『ハンセン病 絶対隔離政策と日本社会』の「まえがき」で、内田博文氏が「無らい県運動」の概要を端的にまとめているので、引用する。
「無らい県運動」に関する書籍も多く出版され、検証会議や研究者、各自治体の尽力によって資料も発掘され、隠されてきた実態も随分と解明されてきた。私もそれらを可能な限り読み込んでいるが、読むほどに両極端な<姿>に唖然とする。と同時に、光田健輔のあまりの巧妙な計画と強引な実施に驚嘆する。
藤野氏が批判している遠藤隆久氏の「アジール」という見方に対して、内田氏も次のように述べている。
私自身、戦前戦中に療養所で過ごした方には数人しか直接に話を聞くことができず、ほとんどは戦後に入所した方から間接的に昔の療養所のことを聞くしかなかったが、それでも戦前の療養所は相当に苛酷な環境であったことは十分に想像できた。まさしく「地獄」であっただろう。
逆の話も聞いた。療養所に救われたという話や生きていてよかったと言う話も聞いた。しかし、その方たちでさえ、家族との別れ、子供を持てない辛さ、外での生活ができない無念さなど、多くを「諦めた」結果の療養生活であったと打ち明けてくれた。果たして、「諦め」という代償を払わせる「場」を「アジール」と呼んでいいのだろうか、私は疑問に思う。
同じく、廣川和花氏に対しても、内田氏は次のように反論する。
同様に、近藤祐昭氏は「軽快退園」を光田が認めていたことを証左に、光田健輔は<建て前>では強硬な絶対隔離推進を国などに提言しているが、<本音>は患者思いの優しい医師であったと、使い分け、「患者の自己負担のない国費による療養所の設立と運営」を求めて感染力が強い怖い病気と喧伝したのだと光田を正当化する。私は光田の著書や発言を読みながら、逆であるという思いが強い。つまり、<本音>が絶対隔離でありハンセン病患者の根絶(絶滅)であり、<建て前>が好々爺を装った患者への声かけであり、気まぐれな「軽快退園」であったと思う。
佐藤労氏や藤野豊氏の考察を通して、「無らい県運動」と「十坪住宅運動」が連動していることが明らかになった。では、その歴的背景を考察する。まず、藤野豊氏の「無らい県運動の概要と研究の課題」(『ハンセン病 絶対隔離政策と日本社会』)をもとに、年次的にまとめてみる。
「十坪住宅運動」について、藤野氏は次のように説明する。
「十坪住宅運動」の背景について、『隔絶の里程』(長島愛生園入園者自治会編)の記述より要点を抜粋して引用しておく。
光田健輔の回顧録『愛生園日記』に「十坪住宅」の一章があり、そこには婦人会や宗教関係団体、皇室関係、企業関係、慈善団体などからの寄付により十坪住宅(寮)や施設が建設拡充されていった歴史が詳細に記述されている。だが、光田の記述では、当然のことではあるが、「強制収容」「強制隔離」の文言は一切なく、患者が自主的に入園して楽しく生活していることが誇らしく書いてある。
光田は、この「旭川に身を投げて死んだ婦人」の「悲話」を例にして、さまざまな講演で寄付を求めている。この悲話は光田らの著書や関係書、講話に度々登場し、隔離政策の正当化に使われているが、真偽は不明である。不思議なことに、愛生園内での患者の憤死や自死についてはほとんど書いていない。相当数の患者が自死しているにもかかわらずだ。
相手が皇太后であっても、療養所での患者の生活を平気でこのように語るとは厚顔の光田である。翌年には「長島事件」が起こっているのだから、定員を超過して受け入れ、その結果の食糧不足、過度の患者作業などにより患者の生活環境は最悪の実状であったはずなのだが…。
「十坪住宅」は単に患者を収容するための「住居」を増やすだけであって、国からの「経常費」は定員分しか支給されない以上、患者の生活環境は収容人数に反比例して悪くなるのは当然である。要するに光田はすべてのハンセン病患者を隔離することしか考えていないことがわかる。