見出し画像

光田健輔論(10) 権力と人権(3)

目的や大義のために他者の人権を無視しても構わないという論理が昔も今も罷り通っている。私が最も許せないことである。それも無自覚に、無責任に、躊躇すらなく平気であることが私には信じがたいことである。

…「癩患者も人は人」、詳しくは「癩患者」とは「癩を病む人」であって、「癩は病気」「病気は病気」に止まるが、「患者は人」「人は人」「あくまでも人」でなくてはならない。それにもかかわらず日本の癩対策の基本原理である終生隔離は、癩はいかに軽快・治癒しようとも、再発の恐れがまったくないとはいえないとして、富士の名目のもとに継続的な隔離こそ唯一最善とする患者(人間)無視だった。

成田稔『日本の癩対策の誤りと「名誉回復」』

「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」において、元ハンセン病患者(回復者)は、これは「人生被害」である、「人生を返せ」と訴えた。賠償額を1億円としたことを批判した言葉に、彼らは「1億円で、私の人生とあなたの人生を取り替えてくれますか」と応えた。

長島愛生園の精神科医をしていた神谷美恵子が、21歳のときに療養所を見学したときに創った詩がある。その有名な一節に「どうしてこの私ではなくてあなたが? あなたは代わってくださったのだ。」がある。この言葉は「本当の愛」であるとキリスト教的解釈で人びとに感動を与えている。しかし、私は必ずしも同意できない。私が無神論者であるからではない。宗教的な慰めや心の平安をもたらす宗教の効力を否定するものでもない。だが、先の「1億円で、私の人生とあなたの人生を取り替えてくれますか」の言葉と対比させて考えてみてほしい。
私は神谷に問いたい。光田健輔という「権力」の前では「宗教」は無力だったのか、と。

苛烈な患者作業、乏しい食糧と医薬品、狭隘な住居、横柄で横暴な職員の言動などを彼女は目にしていないのだろうか、患者からの訴え(相談)はなかったのだろうか。
そして、一度として、光田の<絶対隔離>を疑うこともなかったのか。
…………………………………………………………………………………………………………
各療養所自治会が編纂した「自治会誌」を読むとき、園長の無能さと無責任さを痛感するとともに、権威を笠に着て横暴さの限りを尽くした職員の姿に憤怒の感情を抑えることができない。軍国主義によって正当化された理不尽な軍隊生活の様相を療養所に見る。

特に名指しで批判されている2人を挙げておきたい。全生病院の歴史に悪名の高い「毛涯鴻」と栗生楽泉園の「加島正利」である。

『倶会一処』(多摩全生園患者自治会編)の「まえがき」に、「この年(1979年:昭和54年)を記念して患者自治会では、患者の手による70年史を編纂出版することを決めた」として、本書の趣旨と目的が明晰に書き記されている。抜粋して引用する。

患者の強制終生隔離によってこの国かららいの絶滅をはかることがわが国のらい対策の根幹であり、その遂行のために療養所という名の強制収容所が作られ、所長に警察権が与えられ、所内に監房があるというたぐいまれな「療養所」が明治・大正・昭和と存在しつづけた。
この閉ざされた園の中で何が行われ、患者たちの日々がどのように過ぎたかを、この本は赤裸々に語っている。われわれは施設当局者の患者処遇の過酷さや非人間性をも、患者内部の悪徳や恥部をもはばからず書いた。…
そればかりでなく、事実こそ、最良の教師ではないだろうか。この本が告げる事実の総体を教材として、明治以来国が行ってきた患者の強制終生隔離という非人間的な政策が、この国かららいをなくすためのやむを得ない必要悪であったのか、それとも国家が陽のあたる社会の表面からローラーのように不幸な患者たちを押しつぶし、ひたすらばく進して来た撲滅政策が、じつは巨大な、つぐない得ぬ過誤ではなかったかを、読者がじっくりと考えてほしい。それがわれわれの願いである。
われわれも、もちろん、ながい隔離療養生活のなかで、患者を心から愛し献身された、数多くの、心やさしく、気高く、けなげな職員やその他の働きびとたちを知っている。だが、それらの人びとやその献身の生涯を賛美し、聖化することにつなげて、国家が行って来た非人間的な行政(撲滅政策)そのものを肯定し、聖化しては絶対にならないと思う。

