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光田健輔論(4) 偏執と固執(1)

繰り返すが、私はハンセン病問題の責任を光田健輔ひとりに背負わせるつもりはない。また、光田の人格や人間性を否定するつもりもない。
自説に固執し、周囲の声を拒否する独善的な人間が他者や社会にどれほどの不幸を与えてしまうか、偏執な人間が権威や権力をもつとどのような結果になるか、それを光田健輔と彼を盲信した人々の姿から明らかにするのが目的であり、何が彼に、そして彼らに、これほど長きに渡る人権侵害を続けさせたのかを検証してみたい。

この証人尋問準備の過程で、1949年6月の全国所長会議の議事メモが提供された。このなかで、当時の厚生省東医務局長が隔離政策に対する反省を述べ、予防課長が軽快退所を進めようと発言したのに対し、光田健輔愛生園所長が「それは生兵法大けがのもとだ。…軽快者だとて出してはいけない。遺言としておく」と反論している。

「らい予防法国賠訴訟」の証言記録『証言調書④成田稔証言』の冒頭、東日本弁護団事務局長赤沼康弘氏の「成田証言の意義」で紹介されている事実である。

1943年、アメリカの医学文献にプロミンの有効性が発表され、1947年には日本でも治験が開始され、1949年にはプロミン使用の予算措置がとられている。ハンセン病の特効薬プロミンが承認されたにもかかわらず、なおも光田は強行に絶対隔離を堅持しようとする。

何が光田をそこまで<絶対隔離>に固執させたのか。
赤沼氏は、「国による『烙印(スティグマ)付け』という違法行為とこれによる社会からの抹殺という被害を訴訟の基本に据えた」として、その理由(根拠)を次のように述べて、ハンセン病問題における「国の責任」を明確に示している。

危険な伝染病だとの国によるさまざまな宣伝や消毒などのいかにもおどろおどろしい行為と療養所への隔離政策の存在は、ハンセン病は恐ろしい伝染病だということを国民の意識に強烈に刻みつけるものとなった。ハンセン病に罹患した者は、国家により、恐るべき伝染病の患者だという「烙印」を押され、徹底的に差別され、排斥されて、社会で生きていくことはできなくなった。この被害について、…大谷藤郎氏は『現代のスティグマ』のなかで、「法律により様々な制限が制度化され、国家の名により日常的に地域社会からの排除が進行し、それが民衆感情にはね返って、らい患者は忌むべく汚れたばい菌をまき散らす者とする行き過ぎた偏見が、あたかも社会の正しい常識であるかのごとく、一層根強く強固なものとなった」と述べ、成田稔全生園名誉園長は、「政府が先頭に立ってらいの恐怖政策を採った」、そのため患者は社会から「あぶり出された」と述べている。

『証言調書④成田稔証言』

国の政策決定および政策維持に深く関与したのが光田健輔である。同書に裁判所に提出された成田氏の「意見書」に「日本の癩対策と光田とのかかわり」の項がある。簡潔にまとめてあるので転載しておく。

1897年(明治30年)に開催された第一回国際らい会議においてハンセンの提起したノルウェーでの経験を基礎とする隔離を、帝国議会の代議士らがどのように理解していたかは分からないが、1899年(明治32年)に根本正ら、1902年(明治35年)に斎藤寿雄ら、1903年(明治36年)には山根正次らと続いて、予防というよりも国家的体面を重んじた浮浪患者の取り締まりを提議した。

『証言調書④成田稔証言』

ベルリンで開かれた第1回国際らい会議には、日本から土肥慶蔵が出席している(北里柴三郎は日本のライ統計に関する論文を提出)。この会議でハンセン病が遺伝病ではなく感染症(伝染病)であることが確認され、隔離の必要が提言された。
1899年の第13回帝国議会の衆議院で、武市庫太・根本正・持田直の3人の議員が「癩病患者及乞食取締ニ関スル質問」を行っている。質問の内容は、ハンセン病を伝染性疾患と認めるかどうか、乞食を取り締まらないのは国家の体面に関係ないのかというものであった。これに対して政府は次のような答弁書を示している。
一、癩病ハ伝染性疾患ニシテ夙ニ其取締ノ必要ナルヲ認メタルモ其方法ノ困難ナルガタメ未ダ着手ニ至ラザルモノナリ、能ク其方法ヲ講究シ措置スル所アラント欲ス

ハンセン病患者と乞食がひとまとめに問題とされていることについて、当時の社会状況から藤野氏は次のように推察している。

当時、遺伝病という偏見のもと、多くのハンセン病患者が家族と縁を切り、故郷を出て行方をくらまし、神社仏閣等で参拝客に対し、「乞食」をしていたからである。そして、ちょうどこの年(1899年)、欧米列強との新条約(領事裁判権を撤廃した通商修好航海条約)が発効し、それまで欧米人が居住を居留地等に限定され、日本国内の旅行も制限されていたことが一変したのもその理由であった。この年から、欧米人も日本国内に自由に住み、国内を自由に旅行することが許された(内地雑居)。そうなれば、ハンセン病患者や「乞食」の姿が欧米人の目にも容易に入る。それは日清戦争に勝利し、欧米列強と肩を並べていこうとする日本にとり、大変な国辱となる。
質問に立った根本も外国人雑居を重く見て、また「癩病ト云フモノハ、虎列剌デアルトカ、或ハ痘瘡デアルトカ云フコトヨリハ、今一層危険ナル病デアリマス」と述べて、取締と隔離の必要を訴えている。

藤野豊『「いのち」の近代史』

ハンセン病がコレラや天然痘以上の恐ろしい伝染病だと誰が根本らに告げたのだろうか。当時の医学界と政界の動きをまとめておく。

ハンセン病の認識が大きく転換したのは、1897年の第1回国際癩会議である。翌年には、同会議で講演したハンセンの原稿の訳文と思われるものが、筒井八百珠によって発表された。ハンセンの論文に呼応するように、国内の医学者も論文を発表し、<隔離>を最善とするハンセン病対策が急務であることが論じられるようになった。

当時の光田はどうであったか。少し光田の経歴を辿ってみる。

光田健輔が学問を志して山口から上京したのは、1894(明治27)年である。知人の紹介で郷里の先輩である森静雄(鴎外の実父)を訪ね、彼の紹介で賀古鶴所という軍医の家に寄寓しながら勉学に励んでいる。光田が医学を選んだのは、開業医の兄や森鴎外、賀古鶴所などの環境が影響したと思うが、翌1895年に「医術開業前期試験」に合格している。賀古氏の家を辞して下宿に移り、私立済生学舎(医学校:同期には野口英世)と上野の図書館に通って約1年後、1896年に後期試験にも合格している。その後、東京大学医学部の専科の学生となり、病理学を研究する。

光田は自らも回想しているが、相当の勉強家であり、研究熱心であった。夜にはドイツ協会学校に通ってドイツ語の勉強に努力している。そのような光田であるから、国内外の医学界の情報は常に注意を払っていたので、ベルリンの国際癩会議のニュースを得るのも早かった。この当時、光田は東京市養育院に医員として勤務していた。
1898年、光田は養育院内にハンセン病患者と一般患者が雑居している危険を安達幹事や渋沢院長に進言し、院内にハンセン病患者の隔離病室「回春病室」を設けている。以後、ハンセン病患者は「回春病室」に連れてこられるようになり、収容人数は増え続けていく。また、光田はこの頃より、内緒で「解剖」を頻繁に行いながら、治療と研究に専念していたが、養育院院長渋沢氏を介して「癩隔離病院」の設立を東京市に建議し続けてもいた。(実現はしなかった)

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。