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光田健輔論(57) 「三園長証言」の考察(6)

1951年11月に行われた「三園長証言」は、翌1952年5月の第1回全癩患協支部長会議の場において、その内容が公表され、各療養所の自治会が知ることとなる。「三園長証言」に対する全癩患協および各療養所の対応については後で検証するが、光田健輔が長島愛生園の入所者に弁明した内容を、藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』より引用しておく。

光田健輔も10月2日、愛生園の入所者を前に国会での発言について「言葉の不備不足」であったと弁明している。そして、強制隔離に関しては「対象として考えるのは常識はずれの乱暴者である」と限定し、家族への感染を恐れ「強権を発動してもその様な人々を病気の苦しみから救わねばならぬ」と、あたかも患者家族を救うために強制隔離をおこなうかのような論を展開している。また、断種については「皆の賛成を得てやって来たので強制ではない」などと虚偽の説明をなし、患者家族にも断種をおこなうと述べたのは「患者その人の事で病気でない家族の人々の事ではない」などと、発言そのものを否定している。さらに、強制労働については「過重な事は無理だが適当の運動は必要な事だから諸君もやってほしい」などと、その継続を求め、懲戒検束規程については、法務府の合憲判断を盾に正当化している。光田は、最後に、ハンセン病は「ペストの様に急性ではないが伝染である事は明らか」として、法律については「現行のものは審議をつくして近代にそうものに作らなければならない。法務府厚生省の人等が療養所に適合するような改善をするのがよいと思う」と、責任を法務府・厚生省に転嫁してしまった。光田自身が率先して隔離維持・強化の方向で法改正を提起しているにもかかわらず、光田は第三者を装おうと詭弁を弄し続けたのである。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

光田も『愛生園日記』に、「患者を刺激した参議院証言」「学問と信念」と題して、次のように述べている。

手錠などとはけしからん――というわけで、説明会が開かれたのだ。私はまたもや礼拝堂で首の座に引きすえられた。…私は患者たちから執拗に証言の取り消しを要求された。
「この証言は私の生涯をかけた学問的な研究と信念から、当然のことをいったまでだから、取り消すわけにはいかんよ。証言を撤回することは、私の学問の価値を動揺させることだ、それが不承知で、どうしても取り消しを要求するなら、私の首をはねてから先へ進んでくれ…」
私は首を前へつき出した。私以外の証人は、私ほど激しいことはいわなかったが、あっさり証言を取り消されたようである。私は患者に殺されることなどは、少しも恐れていない。もしも私が殺されたら、なぜこういう事態になったかについて、患者たちがよくよく考え及んでくれる、いい材料になるであろうと思った。

光田健輔『愛生園日記』

「首をはねてから…」は光田の常套句である。『光田健輔の思い出』の中にも散見する。

…一時帰省だの外出をやかましく取り締まっていた頃は、園長も「自分勝手にここを出て行きたい者は、俺の屍体をのりこえて出て行け」と絶叫せねばならなかった。菌を多く出している結節型の者、しかも浮浪性の者であったなら「網をつけてでも引張って収容する」と獅子吼したのである。園長は、われわれ患者の安住の地は療養所以外にはない、社会の人びとはまだまだ理くつでは解っていても、いざとなると矢張りわれわれを嫌い怖れる、ということを知りぬいていたからだ。
(水上修「路上診断」)

…次に出た言葉はさらに意表をついたものでした。
「近頃は何も分からないで社会復帰、社会復帰と猫も杓子もお題目のように言っているが、私はこれに絶対に賛成するわけにはいかない。もし皆さんがどうしても愛生園を出て社会復帰するというのならば、先ず私を倒して私の骸の上を乗り越えて行け!」と。あたりの空気をゆり動かすような大声で怒鳴った。満場はざわめいた。
(名和千嘉「胸像除幕式での一喝」)