多摩全生園患者自治会編『倶会一処』

少し長く引用したが、ハンセン病問題の核心と何を学ぶべきかを的確に言い表している。「事実」を「教材」として、同じ過ちを二度と繰り返さないように、何が「過誤」であるのか、「必要悪」として大義のために「犠牲」を顧みることもせずに「聖化」してきたことは許されるのか、歴史の中に「闇」として埋もれされてよいのか等々、我々が考えなければならないことは多い。

この『倶会一処』「第2章 人と習俗 2 毛涯鴻」より抜粋して「事実」を引用する。

長野県出身で悪名の高かった庶務主任毛涯鴻は…患者の入退院や取り締まり関係の仕事を担当しながら、予防法改正によって所長に付与された懲戒検束権を盾にして秩序の維持にらつ腕をふるい「全生病院には院長が二人いる」といわれたほどの人物であった。
当時「百たたき」「二百たたき」は実際にあった。逃走患者が捕まると、この庶務主任の命令を受け、請願巡査がたたくことになっていた。そして、たたかれる者の泣き声が、時には監房の外まで聞こえた。
…つまり、毛涯自身も直接殴ったということで、その理由は「患者のくせに眼鏡なんかかけて」であり「セルの着物なんか着て」であり「巻煙草なんて喫みやがって」であり「おれに挨拶もしやがらない」であり、ほとんど見境いなく吠える番犬のように際限がなく、しかも患者には口が裂けてもいえない秘密のひとつや二つあるのが当然だが「この野郎、おれに嘘をつきやがって」と下駄で蹴倒され、怪我をした者もあった。
要するに浮浪らいは浮浪らいらしい格好をしていないと人事係として見分けがつかなくてやりにくい、という発想のようだが…。

多摩全生園患者自治会編『倶会一処』

続けて、数多い毛涯の「悪行」の例が書かれている。無断帰省しようとした青年が失敗し、監房に入れられた。「普通の知能ではないのだから」と、兄や周囲の者が同情して頼んだが、出してもらえず、「房内で首をくくって死んだ」。死体を兄にも見せずに納棺したという。これに憤った兄や入所者が集まって抗議大会を開き、光田と毛涯の責任を追及した。光田も窮し、にがりきっていたとある。

山本光蔵は一日二銭の作業でこつこつため、七、八〇円の貯金を交付所にあずけていた。ばくちもやらず、働く一方で正月に一合の酒を飲むのが唯一の楽しみであったが、ある年の暮れ、酒を買いに出て捕まった。毛涯は貯金を全部没収し、五〇銭だけを旅費にやる、といって雪の上に座らせ、山本は片手が悪いので片手だけで受け取ろうとすると「頂くのにそんな不作法があるか」と怒鳴って悪い方の手を出させ、五〇銭やって追い出してしまった。
山本が後日、再入院してから、鉄管棒をもって毛涯を「殺してやる」と追い回したことがあった。彼は大勢の職員に取りおさえられたが、毛涯は高下駄で白絣を着ていたが袴をまくりあげ、馬がはねるような格好をして逃げたものであった。…
毛涯は昭和8年7月31日、入所者のあいだに積りつもった怨嗟と嫌悪を置き土産に退官した。…それからいけば、全生病院は見違えるようによくなってよいはずであった。
しかし、毛涯は、たんにその典型であり、たちのよくない職員は他にも掃いて捨てるほどいた。…逃走や賭博の現行犯を捕まえることを生きがいにしていたような職員もおり、毛涯ほどの大物ではなくても、その跡継ぎに事欠くようなことはなかった。

