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「重監房」に学ぶ(5) 長島事件

「重監房」設置の直接の要因は「長島事件」(1936年8月)である。

「事件」が“円満解決”したはずの秋(10月1日から2日間)、療養所所長会議が東京で開催されたが、その場において長島愛生園は「療養所ノ拡充ニ関スル件」とする決議案を提起して「癩予防法」体制のいっそうの強化を図ろうとした。そのなかで、「癩患者ニ対スル懲戒施設ニ関スル件」として行刑政策の徹底を促すと同時に、「特別監禁場ヲ設置セラレタキコト」との要求があった。これは明らかに長島事件を負の教訓として論議されたものであり、「不良患者」の療養所からの一掃を企図するものであった。
あろうことか、2年後の1938(昭和13)年の12月には、群馬県草津に設置された国立栗生楽泉園に「特別病室」(重監房)が、三井報恩会の資金援助によってつくられた。「全国」の療養所から送り込まれた者の、設置翌年の1939年から47年までの総数は92件と伝えられており、そのうち、厳寒の冬場の収容室で死亡した者18件を含む22名が“獄死”するという過酷さであった。

田中等『ハンセン病の社会史』

1931(昭和6)年、従前の「浮浪癩者」を対象とした「法律第11号 癩予防ニ関スル件」を大幅に改定して、在宅を含むすべてのハンセン病患者を収容し隔離することを目的とした「癩予防法」が制定された。この法律が「無らい県運動」が全国規模で展開される契機となった。

この法律制定の背景を田中氏の上記著書より引用しておく。

…内務省保健衛生調査会での光田健輔主導による離島隔離論をふまえ、内務省はまず1920(大正9)年、既設の公立療養所の収容定員を大幅に増員するとともに、さらに国立の療養所を新設して、第一段階として10年間に都合5000名を収容する計画案(その達成後に残りの10000人を全収容する「癩の根絶計画」(20年根絶計画)となる)をうち出した。…そして、1930年の11月には国立癩療養所長島愛生園の開所式が行われ、光田健輔が園長として就任し、翌1931(昭和6)年全生病院より81名と途中収容者数名が「開拓患者」として入園した。
この1931年は、国立療養所の建設と法の改定(癩予防)に加えて、ハンセン病の隔離体制を全面化するための社会的条件がつくりだされた。すなわち、これまで東京市養育院や中央事前協会での光田健輔を登用してきた、実業家であり多岐にわたる社会活動家であった渋沢栄一と、全患者隔離を推進する法の推進を掲げる内務省が合同して、半官半民の癩予防協会が設立されたのである。
具体的には…「癩撲滅」事業の財政的基盤(募金活動)の確保と、大衆運動に照応したイデオロギー(病毒伝播=伝染病、隔離強化、民族浄化など)の確立である。そのため、大正天皇の后である皇太后節子(貞明皇后)をかつぎ出して、設立にあわせて多額の「下賜金」を拠出させることによって、皇恩をアピールし戦時体制下の「国民」の団結力(一君万民)を強化しようとしたのである。
以降、癩予防法と国立療養所、癩予防協会の三者による「癩の根絶」策が容赦なく進められていき、とりわけ1930年代をとおして激烈に推進されていく「無癩県運動」においては、この癩予防協会が中心となって「癩撲滅」キャンペーンを展開していくことになる。
「無らい県運動」が本格的に全国で展開されるようになったのは、内務省衛生局が策定した「癩の根絶計画」(1936年)からである。「一万人収容施設」の完成と「無癩県」をめざして各県が競い合うように「癩患者狩り」を行った結果、瞬く間に収容所は定員をはるかに超える患者数となった。当然、園内の待遇は悪化の一途を辿ることになる。食糧の不足、職員の不足、住居の不足、医薬品の不足…等々、当初の医療を目的とした療養所など名ばかりの「強制隔離収容所」であった。
強制収容と隔離の政策推進は、療養所の急速な膨張と緊縮財政下での処遇の激烈な低下によって、光田健輔長島愛生園長が標榜する大家族主義-楽土建設のスローガンもまったくの空無にしか過ぎなかった。すでに四半世紀近くの歴史を重ねてきた公立の療養所では、空腹、患者作業、断種・中絶、逃走等々…およそ療養とはほど遠い過酷な<生>の収奪が繰り返されてきた…。

