各療養所の自治会前史ともいえる状況を『全患協運動史』よりまとめておきたい。
自主サークルの「文章会」でさえ監視の対象であり、「塀がある」と書くことさえ注意された。「塀がある」と書くことは、それを取り除かせようとする運動につながるというのが理由である。バカげた話である。イチャモンをつけているとしか思えない。
また、狭い施設内で大勢の入所者が一緒に共同生活をしていれば、自ずとグループや派閥ができたり、力の強い者が幅をきかせたりするのは仕方がないことではある。まして生まれ育った地域など関係なく、それまでの友人関係も職場や学校も関係なく、まったく見知らぬ者同士が同じ施設に強制的に収容されて、しかも出口のない日々を過ごすのである。気の弱い者もいれば、逆に粗暴な者もいる。親分子分も生まれ、無法なヤクザ組織に近い関係もできてしまう。
ここでも患者は立ち上がった。1947年1月、総務の指名で選出されていた室長を室員が直接選挙で選ぶことに変え、さらに2月には親睦会理事を一般選挙で選ぶこととした。こうして自治会改革は始まった。7月には自治会を改組してボスによる独裁と決別した。これにより、作業賃を代議員による「作業償与金査定特別委員会」の審議と大衆討議によって決定することに変えたり、患者関係予算を公開させ、自治会と施設双方で「予算使途計画運営委員会」を開き、示達の都度、協議して不明朗と疑惑を解消していった。
大島でも患者が立ち上がり、1949年5月、施設との懇談会を開き、庶務課長や用度係職員らを追及した。責任追及に対する園長の態度は煮えきれなかったが、6月5日の自治会総会で会計事務官ら三人の職員への辞職勧告が採決され、三人は島から去って行った。園長中心主義から新しい民主的な関係が生まれていった。
多摩全生園でも、栗生楽生園から重監房問題に関する共闘を依頼するために栗田・富岡が1947年9月9日に来園したことを契機に、民主化を求める動きが「生活擁護同盟」を中心に始まった。9月21日、施設の補助機関としての全生会規約を破棄することを宣言、新たに入園者による入園者のための自治会規約の起草がはじまった。
このように、時をほぼ同じくして全国の療養所では、今までの古い体質の自治会は戦後の民主主義の時流に乗って新たな自治会へと生まれかわっていく動きが生まれた。特に栗生楽泉園入所者による「人権闘争」の勝利、「特別病室」の廃止が大きな影響を与えたと考えられる。
それは、沢田五郎さんの『とがなくてしす』の一文に端的に表現されている。
こうして各療養所の民主化の波は全国規模で連帯の動きにつながり、「プロミン以後」の治る時代を迎え、全患者を結集した全国組織を立ち上げ、長年自分たちを縛り付けてきた「らい予防法」改正を目指すこととなる。
「全国国立癩療養所患者協議会」の規約草案は各自治会の意見に基づいて修正を重ね、1951(昭和26)年1月11日に成立した。