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目的論の陥穽(1)

現在、私はBlogおよびNoteに「光田健輔論」を書いている。長年の懸案事項であった「ハンセン病問題史」を光田健輔を中心に、絶対隔離政策がどのように推進されていったのか、その過程におけるハンセン病患者への人権侵害、それらに関与した人びとの思想と行動などを明らかにする試みである。

杉山博昭氏が『キリスト教ハンセン病救済運動の軌跡』の「序章」で「本書の意義と課題」を書いている。私の目的と重なる部分も多いので、杉山氏の記述を引用しながら、現在のハンセン病問題に関する研究動向と課題について整理しておきたい。

「ハンセン病をめぐる動向」と題して、杉山氏はハンセン病問題が脚光を浴びることになった時期を、次のように整理する。

1980年代まではハンセン病の問題は、いわばマイナーな事柄で、関心をもつのは極めて特異な人であった。…ハンセン病は一部の関心にとどまった。
らい予防法の改正問題は、1980年代にもそれなりに議論はあった。長島愛生園への架橋など、マスコミが取り上げるできごともあった。しかし、社会的な大きな流れになることはなく、知る人ぞ知る、という状況であった。近現代史の汚点を直視したくない意識が働いていたうえ、ハンセン病患者が自分の周辺にいないことからの無知、差別人権問題の議論は部落問題に注がれがちで、障害者についてさえ、一定の関心が生じたのは1970年代といってもよく、ハンセン病まで関心がまわらなかった。ハンセン病の啓発をしているのが、かつて隔離を推進した藤楓協会で、その理事長らは隔離をかたくなに保持した元厚生省官僚とあっては、効果的で説得力のある啓発などできるはずもなかった。

杉山博昭氏が『キリスト教ハンセン病救済運動の軌跡』

戦後の動乱の中、戦前からの世代交代の中、無らい県運動は当然のように推進され、1960年代にはハンセン病患者のほとんどが療養所に収容されていった。その最大の要因は、プロミン等の治療は療養所でしか受けることができなかったからである。高度経済成長期を迎え、国民の生活が大きく変わっていく中で、ハンセン病患者を目にすることが皆無となり、人びとは彼らを忘れていった。

ハンセン病をめぐる状況が一変したのは、第一段階としては、1996年のらい予防法廃止前後である。廃止をめぐる動きのなかで、らい予防法とは何か、何が問題であったのかが問われた。廃止に向けての動きが詳報され、テレビの人気番組で取り上げられたこともある。しかし、厚生大臣の謝罪はあったものの、責任の所在を明らかにするにはいたらなかった。…
国家賠償請求訴訟が提訴されたのも、らい予防法廃止にもかかわらず、状況が本質的に変わっていないことが背景として挙げられる。この訴訟は、少人数で支援も乏しいところから始まったが、次第に関心と支持を集め、ついに2001年に原告全面勝訴となった。この判決以後が第二段階である。確かにこの判決は、国の責任を明確に認める画期的な内容を有していた。「世論」はこの判決を全面的に支持し、政府は控訴断念に追い込まれた。…判決の正当性が控訴を困難にしたのが基本である。公判では、大谷藤郎証言や犀川一夫証言という、厚生省の側でハンセン病の仕事をしていた者からの証言によって、隔離政策の不当性が論証されていった。

杉山博昭氏が『キリスト教ハンセン病救済運動の軌跡』

杉山氏の整理は、政治・社会状況や人権思想などの影響、全患協や支援者らによる運動などを「背景」として詳細に考察する必要はあるが、大きな流れとしての把握においては的確である。
ただ、「人権研究者、人権運動家、教員、有識者、マスコミ人らが、気がつく機会はいくらでもあった」にもかかわらず、あるいは「らい予防法が悪法だというのなら、なぜらい予防法が存在したときに、その悪を語らなかったのか」等々と、杉山氏は批判するが、私には「後出しじゃんけん」のように思える。では、杉山氏は声を大にして訴え、活動していたのか。(「おわりに」に自分とハンセン病の関わりを述べているが、それによれば本格的に取り組んだのは1990年代であるという。)
問うべきは、人権研究者や教員、マスコミ人の個々の責任ではなく、なぜ彼らが取り組まなかったのか、取り組めなかったのか、大きな壁によって存在自体が隠されてきた(隠してきた)こと自体ではないだろうか。

ただ、杉山氏がハンセン病問題の課題として、「自分自身」の向き合い方(「自省なき批判」)について提起していることにはまったく同感であり、今後のハンセン病問題や人権問題に関わっていくうえでの重要な視点を提起していると思う。

自省なき批判が端的にあらわれたのが、2003年の熊本県黒川温泉でのホテルの宿泊拒否事件である。…皆がホテルを批判したが、ホテルの姿は、昨日の私たちの姿そのものではなかったのか。ホテルを断罪して、あたかも差別と闘っているかのごときに感じて満足するのは、自分の責任への自覚がないという点でホテル側と何も変わらない。
こうして、誰もが正義派になっているのは、結局責任のすべてを「国」のせいにしているためである。確かに国の責任はどんなに強調してもしすぎることはない。しかし、国が隔離政策をなしえたのは、国民の支持、容認があったからでもある。…
ハンセン病の問題も、隔離を推進した光田健輔らの誤謬や衛生政策として権力側の強い意向があってすすめられた一方で、その構造を受け入れ、隔離に加担し、同調した大多数の国民あってこそ実現したのである。…患者を地域で直接差別し、隔離政策を支持したのは国民なのである。前近代からの因習や国による感染の恐怖をあおる宣伝などの事情があったとはいえ、患者を排斥する常識を疑うことなく、隔離に加担した責任は否定できない。その責任を示すことは、戦争責任同様、そうした民衆を産み出し利用しつくした国の犯罪を明瞭にすることである。しかも、その「国民」というのは抽象的な存在ではなく、自分自身である。