田中等『ハンセン病の社会史』

田中氏はその悲惨な実態を長島愛生園の入所者が記したレポート(1932年ごろ)から抄出して(『隔絶の里程』)例示している。

…飯は米が三分に麦が七分というとてもひどいものだし、副食物は毎日々々イモに菜っ葉に、顔のうつるような味噌汁に玉葱かカボチャに決まっている。…だから当地の患者は社会から島に捨てにくる犬や猫を殺して食って仕舞ふ有様だ。
労働は強制的にやらせられる。朝9時から午後4時まで7時間労働だ。その労働もなまやさしい事ではない。
奴等は俺達をこき使って置き乍ら、病気が重くなったり、負傷して動けなくなると、やれ国家の寄生虫だの、国賊だのと吐かして全くひどい待遇をする。ある者が負傷して外科材料をもらいに行くと、贅沢な事を言うな、橋の下(その人は浮浪生活をしていた)に外科材料はないだろう。乞食していた時に負傷した場合はどうして居た。お前なんかホータイを使うのは勿体ない。ボロギレで沢山だと、実に言語道断な事を吐かす。

田中等『ハンセン病の社会史』

他の療養所自治会が編纂した記録集(年史)や入所者たちの著書、さらに国賠訴訟での証言などからも当時の療養所内の生活環境がいかに劣悪であったかは明らかである。そのような中で「長島事件」がおこったわけだが、この証言で明らかなのは、医官や職員の患者に対する「意識」である。彼らが患者をどのように見ていたか、患者をどのように認識していたかである。当時の世論や社会通念を反映しているわけだが、要するに自分たちとはちがう「人間」であり、「寄生虫」「国賊」という表現からわかるように「迷惑な存在」として見ていたのである。

当時の長島愛生園の収容定員は890名に対して、実人数は1207名に達しており、居室は過密化して、食事はいっそうの粗食を強いられており、それだけで患者たちの忍耐は限度を超える藻のであった。こうした超過収容による予算配分の矛盾が激化するなかで、園当局の職員の態度はすさんだ横暴なものとなり、園内の生活環境はきわめて深刻な情況であった。
「一食を割き、半座の褥を譲る」という厳しいスローガンのもと、8月10日に作業賃の縮減を狙った患者作業帳簿の抜き打ち監査を強行した当局に反発し、一部作業(作業事務所の事務作業)を拒否することを決定した。併せて、12日の早朝に逃走を試みた患者4名が検束されて園内の監禁室に収容されるという事件が起こり、ウムを言わせぬ強引な懲罰に対する入園者側の憤懣がぶちまけられた。
こうした園内の不穏な空気を察知した光田健輔園長は、昼前に全入園者を礼拝堂に集めて、「作業中止などの事態を招くような行動を慎むよう」に訓辞したという。が、入園者たちとの応答が長引くうちに、昼の配食時間になり、入園者と炊事場職員が押し問答のあげく混乱をきたし、また、園長に対して新たに作業賃の増額を要求するなどの声もあがった。事態を収拾するために、昼過ぎに、園側(事務官ら3人)と入園者側(木元厳総代ほか)が協議したが、新患者の収容停止、収容人員に見合う予算支出などの根本的な要求を行なって譲ることはなかった。午後7時ごろ、入園者約100人ほどが患者地区中央の高台に集結し、「恵の鐘」を乱打し、気勢をあげながら島をデモ行進したりし、園内は騒然となったが深更におよんで解散した。
8月13日には、看護部と動物飼育部を除く全患者作業がストライキに突入した。

