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光田健輔論(22) 浄化と殲滅(3)

『ハンセン病 絶対隔離政策と日本社会』の「まえがき」で、内田博文氏が「無らい県運動」の概要を端的にまとめているので、引用する。

無らい県運動の「無らい県」とは、すべてのハンセン病患者を隔離して在宅の患者が一人もいなくなった都道府県を意味する。この「無らい県」を実現するために患者を摘発して療養所に送り込もうとする官民一体の運動が「無らい県運動」であった。「無らい県運動」という語が流布されるようになったのは1931(昭和6)年の「癩予防法」公布により絶対隔離政策が実施されてからであった。そして、とりわけハンセン病患者の「20年根絶計画」が開始された1936年以降、無らい県運動が全国的に展開されていった。
無らい県運動の下でハンセン病患者は近隣の住民により密告され、療養所に強制的に隔離されていった。未隔離の患者は隔離されるまで戦前なら警察に、戦後なら地元自治体の専門(専任)職員により監視された。国、自治体、それに癩予防協会や日本MTLなどの団体は「民族浄化」を掲げて患者に隔離を受け入れるよう教化し、国民に隔離こそが患者を救済する道であると訴えた。戦後の基本的人権の尊重をうたった日本国憲法の下でも無らい県運動は継続され、むしろ強化された。

『ハンセン病 絶対隔離政策と日本社会』

「無らい県運動」に関する書籍も多く出版され、検証会議や研究者、各自治体の尽力によって資料も発掘され、隠されてきた実態も随分と解明されてきた。私もそれらを可能な限り読み込んでいるが、読むほどに両極端な<姿>に唖然とする。と同時に、光田健輔のあまりの巧妙な計画と強引な実施に驚嘆する。

藤野氏が批判している遠藤隆久氏の「アジール」という見方に対して、内田氏も次のように述べている。

…ハンセン病療養所は患者にとり「アジール」であったという見方も提示されている。現象的に見れば、そのような見方も成立し得ないわけではない。検証会議が被害実態調査の一環として入所者に対し療養所はどんな所でしたかと尋ねたところ、「天国」と答えた人と「地獄」と答えた人とが相半ばしたからである。
しかし、療養所をもって「天国」と答えた人の背後には無らい県運動によって社会的な迫害を受けた記憶が伏在していることに注意しなければならない。無らい県運動が入所者をして苛酷な療養所生活を「天国」と表現せしめさせている「逆説の構図」に留意しなければならない。

『ハンセン病 絶対隔離政策と日本社会』

私自身、戦前戦中に療養所で過ごした方には数人しか直接に話を聞くことができず、ほとんどは戦後に入所した方から間接的に昔の療養所のことを聞くしかなかったが、それでも戦前の療養所は相当に苛酷な環境であったことは十分に想像できた。まさしく「地獄」であっただろう。
逆の話も聞いた。療養所に救われたという話や生きていてよかったと言う話も聞いた。しかし、その方たちでさえ、家族との別れ、子供を持てない辛さ、外での生活ができない無念さなど、多くを「諦めた」結果の療養生活であったと打ち明けてくれた。果たして、「諦め」という代償を払わせる「場」を「アジール」と呼んでいいのだろうか、私は疑問に思う。

同じく、廣川和花氏に対しても、内田氏は次のように反論する。

非入所者の存在をもって絶対隔離政策は不徹底であったということもできない。非入所者、その家族等は無らい県運動の圧力に直接さらされ続けることになったからである。彼らが置かれた状態は、施設内隔離ではなかったとしても社会内隔離とでも呼ぶべきもので、隔離には違いがなかったのである。

『ハンセン病 絶対隔離政策と日本社会』

同様に、近藤祐昭氏は「軽快退園」を光田が認めていたことを証左に、光田健輔は<建て前>では強硬な絶対隔離推進を国などに提言しているが、<本音>は患者思いの優しい医師であったと、使い分け、「患者の自己負担のない国費による療養所の設立と運営」を求めて感染力が強い怖い病気と喧伝したのだと光田を正当化する。私は光田の著書や発言を読みながら、逆であるという思いが強い。つまり、<本音>が絶対隔離でありハンセン病患者の根絶(絶滅)であり、<建て前>が好々爺を装った患者への声かけであり、気まぐれな「軽快退園」であったと思う。


