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目明しと岡っ引き

江戸時代を舞台にした、いわゆる時代劇には「目明かし」「岡っ引き」と称する「同心」の下で犯罪人などを探索する人物が描かれている。銭形平次が有名であるが、池上正太郎の『鬼平犯科帳』には多数登場する。
幾分かは時代考証をしているが、フィクション(創作・脚色)として娯楽的要素が多分に盛り込まれている。しかし、彼らは「武士(身分)」ではなく、町人であり、「平人(身分)」である。元犯罪人・顔役であり、お目こぼしや袖の下、付け届けを収入にしていた。

また、彼ら(下役人)を「被差別民」(穢多・非人)であると考え、今の警察官として治安維持(見廻り・捕縛)を任されていた「武士」(に準ずる役職?)であると主張する人間もいる。しかし、私はそうは考えていない。
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幕府や諸藩の職制や役務を史資料からみていくと,武士と武家奉公人との間に明確な身分上のちがいがあることに気づく。もちろん,諸藩によっても異なるが,穢多や非人を武士という身分で位置づけている藩はない。
町役人や村役人が「治安維持」「治政」の一端を担っているが,身分上は「平人」(町人や百姓)であるように,穢多や非人もまた役務として与えられた「役目」を負担しているだけで,身分上や社会的位置づけにおいて武士階級に属することはない。
村役人を務める庄屋が寄金や働きによって「武士格」を与えられる(士分に取り立てられる)ことはあったし,また「武士格(株)」は金銭で売買されたが,それらは個人に対してであり,穢多・非人が「身分上」武士であったり,士分に取り立てられることはなかった。

江戸に関する文献を読むにつれて,どうも江戸城下(江戸の町)の治安維持に関して,「岡っ引き」や「目明し」として穢多・非人は関与していないように思う。弾左衛門配下として行刑役や刑死体の取り片付け,行き倒れや野非人の追放などには関与しているが,同心の配下として犯罪人の捕縛や番人の役務を担ってはいないように思う。この点においては,大阪や諸藩の非人番や牢番とは異なる。

岡っ引きというのは「岡引」が促音化した言葉で,もともとは「傍にいて手引きする」という意味で,岡っ引きは町奉行に属する同心に私的に使われている小者にすぎないのである。町奉行から給金をもらうわけでもなく,同心が出す小遣い程度の金をもらっていただけだった。その額は,おおよそ月に五分から一両くらいだから,それだけでは十分に暮らせない。そこで商家をゆすったり付け届けを受け取ったりして生活していた。女房に小料理屋を営ませたりもしていた。

幕府は度々岡っ引きを使うことを禁止している。それに関係して,目明し,岡っ引き,手先などに呼称も変わっている。

大阪や諸藩においても,与力や同心と同じ身分・社会的立場であったとは考えられない。また,町役人・村役人と同等の立場であったとも考えられない。何よりも,彼らが同心などのように見廻りや犯罪人の探索・捕縛,牢番を専業としていたとも考えられない。
彼らの幾人かは役務として負担はしていただろうが,全員がそれを本業としていたとは考えられない。彼らの生業は,農業であり皮革業など雑業であった。町役人も商人であり家主であり,村役人も庄屋などを務める地主であり,生業によって収入はある。
つまり,町や村の統制(管理)を役務として任されているのであって,武士階級のように支配・統治を目的とした治安維持が生業(本務)であったわけではない。

『都市大阪と非人』(塚田孝 山川出版社)の中に,「非人の御用」という章がある。

江戸の非人たちも,町奉行所の御用を勤めていたが,その中身は溜役・囚人送迎役・牢屋役・川廻り役や御仕置役であり。警吏役は含まれていない。その点,大阪の非人の御用の中心が,町廻りの御供や盗賊方の下での警吏役だったのとは大きく異なる。しかし,江戸においても,非人状態にある者の統制(悪ねだり取締り)や救済の機能は担っており,そのための制道廻りを行っていた。大阪では,非人統制の機能の延長上に警吏役が展開したが,江戸ではそうならなかったのである。この違いは,非人集団の都市社会の中での位置付けと矛盾のあり方に大きな違いを生んでいった。

江戸と大阪とのちがい以上に,幕府と藩や各藩によっても大きなちがいがあったと考えられる。事実,岡山における非人の社会的位置付けと,香川や徳島では明らかに違いがある。
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岡山の「目明」
元禄(1688~1703)以前には平人の罪人の中より1~2名を任命していたが,問題が発生して解任し,貞享四年(1867)に穢多の嵐山覚右衛門を「目明」に任命し「捕方」に穢多を動員するようになった。以後,覚右衛門が「穢多頭」となり「目明」役を勤め,その子孫に受け継がれていった。