多摩全生園患者自治会編『倶会一処』

成田氏は毛涯と光田の関係を次のように書いている。

光田は毛涯の暴力を多分承知していたろう、つまり功利的無視である。…患者管理の事務方には、逃亡阻止を厳命していたはずで、そこから当該事務官の暴言や暴行を生んだといえるかもしれない。

成田稔『日本の癩対策の誤りと「名誉回復」』

私は、光田の患者観が端的に表れていると思う。自分の意に従う患者とそうではない患者、つまり<絶対隔離>を甘受する人間とそうではない人間、この2分法が光田の判断基準であった。さらに、その根底には患者を「同じ人」と認識していない。「人」と「癩者」という明確な価値基準があったと考える。その患者観は、当時の社会認識を背景に、職員に反映されていたと考えられる。彼らは患者(入所者)を「監獄の中の囚人」程度にしか思っていなかった。
…………………………………………………………………………………………………………
成田氏が「光田を知らずして人間無視に徹していた最悪の人物」と表する「栗生楽泉園の加島正利」について、栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋-栗生楽泉園患者50年史』「加島正利」より抜粋して引用する。

「特別病室」の出現は、当園入所者の日常生活のうえに、当然暗く重い影を投げかけた。…常に怯えて周囲をうかがう患者集団と化していったのである。しかもそんな患者集団を追い立て、群を散らし、裏切り者を育て、患者の中から自らの手兵を養い、もってさらに抑圧を強めるためにの担当職員-加島正利の存在が、まさに「特別病室」に直結するかたちで、入所者一人ひとりにのしかかってきたのだった。
加島は千葉県出身で、当園開設時に庶務課長霜崎清の縁故により雇員として採用された。…そして「特別病室」が設置される同じ13年(1938年)、加島は霜崎のバックアップもあって看護長に就任したのだ。看護長と云っても医療面に携わるのではなく、それはあくまで患者管理を業務とする職種であったが、しかし分館内では特別の要職とされていた。
…加島が看護長に就任早々、清水(定春)は湯之沢部落の飲食店で無銭飲食し、ために当園に突き出された。加島はさっそく「監禁所に入れるゾ」と清水をおどかし、園長の“判決書”を取りつけてきてそれを清水に示した。清水は見るも哀れなほど恐れ入り、罰として所内作業1ヶ月を無給で働くことを条件に、辛うじて監禁所入りだけは免れたのであるが、平身低頭する清水の姿をみて、加島は大いに満足したのだろう。それからというもの「頭を冷やすか」とか、「少し涼しい所へ入ってくるか」とか、何かといえば監禁所送りをほのめかして患者を抑えにかかった。そんな折しも「特別病室」が出来あがったのだから、加島の言葉は、もはやけっして脅しなどではなくなったのである。…
加島は作業着に白衣を羽織り、ゲートルに地下タビという姿で所内各所を回り歩き、こんなところを畑にしては土堤が崩れると云っては、その場で作物を引き抜いて捨て、また部屋の内部までいちいち覗いては、打ち釘一つにも文句をつけ、しかも患者の受け応えが少しでもわるければ、すぐさま「涼しい所で頭を冷やすか」と脅すのだった。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋-栗生楽泉園患者50年史』

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋』「第二章 抑圧の日々」および「第三章 人間回復へ」には、庶務課長霜崎清の傍若無人な園内支配と患者抑圧、さらに私腹を肥やすための不正と横領の数々(物品の横流し、患者の作業賃等のピンハネなど)が書かれている。
また、霜崎の手下として、患者に対する横暴な態度、理不尽な要求と強制労働、監禁所や「特別病室(重監房)」への強制収監を手段として患者を恫喝・暴行の限りを尽くした加島正利については、さまざまな出来事の記述の中に必ず名前が挙げられている。
医務課長の矢嶋良一は「手不足を理由に平気で看護師にメスを握らせ、ために患者が死に追いやられる事例が絶えず」、「特別病室」収監者を患者の扱いからはずして診療を施さずに次々と死亡させたことが記述されている。
他にも、栗生保育所の保母菅野コト子の児童虐待問題は、悲惨の極みだった。少し引用しておく。