『光田健輔の思い出』

明治生まれの気骨に満ちた頑固者である光田らしいといえるが、その独善性が患者を苦しめ、日本のハンセン病政策を狭め、停滞させてしまったのも事実である。自説・持論に固執するあまり世界の動向すら認めることができず、まして患者に犠牲を強いていることさえも容認する傲慢さを<目的のための手段>として顧みることもしない。

上記の『光田健輔の思い出』を読むと、彼の別の顔、別の一面も浮かび上がってくる。光田の指導を受けた弟子たち、医官や看護師、事務官、さらには患者たちが見たり感じたりした光田の実像もまた光田健輔その人である。私はそれを否定はしない。しかし、その影響には自覚と責任を負うべきである。

同様のことが光田を信奉する者にも言える。光田を盲信する余り、光田の言動を正しく判断できない。無自覚の加担者となり、大勢を形成し、光田を「癩の権威者」へと祭り上げてしまった。

同書よりいくつか例を挙げておく。

…まず、定員以上の患者を収容する。この事実のもとに、これに相当する施設の拡張や定員の拡充を認めてもらう。この方法は光田先生が長島愛生園に転任されて、400人定員を三倍以上の1200人に拡充されるまで続いたのである。そのためにはかなりの無理もあって、昭和11年8月、患者の待遇改善を要求する大騒動となったのである。
しかし、このような非常の手段をとったことによって、全国の未収容患者は激減し、収容患者数も年々減ってきて、1972年には一万人を割るようになったのである。…
…1956年、ローマで開かれた国際癩会議の決議に対し、「世界中が癩予防の逆コースを歩んでいる。個人の人権を守るあまり、人類の福祉という大目標を忘れてはならない」と批判している。…最愛の家族と離別させる、この悲しみを味わわせるのは私情においてしのびないが、人類社会のためを考えねばならない、と悲痛な訴えをしているのである。
(林芳信「光田イズム」)

…入園者は「半座を分かち一食を割く」よう訓しめられても、不平分子はそれまで辛抱はできないと、他の多くの者を煽動したり、強要したりで、ハンスト決行となった。恵の鐘を乱打し、本館に押しかけようと叫び声を挙げるなど、まさに暴動である。
(早田皓「身延深敬病院九州分院」)

昭和11年夏に起こった愛生園騒動、それは入園者の一部の者が園長に対して全面的な信頼が出来ず、自分だけに都合よくしたいエゴイストの人びとが他の多くの入園者を煽動し、または強制して暴動を起こしたものでした。偉大な慈父と親しみ尊敬している園長をして、さぞや残念がらせ断腸の思いをさせたことでしょう。そのようなむごい忘恩の仕わざが許されていいでしょうか。(名和千嘉「癩の神様」)

『光田健輔の思い出』

上記の3人は愛生園で光田の薫陶を直接に受けた医師である。いわば「第一世代」の門弟である。恩師を盲信・盲従することはよくある話ではあり、一概に批判することはできない。光田の救癩に傾ける情熱、癩を一途に研究する姿勢、患者の健康に心を配る様子、常日頃そのような光田を見ていれば、彼らが光田に心酔するのも首肯できる。

しかし、彼らは光田というフィルターを通してしか患者も療養所も見てはいない。3人が「長島事件(騒動)」についての感想を書いている論点も光田擁護の視点であり、患者を「不平分子」「エゴイスト」「むごい忘恩の仕わざ」と批判している。また光田の主導する「絶対隔離政策」について、患者に犠牲を強いていることすら大義(「人類の福祉という大目標」)のためには仕方がないと光田に盲従している。林芳信は次のように光田を擁護する。

…観者の生涯を療養所に朽ちさせることは、まことに惻隠の情に忍びがたいものがあるが、人類の幸福のためにはやむをえない。私は暗い谷間に灯をかかげ、前進することのみを考え、ライ者の心情にほだされることを警戒して来た、と『愛生園日記』に語られているが、先生はまことに情に脆い方で、患者の難儀を見たり聞いたりされると、常に涙を以てこれに応えられていた。なんとかよい方法をと、身を砕いて尽力されながら、人類幸福という大愛のためには常に私情を警戒するという方針を生涯おし通された。
(林芳信「養育院での光田先生」)