田中等『ハンセン病の社会史』

以降の詳しい経緯は、長島愛生園入園者自治会編『隔絶の里程』を読んでもらいたい。ここでは田中氏の記述から重要な部分と結論のみをまとめておく。

光田園長との自治制をめぐる折衝は結論に到らなかったため、内務省、岡山県当局の出張を求めて是非の判断を乞うことになった。翌14日に牛窓警察署長らが園の要請を受けて、折衝するが進展はなかった。入園者は入園者大会を開き、内務大臣宛の「嘆願書」を決議して提出する。
16日、内務省奥村理事官、岡山県警察部長、堀部特高課長、警務課長らが来園して実態調査を行い、翌17日に折衝するが実質的な“ゼロ回答”であった。そのため、患者大会が開かれ、翌18日朝食から全員がハンストを決行するに到った。2日間のハンストは特高課長の「本事件に関わる責任者の追及はしない。円満解決をみるまで仲介の労をとること」を条件にハンスト中止の勧告を受け入れた。しかし、作業拒否は続行した。
23日に至って、堀部特高課長患者から、事態打開のために、患者側要求から光田園長ら4職員の辞任要求を撤回して、自治制の要求1本に絞ってほしい旨の要請があった。…そこで園長示達事項として「入園者全員ヲ以テスル自助会ノ組織ヲ認メ嘆願事項中自助会ニ委譲シ得ル部分ハ自助会ヲシテ経営セシムルコト」が確認された。

田中等『ハンセン病の社会史』

田中氏はこれを評価して次のように書いている。

かくして「愛の殿堂」と称した長島愛生園における強大な権力=光田イズムと真っ向から対決した入園者たちは、真夏の離島の地に、その名こそ「自助会」ではあったが、辛苦のなかで掲げた“自治制”の要求を断固として貫徹したのであった。

田中等『ハンセン病の社会史』

宮坂氏も『ハンセン病 重監房の記録』に次のように書いている。

けっきょく、この事件によって超過定員への経費が追加予算で支出されるようになり、待遇改善や作業慰労金の値上げが実現した。自治会の結成は、国立の官庁であるとの理由で拒否されたが「作業」と「売店」については、患者による自治的な運営が認められた。
これは画期的なことだった。日本の近代医学の歴史のなかで、このような「患者の権利運動」が第二次世界大戦前に起こり、それが一定の成果をあげたということは、注目に値する。しかし、光田にしてみれば、自分の理想であった「大家族主義」が崩壊したことを意味した。職員は動揺して辞職を願い出てきた。慰問に訪れる人はなくなり、「十坪住宅」の建築費の寄付を断る人もいた。

宮坂道夫『ハンセン病 重監房の記録』

「長島事件」の原因は、定員の超過であり運営予算の大幅な不足である。その結果、療養所でありながら不十分な医療、強制的な患者作業の過酷さ、居住施設の不足、職員の横暴さなどが遠因となった。それは光田健輔が理想として思い描いた「大家族主義」の構想が崩壊するに十分な要因であったが、彼は要因を「不良患者」に求めた。

自らの理想とする「大家族主義」を成り立たせるために、光田は長島に「善良なもの」だけを連れてこようとしたのだった。苦心して作った国立療養所を「放恣無頼の徒の巣窟にしてはならない。後から入園してくる人たちのためにも、淳良な気風を作ってくれるような、選ばれた人たちでなければならない」と、全生病院で募った300名ほどの希望者のなかから、81人を選んで長島にやってきたのだった。
ところが、「伝染病者が門前まできているのを、捨てておくことはできない。伝染病院に定員はない」と、定員を大幅に超過する患者を抱え、それによって「大家族主義」が立ちゆかなくなったのだと、彼は考えた。
こうして、「善良な患者」と「不良患者」を区別して、前者の恩恵になるよう、「不良患者」を抑え込まなければならないという発想が、光田の胸の内で次第に強まっていく。

宮坂道夫『ハンセン病 重監房の記録』

「長島事件」の要因を考えるとき、もし十分な医療施設や医薬品、医師と看護師、居住空間の確保、食糧(配食)の提供、それらをまかなうだけの予算や職員の保障があれば、起こっていなかったのではないかという思いがある。それは現在の療養所の実情である。少なくとも、私が初めて訪れた数十年前には医療施設・生活環境としては充実しているように感じたが、それは戦前からの患者の闘いの成果であるのだが…。

事実、心ない声も多く聞いてきた。何もしなくても三食食べられて、無料で治療も受けられて、衣食住が保障されているのは、我々の税金である。衣食住の心配もなく、好きなことをしてのんびり余生を送れるなんて…。昔は島から出られなかったけど、今はどこにでも行ける自由もある。恵まれた老後だ。…そんな声の主は療養所に行ったこともない人間ばかりではなかった。怒りを通り越して虚しさを感じてしまった。


