見出し画像

光田健輔論(65) 「らい予防法」の背景(2)

各療養所の自治会前史ともいえる状況を『全患協運動史』よりまとめておきたい。

星塚、東北など、比較的新しい療養所では1946年1月と4月、早くも自治会を発足させているが、先輩格の療養所ではもともと「自治会」と呼ばないまでも敬和会(長島愛生園)、総和会(栗生楽泉園)、親睦会、協和会、全生会等々と名乗る入園者組織をもち、施設の補助機関として飢餓の時代の配給機構をにぎり、ご用機関的な役割を果たしていた。それら、古い体制のもとでは、入園者の代表はもちろん、末端の役員、寮長、室長に至るまで、園長の認証がなければ、例え選挙で選ばれても、就任できなかった。園長は、選挙による権威のはるかうえに、その権限を及ぼしていた。

全国ハンセン氏病患者協議会編『全患協運動史』

自主サークルの「文章会」でさえ監視の対象であり、「塀がある」と書くことさえ注意された。「塀がある」と書くことは、それを取り除かせようとする運動につながるというのが理由である。バカげた話である。イチャモンをつけているとしか思えない。

また、狭い施設内で大勢の入所者が一緒に共同生活をしていれば、自ずとグループや派閥ができたり、力の強い者が幅をきかせたりするのは仕方がないことではある。まして生まれ育った地域など関係なく、それまでの友人関係も職場や学校も関係なく、まったく見知らぬ者同士が同じ施設に強制的に収容されて、しかも出口のない日々を過ごすのである。気の弱い者もいれば、逆に粗暴な者もいる。親分子分も生まれ、無法なヤクザ組織に近い関係もできてしまう。

…長い伝統を誇る松丘自治会(親睦会)では、ドスを胴巻きに忍ばせた手下達に守られた「総務(総代)」が(青森・松丘保養園)園長の指令で絶対の権限をもち、療養所のなかに弱肉強食の世界を作っていた。そこでは、総務の相談役で最高幹部をかたちづくる親睦会理事は選挙によらず、総務の一存で職についていたが、一般入園者が飢えているとき、彼らは好きな物を好きなときに炊事から運ばせていた。
好きな者同志だからといって、彼らのきめた順番にしたがわず、勝手に結婚することは許されず、他の療養所へ「亡命」した者も少なくなかった。懲戒検束規定のもと、所内の秩序を、患者が患者を管理、支配することによって維持させた典型ともいうべく、背筋の凍るような悲劇が語りつがれることになった。

全国ハンセン氏病患者協議会編『全患協運動史』

ここでも患者は立ち上がった。1947年1月、総務の指名で選出されていた室長を室員が直接選挙で選ぶことに変え、さらに2月には親睦会理事を一般選挙で選ぶこととした。こうして自治会改革は始まった。7月には自治会を改組してボスによる独裁と決別した。これにより、作業賃を代議員による「作業償与金査定特別委員会」の審議と大衆討議によって決定することに変えたり、患者関係予算を公開させ、自治会と施設双方で「予算使途計画運営委員会」を開き、示達の都度、協議して不明朗と疑惑を解消していった。

(大島)青松園では長い間、園長中心主義のもとにあった…クローバーや浜ちしゃを食べ、よもぎやいたどりの葉を乾燥させて喫い、官報紙や処方箋の使い古しをガーゼの代用にしていた頃から、一部の職員が患者の食糧、煙草、包帯生地等で私腹を肥やしていると噂され、押さえられてきた感情と不満、疑惑が一緒になって爆発するばかりになっていた。

全国ハンセン氏病患者協議会編『全患協運動史』

大島でも患者が立ち上がり、1949年5月、施設との懇談会を開き、庶務課長や用度係職員らを追及した。責任追及に対する園長の態度は煮えきれなかったが、6月5日の自治会総会で会計事務官ら三人の職員への辞職勧告が採決され、三人は島から去って行った。園長中心主義から新しい民主的な関係が生まれていった。

多摩全生園でも、栗生楽生園から重監房問題に関する共闘を依頼するために栗田・富岡が1947年9月9日に来園したことを契機に、民主化を求める動きが「生活擁護同盟」を中心に始まった。9月21日、施設の補助機関としての全生会規約を破棄することを宣言、新たに入園者による入園者のための自治会規約の起草がはじまった。

…駿河でも「背広の軍閥排除」「物資の不正使用摘発」など民主化を要求し、邑久では「備蓄米横流し」「盗聴事件」などにからむ庶務課長退陣要求デモが発生、本館に座り込むなど、どこにも自らを脱皮させながら起ち上がっていく動きがあった。

全国ハンセン氏病患者協議会編『全患協運動史』

このように、時をほぼ同じくして全国の療養所では、今までの古い体質の自治会は戦後の民主主義の時流に乗って新たな自治会へと生まれかわっていく動きが生まれた。特に栗生楽泉園入所者による「人権闘争」の勝利、「特別病室」の廃止が大きな影響を与えたと考えられる。

それは、沢田五郎さんの『とがなくてしす』の一文に端的に表現されている。

私に忘れがたい藤田武一の言葉がある。
それは「人間殺されるかもしれないと思うと、どんな屈辱にも耐え、どんな辛抱もするものだ」というものである。これは、このころ(「人権闘争」)の心境を言ったものではないかと思う。藤田氏はこの後は続けなかったが、もし続けるとすれば「これでもはや殺されることはないとなると、思い切って自分を主張することができるものだ」となるであろう。患者たちはこれまで自分を主張すれば殺される危険があった。そのため自分を主張しなければならない場合でも相手のようすを窺いながらやり、だめだとなるとどんな我慢もしてきたのである。この生き方は正真正銘奴隷の生き方である。この闘争に立ち上がったとき、そんなことをすれば殺されるかもしれないという憂いがあった。だがその憂いは、職員、患者を隔てるあの木柵を一気に押し倒したとき、消え去ったのである。盤石の重みでのしかかっていた権力者は、ほうほうの体で逃げ帰ったのである。もはや殺されることはないのだ。

沢田五郎『とがなくてしす』

星塚自治会から「全国患者連盟」結成が提唱されたのは同年(1947年)9月であり、…1948(昭和23)年1月1日をもって「五療養所患者連盟」は本部を星塚において発足した。参加自治会は、星塚、菊池、駿河、東北、松丘であった。
…生活保護法による生活扶助が1943年3月打ち切られ、4月から患者慰安金として日用品費が予算化された。もちろん十分な額ではなかった。続いてプロミン問題が登場、共通の意識と共同の意志がますます緊急、重要になっていった。…
「五療養所患者同盟」本部の星塚は、多磨の「プロミン獲得促進委員会」へ運動資金として5000円送るなど行為を示すとともに、「連盟」へ参加するように勧誘した。これに対し、多磨は1950(昭和25)年2月、逆に全国組織の結成を提案、4月には自ら「全国癩療養所患者協議会並びに協議会設立準備委員会の設置」を機関決定した。これを13日付で五園が了承、全生園に対外事務局を設置することになった。

全国ハンセン氏病患者協議会編『全患協運動史』

こうして各療養所の民主化の波は全国規模で連帯の動きにつながり、「プロミン以後」の治る時代を迎え、全患者を結集した全国組織を立ち上げ、長年自分たちを縛り付けてきた「らい予防法」改正を目指すこととなる。

「全国国立癩療養所患者協議会」の規約草案は各自治会の意見に基づいて修正を重ね、1951(昭和26)年1月11日に成立した。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。