佐藤労氏や藤野豊氏の考察を通して、「無らい県運動」と「十坪住宅運動」が連動していることが明らかになった。では、その歴的背景を考察する。まず、藤野豊氏の「無らい県運動の概要と研究の課題」(『ハンセン病 絶対隔離政策と日本社会』)をもとに、年次的にまとめてみる。

〇1907年 「癩予防ニ関スル件」が公布され、強制隔離の歴史が始まる。
〇1909年 全国に5か所の連合道府県立の療養所が開設される。
定員合計1100人(1900年の内務省調査では、ハンセン病患者は3万人を超えていた)
〇1915年 光田健輔が全生病院長に就任、「癩予防ニ関スル意見」を内務省に提出する。
今後の隔離政策について「離島に絶対隔離」「公立療養所の新設・拡張」「自治の患者集落の建設」を提案する。
〇1917年 光田が内務省保健衛生調査会委員として絶対隔離の島の適地調査を行う。
最適地として西表島を、次善の地として岡山県の鹿久居島と長島をそれぞれあげ、結局、内務省により長島が選ばれる。
〇1920年 同調査会も当面の目標を1万人とする計画を作成する。
〇1929年 長島に国立ハンセン病療養所を開設するため、「癩予防ニ関スル件」に国立療養所設置の項目が追加される。
〇1930年 国立療養所長島愛生園が開設され、初代園長に光田健輔が就任する。
〇1931年 「癩予防法」に改定される。
放浪患者などが隔離の主たる対象であったが、すべての患者が隔離の対象となる。
絶対隔離の世論を形成するため、貞明皇后の下賜金も基金に組み込んだ財団法人癩予防協会が設立された。
長島愛生園において、光田の発案で「十坪住宅運動」が始まる。
〇1932年 草津温泉の湯之沢集落の患者を隔離収容するために、国立療養所栗生楽泉園が開設される。
〇1936年 内務省衛生局は、絶対隔離を達成する「二十年根絶計画」を発表する。
第一段階として、10年間で1万人の隔離を目標とする。この計画を実践するため、光田健輔らが主導して、無らい県運動が本格化する。その結果、多くの療養所は定員超過となる。 
〇1940年 熊本市郊外の「本妙寺集落」が警察により解体させられた。
〇1941年 草津の「湯之沢集落」も解体され、患者は栗生楽泉園に隔離収容された。
連合道府県立の療養所が国立に移管される。これにより全国どこからでも隔離収容が可能になった。これにより全生病院は多摩全生園に、北部保養院は松丘保養院に、光明園(台風で壊滅した外島保養院)は邑久光明園に、大島療養所は大島青松園に、九州療養所は菊池恵楓園に、それぞれ改称された。国立療養所はすでに長島愛生園・栗生楽泉園のほか、星塚敬愛園(1935年、鹿児島県)・東北新生園(1939年、宮城県)があり、また沖縄県の宮古島保養院、国頭愛楽園もこのときに国立に移管され、さらに、1943年には国立の奄美和光園も新設されていく。こうして国立ハンセン病療養所は12園となり、隔離施設は拡大された。

「十坪住宅運動」について、藤野氏は次のように説明する。

長島愛生園では開園後四か月の1931年3月、すでに収容した患者が定員の400名を超過してしまい、以後、知音超過の状態が続いていた。こうしたなかで、より多くの患者を隔離するために園長の光田健輔が考案したのが十坪住宅の建設計画である。これは、広く国民に寄付金を募り、入園患者の作業奉仕により一棟400円(1933年より500円、1936年には600円と修正)の予算で六畳二間の十坪住宅を建設し、これを国庫に寄付する形で定員を超過した入園者の住居にあて、一棟に4~8名の患者を収容しようとするもので、政府の予算の不足を補う役割をもっていた。