では、あらためて「長島事件」に象徴される問題点は何であったのだろうか。
光田健輔が東京養育院時代から目にしてきたハンセン病患者の悲惨な姿を救いたいという憐憫の情、ハンセン病を根絶したいという医師としての使命感は賞賛と尊敬に値する。人並み外れた情熱により「救癩の父」と呼ばれる所以は確かであると思う。

しかし、それは宮坂氏が言うように、彼が生きた時代の影響を受けた、明治の家父長制を理想とした「大家族主義」であり、それが光田の<パターナリズム>に帰結であったこともまちがいないだろう。

…「救らいの父」といわれるとき、そこには弱い立場に置かれたハンセン病患者たちを子供に見立て、それを「庇護」する父親のような光田のイメージがある。ときには手弁当で働き、政治家や財界人に働きかけ、療養所というユートピアの建設を目指す様は、まさに「父親」のイメージである。

宮坂道夫『ハンセン病 重監房の記録』

光田の献身的な「働き」と情熱が強ければ強いほど、それに反対する考えや反抗する態度への容赦ない「弾圧」が正当化され、過激化していく。光田には、「これだけしてやっているのに…」という思いが強かったであろうから、自分に反抗する患者たちに対しては「憎悪」へと転化したのだろう。権威や権力をもつほどに独善性と独断性は増していった。

私は「長島事件」の元凶は、光田の思い描く理想像が「机上の空論」であり「砂上の楼閣」に過ぎなかったことであると考えている。すべて光田の脳内で夢想された「設計図」「構想図」でしかなく、他者の言葉に耳を貸すこともなかったであろう独善性と独断性が招いた悲劇と思う。

ハンセン病を感染力の強い恐ろしい病気と喧伝することで、その恐ろしい不治の病の根絶に立ち向かう医師としての自分を演出し、周囲からの賞賛と尊敬、権威という称号を得ることを望んだのではないだろうか。彼のコンプレックスが生み出した「立身出世」であり、登り詰めた地位と権威を守るために、患者に無理を強いたのではないだろうか。

また、国家や政府も光田という都合のよい医師を必要としていたのだ。

だが、注意する必要があるのは、光田という医師の影響力を強調するあまり、この蜜月の関係を作りだした張本人を光田とみなし、救癩事業のすべての原因を彼に帰してしまう恐れがあるということである。あるいは、そのとおりかもしれない。しかしながら、光田が政府の力を必要としたのと同様に、政府もまた光田のような医師、-癩者の撲滅に異様な情熱を燃やす専門家を必要としていたのである。

澤野雅樹『癩者の生ー文明開化の条件として』

澤野雅樹氏の『癩者の生ー文明開化の条件として』の一文である。(彼の光田批判については参考となる指摘が多いが、別項で取り上げたい)

繰り返すが、「長島事件」は起こりうるべくして起こった悲劇である。今更ながら、その無計画としか思えない「癩の根絶計画」、特に収容人数と予算額、職員数、収容施設と治療施設、それらすべてが不足するような、さらに「無らい県運動」による収容患者の激増などがまったく予測されていない。準備不足も程がある。だが、それはハンセン病患者を「患者」と見なした場合であって、患者を「排除・排斥」「隠ぺい・隔離(隔絶)」の大正としての「収容者」と見なせば、詰め込むことも、食糧不足、医療放置も問題ではなかった。なぜなら「絶滅」が目的であるからだ。この認識が「寄生虫」「国賊」等々の患者観に表れている。

「長島事件」が光田健輔に与えた影響は大きい。彼自身の患者観も大きく変化しただろう。彼の独善性はさらに強固になり、患者を自分に忠実な者と反抗する者とに二分化する考えは決定的となったであろう。

また「事件」当時、患者総代として園当局との交渉の前面でたたかった木元厳は、医局の治療拒否という冷酷な仕打ちをうけながら、1943(昭和18)年に不遇の死をむかえた。あの長島開拓団のひとりとして、全生病院から光田健輔につき従うかのように来島したのだったが、「事件」後は一方的に「思想的元凶」との烙印を押され、光田イズムに翻弄されるかのような悲惨な<生>を送ったのであった。

田中等『ハンセン病の社会史』

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。