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「渋染一揆」再考(12):身分呼称

「渋染一揆」は部落史だけでなく日本史においても重要な<できごと>である。
小学校から高等学校までの社会科(地歴科)教科書すべてに記載さている。当然、授業において「江戸時代の身分制度」「被差別民」に関連して「渋染一揆」は記述されており、教師が授業で説明する限りにおいて、ほぼ国民すべてが知っているはずである。しかし、記憶に残っている人間は少ないだろう。なぜなら、以下のように簡略にまとめられているだけであって、「渋染一揆」という歴史的事実が何を意味に、どのような歴史的意義があるかが明確に示されていないからである。

「渋染一揆」は、江戸時代の苛烈な身分制度による支配に抵抗し、その理不尽な身分差別の法令を撤回させた、被差別民にとって誇りうる闘いである。

「渋染一揆」を詳細に考察することで、江戸時代の身分制度下における<賤民支配>と<身分差別>を明らかにすることができるだけでなく、現代まで残存する<部落差別>の本質をも解明できると考えている。

誤解なきように述べておくが、私は現代の部落問題を「封建遺制」と捉えてはいない。江戸時代までの<身分差別>と、明治(解放令)以後の<部落差別>は決して同じではない。国家体制や支配体制の変化、それに対する民衆の意識(差別意識)の変質など、さまざまな要因があって連続性と非連続性がある。


「身分呼称」を考えるとき、なぜ幕府や藩は「穢多」という身分呼称を「公称」として使うようになったのかという疑問がある。

『禁服訟歎難訟記』は,神下村判頭豊五郎が書き記したものである。彼は「穢多身分」である。この『禁服訟歎難訟記』(拙ノートに現代語訳版を転載している)は、良く読めばわかると思うが,会話文の箇所では,庄屋及び村役人は彼らを「穢多」と呼んでいる。また庄屋や村役人に対して自らのことを述べる場面でも「穢多」を使っている。
また「御倹約御触書」及び「歎願書」でも「穢多」と呼ばれ,自らを「穢多」とも呼んでいる。しかし,他の箇所では「皮多百姓」と記述している。つまり,会話を含めて客観的な場面(事実)の記述では「穢多」を使い,豊五郎が自らの意見や考えを述べる箇所,たとえば冒頭の部分では「皮多百姓」と自らを呼んでいる(使っている)。

『禁服訟歎難訟記』も『屑者重宝記』も共に記録書である。事実を客観的に記述している部分がほとんどであり,自分たちの言動や庄屋・村役人との会話によって成り立っている。だが,所々に豊五郎の所感が書かれている。その部分では「皮多百姓」と自分たちのことを記述している。このような点,他身分との関係性に留意して読み深めれば,彼らの自意識がわかるだろう。

「穢多(身分)」であることを誇りに思っていれば,「皮多百姓」の呼称を使うことはなく,謙った表現とはいえ「下賤なる穢多」などと自らを呼ぶこともない。私には「謙虚さ」だけとも思えない。やはり自らの身分的立場に対する「卑屈さ」を感じると同時に,自らが置かれている身分的立場への怒りも感じられる。それが「皮多百姓」であるという自負心となっていると思う。

「賤民」であるかどうかが問題ではない。「賤民」と見なしている人間と社会が問題なのである。「同じ人間」であるかどうか,同じ人間であっても「賤民」であるかどうか,同じ人間であっても自分たちとは「ちがう」かどうか,それを決めるのは,見なす側の意識の問題である。「賤民」が存在したかどうかの問題ではない。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。