藤野豊『日本ファシズムと医療』

「十坪住宅運動」の背景について、『隔絶の里程』(長島愛生園入園者自治会編)の記述より要点を抜粋して引用しておく。

光田園長が十坪住宅のヒントを得たのは、大正十二年フィリピンのクリオン療養所を視察したとき、3000人もの患者がニッパ葺きの小屋に住んでいるのを見たことにあるといわれ、日本においては大正末、三上千代らが草津温泉の滝尻原に患者の小住宅五戸を作ったのが先駆である。
十坪住宅運動とは、建築資金を民間の寄付に求め、患者作業で建築し、建築後は国に寄付して経常費の支出を受けるというものである。これによると悔いは整備費の支出を全額免れるが、定員の増加を既成事実として押しつけられることになる。官吏の発想としては実に強引なものであった。
この運動によって建てられた患者住宅は149棟にのぼり、入所患者数が2000人を超えて最高を記録した昭和十八年には、国庫の病舎に入っていたのは700人で三分の一にすぎなかったほどである。
寄付金は一戸分そっくり出された人も少なくなかったが、何万枚と配られた一口10銭の「同胞の家」愛国献金袋による零細な寄付も多かった。
十坪住宅寄付は昭和十三年以降次第に減少していったが、入所患者は増加する一方で、昭和十六年度に三井報恩会から250床の拡張寄付を受けて1450人分の定員となったが、なお4~500人を超過する状態がつづき、苦慮した園は関係の県知事などにあてて病舎建築費(金額明記)の助成を懇請し、「大阪寮」その他を建てた。
政府は寄付した建物に見合う経常費を要請どおりつけなかったし、そのしわ寄せをまともにうけたのは患者の生活であった。長島事件当時、定員超過した326名分の経常費はなく、「事件調停のために西下せられた某氏に、一体どんなものを食べさせていますか、との筆者の問いに対するその答は、到底筆にするに忍びざるものであったのである」(三井報恩会横田忠郎)

『隔絶の里程』(長島愛生園入園者自治会編)

光田健輔の回顧録『愛生園日記』に「十坪住宅」の一章があり、そこには婦人会や宗教関係団体、皇室関係、企業関係、慈善団体などからの寄付により十坪住宅(寮)や施設が建設拡充されていった歴史が詳細に記述されている。だが、光田の記述では、当然のことではあるが、「強制収容」「強制隔離」の文言は一切なく、患者が自主的に入園して楽しく生活していることが誇らしく書いてある。

そのころはるばると岡山までたどりついて、愛生園は満員だときかされ、故郷へも帰るに帰れず、とうとう旭川へ身を投げて死んだ婦人もあった。こういう悲惨なことの起こらないようにせっかく「ライ予防協会」を作ったのであるから、この機関を十分に活用するとともに、私は広く社会に訴えて、ひとりでも多くの人を療養所へ入れるために、「十坪住宅運動」を起した。

光田健輔『愛生園日記』

光田は、この「旭川に身を投げて死んだ婦人」の「悲話」を例にして、さまざまな講演で寄付を求めている。この悲話は光田らの著書や関係書、講話に度々登場し、隔離政策の正当化に使われているが、真偽は不明である。不思議なことに、愛生園内での患者の憤死や自死についてはほとんど書いていない。相当数の患者が自死しているにもかかわらずだ。

昭和十年一月十八日には、全国ライ療養所長は、大宮御所で単独謁見の光栄に浴した。そのとき皇太后さまの御下問に、私がお取り次ぎを通してお答え申し上げたときの模様をしるしてみよう。
患者は平和に暮らしているか-とのおたずねには、
「みな安心してたがいに助け合っております。…全国で予防講演会を催します。そこで隠れていた患者たちが進んで入園するようになりましたので、定員超過で病室が狭くて困っております。それで三年前から十坪住宅資金のご寄付をいただいて建てておりますが、これでもまだ足りません」
来る患者はみな入園させるのか-とのおたずねには、
「せっかく決心してまいりましたものを断って、投身自殺した例もあり、付近の住民にも迷惑をかけますので、全部収容するようにしておりますが、さきほど申し上げました事情でございます。現在内地の療養所の五千三百人という収容力ではとうてい足りないので、一万人収容を目標としなければ、ライ予防の目的は達せられないと思います」

光田健輔『愛生園日記』

相手が皇太后であっても、療養所での患者の生活を平気でこのように語るとは厚顔の光田である。翌年には「長島事件」が起こっているのだから、定員を超過して受け入れ、その結果の食糧不足、過度の患者作業などにより患者の生活環境は最悪の実状であったはずなのだが…。

「十坪住宅」は単に患者を収容するための「住居」を増やすだけであって、国からの「経常費」は定員分しか支給されない以上、患者の生活環境は収容人数に反比例して悪くなるのは当然である。要するに光田はすべてのハンセン病患者を隔離することしか考えていないことがわかる。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。