…これには子供の預け親たちが次々に証言に立ち、涙ながらにその実態を明らかにした。すなわち、保母の菅野コト子は常に竹の棒を持ち歩いて子供たちに体罰を加えていること、寝小便をしたとして極寒の廊下にいつまでも立たせ、またいたずらを理由に食餌を与えなかったこと、子供の頭を押さえて積雪の中にその子の顔を突っこんだこと、仕置に子供を南京袋に閉じ込め窒息死させたこと、足袋が年に一足きりのため子供たちは寒中でも素足でいること、空腹のあまり蛙を捕って食べていること、栄養不足で六歳になっても立って歩けない子供がいること、畳も破れほうだいでその上に布団ならぬ綿にくるまって寝かされていること、患者の親は子供の死に目にもあわされないこと等々、いくども声をつまらせての証言であった。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋-栗生楽泉園患者50年史』

これは多くの患者が傍聴するなか、「人権闘争」のきっかけをつくった日本共産党が来賓として出席した、患者代表の「生活擁護・要求貫徹実行委員会」と「施設当局との直接交渉」の席上での証言である。「人権闘争」に関しては『風雪の紋』に詳細が書かれているので、ここでは書かないが、読むほどに職員の横暴さと傲慢さに怒りが沸いてくる。
加島に関して言えば、この席上で追及されても、『上毛新聞』に次のように述べて開き直る始末である。

16日、同日付『上毛新聞』は「あばかれた栗生楽泉園/愛の聖地の内幕/絶えかねて患者起つ」の見出しで、報道関係としては初めて患者闘争を取り上げた。そして記事の中で、患者代表の藤田武一、大和武夫の談話として「特別病室」及び「別途会計」問題を紹介、同時にこれに対し「そんな事はない/楽泉園当局は語る」という古見嘉一園長並びに看護長加島正利の談話も掲載した。それによると古見は、「別途会計は職員が働いて得た金を積んだもので馬や車材木などの資材を買いそれに現在の物価高を補うつもりであった」とし、また加島は「特別病室」について、「悪質犯罪患者を寒い所でこらしめるのがよいと特別病棟を作ってあるが裁判所や警察の拘置所と違って病棟であるから園長が感化の必要あって入れる。しかも警察と厚生省の許可を得てやっていることだ」と、この期に及んでなお強弁している。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋-栗生楽泉園患者50年史』

患者による粘り強い交渉は続き、共産党を中心とする国会議員や県や町の議員も巻き込む大きな動きとなり、国会での政府追及にまで発展し、厚生省からの調査団が派遣され、楽泉園の実情が白日の下に明らかとなり、患者側の「要求書」に基づいた解決がある程度ではあるが実施されるに至った。施設側当事者の結果のみ引用しておく。

…園長古見嘉一は(10月)11日付をもって休職を命ぜられ(園長には新たに本省より玉村孝三が赴任)、また庶務課長霜崎清、看護長加島正利、炊事主任山口馬吉の三名と栗生保育所の保母菅野コト子は懲戒免職、営繕主任渡辺明は青森・松丘保養園に転出-以上は患者側の告発による処分だったが、分館長太田信男の場合患者の告発はなかったものの、分館内で加島の言いなりになっていた点を咎められ、東京療養所へ転出させられた。

栗生楽泉園患者自治会編『風雪の紋-栗生楽泉園患者50年史』

なお、医務課長の矢嶋良一であるが、外科医の不足から追放を免れ、後に玉村のあとに園長に就任している。「特別病室」を解体したのは彼である。証拠隠滅を図ったのか、それとも自らの怠惰の結果、多くの患者を死亡させた痕跡を消し去りたかったのか。