『光田健輔の思い出』

本論考において、私が繰り返し指摘しているのは、権威ある者を盲信する者たちによって<権威ある者の独善性は正当化される>ということだ。それによって「悲劇」は拡大し、隠蔽される。その思想も無批判に継承され、政策もまた継続されていく。そこには信奉による忖度も生まれる。何より彼らは疑うことも変えることもしない。この悪しき継承と継続が、「らい予防法」と「絶対隔離政策」を存続させ続けたのである。我々が「反面教師」として学ぶべきは、この<人間の連鎖>の弊害である。

本書(『光田健輔の思い出』)の出版は1974(昭和49)年である。光田健輔が亡くなって10年が過ぎている。この間の時勢を踏まえているのは犀川一夫だけである。彼は次のように書いている。

光田先生は明治大正の昔から、昭和22年頃まで、常に時代の先端を歩み、癩の学徒として忠実に患者の隔離という管理方法を強く主張し、絶対にゆずらなかった。誰をも恐れる所なく実行して止まなかったのである。隔離によって伝染の蔓延を予防する原則に立つとともに患者を保護しようとされた。一般の人たちは何の理由もなく、知識もないままただ患者を嫌悪し、癩という病名を聞いただけで恐れおののいた。したがって患者の生活は脅かされた。それを保護するためには無理解な世間に患者を出さないで隔離する。この方法が唯一のものとされた。
しかし戦後は急速に癩医学が進んだ。サルファ剤の出現によって癩も治癒し得る病気になった。今まで絶対に不可能だった癩の動物接種実験的には部分的に可能となった。全く未知であった癩医学の真理も追々明白になりつつあるようである。この現実から癩の免疫学も流行病学も新しくなってきた。癩の行政が変わってくるのもまた当然で、「一生涯収容する。手足の不具、不自由、変形はそのまま」という金科玉條が変わるのもまた自然ではあるまいか。
(犀川一夫「号泣とシャワー」)

『光田健輔の思い出』

誰が「一般の人たち」を「癩という病名を聞いただけで恐れおのの」くようにしたのか。やはり光田の策略的政治工作、渋沢に取り入り、彼の知己から政財界に人脈を広げていく中で、ハンセン病対策が日本にとって重大事であることを伝えるために「恐ろしい伝染病」であることを極度に強調していったことが要因であると考える。

…たとえば光田が<此の恐る可き病毒の散布者たる浮浪癩者は諸国の到る処に徘徊し、殊に神社仏閣名所旧跡の地にして人の集合する所は彼等の生活に尤も便宜なる所として群集するをみる>と述べてみたところで、政府の腰は重かったろうし、一般にしても忌避はしたろうが、騒ぐほどのことでもなかったに違いない。。
癩患者を、国辱的存在と見做したことでは政治性が高いが、現実には伝染性の弱いこともあって癩を病むのをよそ事のようにとらえるのが一般的だったはずである。それがおそらく癩予防協会などの組織的な強い働きかけによって、病状と伝染性とを引っ括めた「恐ろしい伝染病」観がただごとではないように社会に深く広く滲透していった。もっともそれなくして、絶対隔離という疫学的根拠を欠く愚策は多分遂行できなかっただろう。

成田稔『日本の癩対策の誤りと「名誉回復」』

続けて、成田は「こうした情勢に敢えて逆らい、絶対隔離を強行する科学的不当性を憂えて、反対を明らかにした医学者に青木大勇、小笠原登、太田正雄の三名」を挙げて、彼らの意見を紹介している。参考までに抜粋して転載しておく。(青木については以前に論じているが、小笠原登については別項で論じるつもりである)