先年目明嵐山覚右衛門と云者備中淺口郡六條印東村より御野郡竹田村へ為引越,同村ニ而発返し,上田五反十歩半御免帳外ニ而違有之,宝永七年諸郡発返田畑御免帳入ニ相成候節覚右衛門か此田畑も本免三ツ之内二ツ下ケ御免帳入に成其後岩田町に在宅御郡方咄伝ニ此覚右衛門ハ袴上下共御免支度等も御郡会所台所ニ而仕御徒格ニ准し候御取向ト云 正徳二年辰六月致病死跡家内竹田村へ引退,依之跡家之儀左之通
     (後略)


これは「岩田町目明家」(吉田研一編『撮要録』日本文教出版 1965年 所収)に書かれている。

柳田國男の「所謂特殊部落ノ種類」より,「番太」に関する記述を抜き出してみる。

「サンカ」ヲ一ニ川原乞食ト云ウハ川原ニ小屋掛セシニ基クカト思ワル。備後 双三郡三良阪村ニハ番太ト云ウ階級ニ属スル十数戸ノ部落川原ニ住シ竹ニテ小屋ヲ造ル。川原ノ石ハ此ノ徒ノ領スル所ニシテ,村ノ農家ハ年々水田ノ水口ニ置クベキ石ヲ採取スル対価トシテ彼等ニ少分ノ穀物ヲ払ウト云エリ。

茶筅ハ又多クハ所謂番太ノ任務ヲ為ス,即チ牢屋刑場ノ番人,変死人ノ取片付,葬場墓穴ノ世話,道路ノ掃除,山野溜池ノ番ヲ為ス。
又村々ニ番太ト称スル一種ノ民アリ。其ノ中ニハ鉢屋,茶筅ノ右ノ如ク転業セシモアレド,単純ニ番太トシテ来住セシ者モ多シ。此ノ類ハ此ノ徒ノ土着ノ最新ノ形式ナリ。其ノ始メヲ考ウルニ,別ニ番太ヲ募集スト云ウ広告ノ手段アルニ非ズ。唯年々村ハズレニ来テ小屋ヲ掛クル非人ノ中ニ,ドウヤラ実体ラシキ爺アリテ顔馴染ト為リ,然ラバ永クソコニ住ミテ野荒シ盗伐等ノ番ヲ為スベシ,其ノ地ハ無代ニテ作リ又年々毎戸二合三合ノ米麦ヲ遣ワサンナドト約束ス。村ニ由リテハ此ノ外ニ三昧場ニ近クシテ人ノ好マザル空地ナドヲ与エ,穴掘リ,湯潅,火葬ノ役,行倒人ノ始末ノ如キ凡ソ村ノ者ガ夫役ニテ引キ受ケ難キ事務ヲ掌ラシム。此ノ二者相兼ヌルアリ又併存スルアリ。後ノ場合ニハ番太ト謂ワズ「オンボウ」ト謂ウ。即チ御坊ニシテ例ノ「シュク」ナドヲ何々法師ト云ウト同ジカルベシ。此等ノ職業ハ如何ニモ安全ナル保障アル土着ナレドモ,一村ニ二戸以上ヲ要トセズ。部落トシテハ昔ヨリ殆ト発達ノ見込ミナカリシ者ナリ。而モ地方警察ノ制具ワリテハ番太ハ不要トナリタレバ,明治以後再ビ此ノ者ノ引上ゲ去リ葬式ノ節ナド村ノ者ノ飛ダ不自由ヲスル例往々アリ。其ノ以前ニモ双方色々ノ都合ニテ屡々村ヲ立チ退クコトアリ,要スルニ完全ナル土着ニテハ非ザリシナリ。

番太ヲ置ク必要ハ寧ロ此ガ為ニシテ,恰モ盗賊ノ一人ヲ懐柔シテ眼明シト為スト一様ナリ。

要は,社会や世間が,周囲の人々が「穢多・非人」をどのように見ていて,どのように認識していたかである。また,幕府や諸藩が「穢多・非人」をどのように扱っていたかである。江戸時代は明確な身分意識をもって人々が暮らしていた時代である。貧富や職業,身なりによって身分が決まったわけでも,身分に対する貴賤が決まったわけでもない。身分としての社会存在に対する貴賤観・人間観があったのである。

「部落があるから差別があった」のではなく「差別があるから部落がある」と同じく,身分が決められる前提としての社会存在があり,その社会存在に対する人々の認識があり,そこから社会観や人間観が形成され,それらの社会存在を身分として把握するようになったと考えている。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。