杉山博昭氏が『キリスト教ハンセン病救済運動の軌跡』

確かに杉山氏の指摘は的を射ていると思うが、まだ一面的な把握でしかない。換言すれば、現象面を捉えているだけであって、本質まで言及していない。
なぜ国民は「隔離政策を支持した」のか、なぜ「隔離に加担し、同調した」のか、その背景、特に国民を「あお」った人間や賛同して推進した者たちの行動や思想を考察する必要があると考える。国民の責任を追及する前に、国民をそのように煽動した者の「思惑」こそを明らかにすべきである。たとえば光田健輔の「思惑」の変遷も解明すべきであり、光田に追随した者たちの「思惑」もまた明らかにすべきである。
このことは、杉山氏自身もわかっているからこそ、本書で考察を試みたのだと思うが、私には不十分と思える。

…警官が強制収容に一役買うようなことが多かったにしても、全体としては貞明皇后の短歌に示されるように、慈愛の形態をとった。慈愛と思うので、自分が人権を侵しているとは全く感じずにハンセン病救済に邁進したのである。慈愛と錯覚させて利用した国家の非情を暴くには、非情だと告発する前に、慈愛と錯覚した人たちが何を考え、何をしたのかを把握することが必要であろう。本書はキリスト教に限定しつつ、慈愛としてのハンセン病救済の実状を把握し、隔離政策の奥深さを実証しようとしている。

杉山博昭氏が『キリスト教ハンセン病救済運動の軌跡』

着眼点は正しいと思うが、「キリスト教に限定」して果たして「奥深さ」が「実証」できるだろうか。「小川(正子)は含むが光田は含まれない」と「限定」して「周辺的な人物にとどまる」とするが、むしろハンセン病救済に携わったキリスト者である彼らが、どのように光田と関わりをもち、どのような影響を受けたのかを考察することなしには、「実状の把握」や彼らが手を下した「隔離政策の奥深さ」も明らかにはならないだろう。それゆえ、私は本書を読みながら不十分さを感じたのだ。

なぜキリスト者が「ハンセン病救済」に向かうのか、その考察は杉山氏だけでなく、多くの先行研究でも考察されてはいる。だが、なぜ光田健輔の「詭弁」を盲信したのか、「絶対隔離」だけでなく「断種・堕胎」や苛酷な「患者作業」、絶望的な隔離生活、さらには残酷な「特別病室」などを黙認し、自らも加担したのか、それこそを解明すべきではないのか。もし、これらへの加担がキリスト教と関係があるのであれば、それを明確に分析すべきではないだろうか。

いかなる時代背景や社会背景、思想的背景や宗教的背景があろうとも、その人間の判断である。その人間が<正義>と信じる<目的>のために、正しいと思う<方法(手段)>によって行動したのである。
杉山氏の「不十分さ」を補い、私の疑問に少なからず答を示してくれたのが、武田氏である。

…ハンセン病を巡って戦前から戦後まで変わらずに通底していたのは、そうした目的論的な姿勢だった。光田たちは「国土浄化」、つまり汚れなき一等国への邁進こそを目的とし、隔離政策を進めた。彼らは彼らなりに生きがいに満ちていたはずだ。そして隔離された病者たちにもさまざまな目的が与えられ、死ぬことこそが生きがいという臨界状況にまで追いつめられてゆく。戦後、国土浄化の大義名分はなりを潜めたが、生きがいの場所として療養所を描く神谷によって目的論的な構図は引き継がれ、むしろ強化される。(元)病者は自分の人生を意味あるものとするために様々な活動を行っていると目的論的な構図の中では解釈される。
しかし、そうした構図が孕んでいる暴力性について考えておくべきなのだ。
光田たちが行ったことの暴力性については、いまさら繰り返し指摘する必要もあるまい。ただそこにユートピアの観念が関わっていたことはあらためて注目に値しよう。光田たちのユートピア観は二重構造になっている。病者のいなくなった日本を理想のユートピアとみなす視点がまずあり、療養所の開設と運営はそうしたユートピアを実現する手段として位置づけられている。しかし同時にまた療養所そのものもユートピアとみなされている。たとえば病者が集まって相思相愛で生きる愛の空間だとして-。この二重性において光田たちは療養所に患者を送り込むことに一切の躊躇をなくす。隔離は「良きこと」なのだ。そして、人を救うよき目的に奉仕する者としてみずからが救われ生きがいの実感をえつつ、勤勉に仕事に取り組む。その仕事が国家として日本の進む道と方向を一にしていた地点に牧人としての「光田たち」が成立していた。

武田徹『「隔離」という病い』

武田氏は「目的論的な構図」に解明の糸口を見いだす。つまり、光田たちが何を「目的」とし、その「目的」を実現するために「手段」を正当化したか。その「目的論的な構図」が自己完結的に作用(解釈)することで、いかに「暴力性」を孕んでいたとしても「躊躇」さえなく、何の疑問も持たず、むしろ「良きこと」をしていると確信して「邁進」していったのだ。

この思考はハンセン病問題だけでなく、部落問題や障がい者問題、さらに人種・民族問題など人権問題にも通底している。換言すれば、これらに関わる誰もが陥る危険性を孕んでいるのだ。すなわち、目的が崇高であればあるほど、それに携わることに使命感を感じるほどに、方法や手段を省みることよりも、成果重視に向かいやすい。そのため、排他的傾向が強くなり、自らの思考に囚われてしまい、頑迷となっていく。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。