光田健輔は「人権闘争」および「特別病室」の廃止について、次のように書いている。

…草津の楽泉園ができたのち、全国療養所長会議によってこの困難を法の定める範囲の中で解決しようとして楽泉園内に堅固な監禁所を作って逃走を不可能にすることにした。…
監禁であるから一般患者と同様には、治療や給與の行届かない点もあったことであろうが、これに対し終戦後そこに収容せられているものの中から「治療をしない」「食事を與えない」したがってこれは人権蹂躙であると抗議して関係方面へ運動するものがあった。これに対して過去数十年間の療養所管理の困難な事情や、監禁所設置にいたる長い間の研究討議の過程を知らない一部の法律家たちが法理論の上からであるのか、安価な同情からであるのか、とにかく人権の蹂躙を認めて草津監禁所の厳重な設備はとりこわされた。そしてそのとき園長は休職となったのである。永い間ライのために危険を冒して働いていた園長が、ほかの善良な幾千の患者のためにとっていた手段を非として手に負えない不良患者のために追放せられるというようなことが、きわめて最近に起こっているのである。

光田健輔『回春病室』

なんと身勝手な自己正当化なのだろうか。光田は上記した霜崎清や加島正利の不正行為や患者虐待の事実を知った上で書いているのだろうか。古見の見て見ぬ振り、職員を監督すらできない無能な園長であることを知っていたのだろうか。(私は彼の年譜しか知らないので、確かなことは言えないが)「特別病室」そのものを一度でも見たことがあるか。

光田は「不良患者」というが、自分の意に沿わぬ患者や待遇改善を訴えた患者を「不良患者」にしているだけであり、光田が「草津送り」を命じた患者が果たして犯罪を犯したり、所内の「善良な患者」の害になるような患者であったかどうか、甚だ疑問である。光田の価値観(患者観)や判断基準に客観性がないことが明らかである。彼には「人権意識」もなければ、「人権」に関する知識も認識もお粗末な程度であろう。この文章に光田の本質がよく表れている。

光田は、上記の文章に続けて、次のような一文を書いている。

療養所にいる患者は、社会に病毒を流さないために、自ら狭い地域にいて単調な生活にも甘んじている「社会の犠牲者」である。これに対しては心あるものは常に温かい同情と感謝の心をもって彼等に接し慰めているのであるが、国家は万全の策をもって患者を庇護すべきであることはいうをまたぬ。

光田健輔『回春病室』

どの口が言うのか、と思わずにはいられない。このとおりであれば、光田は決して「心あるもの」ではない。古見も霜崎も加島、菅野もである。自分勝手な都合のよい「同情」であり、「感謝」など微塵も持ちはしていなかっただろう。

成田氏は「毛涯鴻」の傍若無人な暴言と暴力、「特別病室」の残虐性を脅しの道具とした「加島正利」に言及した後、次のように書いている。

問題は、療養所という人の病を癒す場において、癩を病んでいたばかりに、低俗で粗暴で自己顕示欲の強い、それでもそこらの親父風情だが、それがまるで犬猫どころか鼠取りにかかった鼠でもいたぶるように、死ぬとわかっていて人を殺した。最も無残な飢餓を強い、酷寒の日が続く中で凍死させたのである。-癩を病んでいるというだけのことで。日本の癩対策の根源的な誤りの生んだ悲劇だった。

成田稔『日本の癩対策の誤りと「名誉回復」』

私がなぜハンセン病問題にこだわり続けるか。それは国家の責任で安易に片付けたくないからである。さりとて、時代の責任にもしたくはない。光田健輔個人の責任に還元して終わる気もない。私が追及しているのは、光田健輔の人間性や認識に原因を求めるのではなく、誰にでも「ある」であろう、思い込みや過誤、頑迷さ、自己正当化、自己顕示欲などがどのように「人権問題」を引き起こすに至るかをハンセン病問題を取りまく人々を考察することで明らかすることだからである。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。