光田健輔論(46) 変革か呪縛か(1)
戦前の「光田イズム」は、戦後のハンセン病医療を担った光田らの次世代の医者や厚生省官僚にどのように受け継がれたのだろうか。
「三園長証言」の光田健輔(長島愛生園)、宮崎松記(菊池恵楓園)、林芳信(多摩全生園)はほぼ同年代であり、絶対隔離政策を生み出した「第1世代」である。次に、光田らの指導や影響を直接に受けた直弟子たちの「第2世代」、さらに光田らが引退した後の「第3世代」、彼らは「光田イズム」を継承したのか、それとも呪縛されていたのか。私は「らい予防法」の廃止は、光田イズムの「呪縛」が解けた結果だと考えているが、それにしても長い年月がかかった。「継承」を正しいと考えていたのか、それとも「呪縛」されていたことに気づかなかったのか。
「癩予防法」改悪の直接的要因となった光田健輔らによる「三園長証言」の背景を検証してみたい。プロミン治療の開始が、絶対隔離を継続しようとする光田ら療養所長側と政府厚生省側にどような影響をあたえたのか、経緯を辿ってみる。
成田稔氏は「らいは治る病気になったことをかなり直裁的にとらえて、退所を配慮した対策転換の兆しが行政官庁のほうにはあった。それをうかがわせるのが、1949年の癩療養所所長会議を記録した桜井方策の『桜井メモ』である」(『日本の癩対策から何を学ぶか』)として、その中から主な発言を取り上げて考察している。抜粋・引用してみる。
成田氏は「小川の発言は別に唐突というわけでもなく、要は療養所の拡張を抑えて在宅患者をより多く収容したいというだけのことだが、これがらいを生涯の病気のように考える光田の癇に障り、<遺言である>と恫喝的に小川を牽制している」と述べている。光田の頑迷さ・傲慢さの証左である。
この厚生省当局の考えが後に大きく転換し、光田らの意向に沿う形で「癩予防法」改正(「らい予防法」成立)となる経緯については別項にてまとめたい。
多摩全生園では、プロミンの効果に期待した患者が、施設に依存しない患者の自主的活動として、委員長鈴木寅雄以下10人の「プロミン獲得促進委員会」を発足させた。委員の光岡良二はパンフレット「癩の新薬プロミン」に次のように書いている。
成田氏はこの一文を「不治から可治へと変わった病者の心情」と読み取り、「この論旨こそ、…全患協運動の根幹をなす<人権闘争>の原点だった」と書いている。
光岡良二は、東京大学文学部哲学科在学中にハンセン病を発症し、全生病院に入り、北条民雄と親しくなり、自らも創作活動を行っている。私は彼が書いた北条民雄の評伝『いのちの火影』を読み、光岡の的確な文章力に感銘を受けた。同書に「回想」として自らの半生について書いている。
『ハンセン病文学全集5評論』にも彼の評論や批評が収録されているが、分析と考察は正鵠を射ている。本論考においても適宜参考・引用していくつもりである。同書には光岡以外にも多くの方々が評論や論文を書いているが、ハンセン病問題や時勢に関する的確な分析と考察には驚愕する。各療養所自治会が編纂した自治会史や元患者(回復者)の書いた著書も読んできたが、論旨の明確さ、高い文章力と論理力は並の研究者以上である。
初めて金泰九さんを長島愛生園の自室に訪ねたとき、壁一面の書籍と資料に圧倒された。彼の語るハンセン病問題だけでなく文学や思想、社会問題、時事に到る博識に、絶対隔離下での療養所で強制労働と劣悪な住環境、乏しい食生活など苛酷な日々を過ごしていたハンセン病患者であるという愚かな先入観が瞬時に砕け散ったと同時に、自らの偏見を大いに恥じた。
湯川の池田大蔵大臣への陳情が功を奏し、薬価が下げられたことから実質的には要求どおり5000万円のプロミン予算が承認された。
成田氏は、続けて次のような逸話を書いている。
1949年2月25日に行われた「癩予防法施行40周年記念講演会」において、光田は「自分も年だから遺言しておく。プロミンによってもらいの姿は元に戻らない。予防には隔離が重要だ。日本の成績は世界に示さなくてはならない」とも述べている。
このような光田の言動について、成田氏は「絶対隔離の推進は、光田にとって遺言に残したいほど生涯を賭けたものであった。未だ効果の定かでないプロミンのような新薬一つに、簡単に頓挫させられては堪らないという思いが、光田とは限らず一部の管理者にはあったのではなかろうか」と推察している。
長島愛生園においてプロミンの治験が開始されたのは1947年1月である。その10年後は1957年であるが、光田は同年8月31日に退官している。しかし、その後も愛生園に自室(元園長室?)を与えられ、毎日顕微鏡を覗いていたようである。
さて、10年の経過後、光田はプロミン治療に対してどのように考えていただろうか。光田は退任後はあまり公的な発言もせず、医学論文も書いていないようで、寡聞にして知らない。
ただ、光田健輔の息子(三男)である横田篤三氏(長島愛生園医官)が、1958(昭和33)年に出版された光田の『愛生園日記』の巻末に「ライの医学」と題して小論文を書いている。プロミン治療に関する部分を抜粋してみる。
1946(昭和21)年、光田健輔はGHQのサムス大佐から米国のハンセン病の化学療法に関する論文を入手し、犀川一夫と横田篤三に翻訳を命じ、また東大薬学部の石舘守三教授から合成した日本製の「プロミン」を分けてもらい、2人に治験を指示している。
犀川一夫氏の著書『門は開かれて』より、光田健輔とプロミン治療に関係する箇所を抜き出してみる。
「大師堂」とは、犀川氏が光田に「プロミン注射専用の注射室を設けていただくようお願いして」「医局に近い所に」あった「弘法大師のご本尊を奉安した広いお堂」の「一室を注射室に当てて」もらった部屋である。また、これを機会として「ハンセン病そのもの治療のために化学療法科を新設し」たという。
また、光田は「愛生園の医師が学会に発表する研究内容を、事前にいちいちチェックし」「特に日本らい学会に発表する前には医局で『予演会』を行い、」光田を「中心に全医師が集まり、」光田からの「訂正や意見をうかがったものである」という。
犀川氏は、繰り返し、光田の異常なほどの研究熱心と「薬剤の治療にかける意欲」を強調して、光田が「治療に関心がないような誤解」を受けていることを正そうとしている。
これほどに光田の恩情に感謝し、光田の研究熱心さをハンセン病撲滅への情熱、患者への愛情とまで書いている犀川氏が光田の元を離れた理由は、従来のハンセン病医療への疑問であった。
犀川一夫や横田篤三は「第2世代」の医師たちである。光田健輔を中心に「絶対隔離政策」を推進してきた「第1世代」に対して、療養所ができた後に医官として赴任し、光田らの指導を直接に受けながら医療に携わった医師である。そして何よりも「プロミン」の出現に接したことで、医師としてのあり方を考えなければならなくなった世代である。
犀川は「第1世代」の療養所のあり方、ハンセン病対策の矛盾に気づきながらも「絶対隔離の壁」の高さに、現状の<変革>よりも「在宅医療」「外来診療」への道を求めて海外に出た。一方で、横田はプロミン治療に期待しながらも、光田ら「第1世代」の<呪縛>から脱することはできなかった。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。