔離生活、さらには残酷な「特別病室」などを黙認し、自らも加担したのか、それこそを解明すべきではないのか。もし、これらへの加担がキリスト教と関係があるのであれば、それを明確に分析すべきではないだろうか。
いかなる時代背景や社会背景、思想的背景や宗教的背景があろうとも、その人間の判断である。その人間が<正義>と信じる<目的>のために、正しいと思う<方法(手段)>によって行動したのである。
杉山氏の「不十分さ」を補い、私の疑問に少なからず答を示してくれたのが、武田氏である。
武田氏は「目的論的な構図」に解明の糸口を見いだす。つまり、光田たちが何を「目的」とし、その「目的」を実現するために「手段」を正当化したか。その「目的論的な構図」が自己完結的に作用(解釈)することで、いかに「暴力性」を孕んでいたとしても「躊躇」さえなく、何の疑問も持たず、むしろ「良きこと」をしていると確信して「邁進」していったのだ。
この思考はハンセン病問題だけでなく、部落問題や障がい者問題、さらに人種・民族問題など人権問題にも通底している。換言すれば、これらに関わる誰もが陥る危険性を孕んでいるのだ。すなわち、目的が崇高であればあるほど、それに携わることに使命感を感じるほどに、方法や手段を省みることよりも、成果重視に向かいやすい。そのため、排他的傾向が強くなり、自らの思考に囚われてしまい、頑迷となっていく。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。