1931年の絶対隔離への政治的指向を事前に知った青木大勇は、「このような隔離監禁本位を以て生涯をこの状態に置くことは悲惨に過ぎ、国際連盟も隔離は厳酷にならないようにと勧告しており、インドにあっては、P・T・S(教宣・治療・疫学)センターを発展させているが、外来治療も含めて患者が逃げ隠れしないなど、意外な好成績をあげている」と注意した。

…小笠原の持論は「日本は癩の起源から伝染病と見做されておらず隔離施設もなかったにもかかわらず、日本人全体の癩化を来したわけでもなく、それからも伝染力の弱さがうかがえるが、あと一つ栄養不良も発症には大きくかかわろう。また、コレラ・ペストのような急性の狭義の伝染病とは異なり、いわば広義の一般的な伝染病であって、そこを隔離の強制によって大衆を誤解させてはならない」とした。

太田正雄については、…1939年に甲府からの帰途の車中で『小島の春』を呼んで涙がとまらず、以来おそらくその国際的な真菌の研究を捨て、癩菌の動物接種一筋に胃癌を病む身を押して没頭した。『小島の春』の映画評で「其病人はほかの病気をわづらふ人のやうに、自分の家で病気を養ふことが出来ないのは、強力なる権威がそれは不可能だと判断するからだと、絶対隔離の過ちの根源をはっきりと指摘し、これを覆す(社会と共生する)には、化学的療法の開発しかない」と、ほとんどの毎週月曜日に伝研(伝染病研究所)に通ったが…。

成田稔『日本の癩対策の誤りと「名誉回復」』

なぜ彼らの声は消されてしまったのだろうか。太田が言うように「強力なる権威」が、聞く耳を持たないどころか、彼らを排除したのだ。あるいは成田の言うように、「政官の権力を借りて絶対隔離の遂行に自信を強める光田には『勝手にほざけ』ということ」だったのかもしれない。この時点で、もはや光田一派の勢力は揺るぎないほどに強く、まさしく「強力なる権威」であり、日本のハンセン病政策はほぼ確立していた。

ところで、成田は「癩は恐ろしい伝染病」という「キャッチフレーズ」に言及して、次のように述べている。

…「恐ろしい」とは病状と伝染病とのいずれにも通じ、これほど人々に真っ直ぐ受け入れられた言葉は少なかろうし、同時に大きなしかし得体の知れない不安を与えたのも確かだろう。前に日本の癩対策が、無人の曠野を奔るかのように進んだと述べたが、この「恐ろしい伝染病」の不安が人々の排他性を著しく強め、絶対隔離の不当性を疑うどころか迎合したからである。

成田稔『日本の癩対策の誤りと「名誉回復」』

確かに「恐ろしい」という言葉ほど人々の不安を煽り、排除・排斥の行動を正当化させるものはない。特にハンセン病などの病気であれば、そこに死亡率や感染力の強さであったり、容姿など外見上に病状が表れたり、さらに治療法がない「不治」であったりすれば、「恐ろしさ」は確定的となる。「伝染病」であれば、「伝染」する危険を回避する行動は当然のことである。それを「医者」が言明すれば、その信憑性を疑う者は皆無に近いだろう。
この当時の情報は主に新聞であり、紙上に載った情報や言葉は人々の口を通して、さらに尾鰭まで付いて、成田の言うように瞬く間に拡がっていったであろう。それは、真しやかに言い伝えられてきた俗説や噂話と混じり合い、一尾の恐怖心を煽っていったであろうことも想像に難しくない。各地に残るハンセン病の「俗称」の数々がそれを物語っている。

光田は「恐ろしい伝染病」という「キャッチフレーズ」を巧妙に使い、政治家や財界人、医者、国民を欺いて利用し、絶対隔離を実現していった。その最たるものが「無癩県運動」である。
もし光田が、この「キャッチフレーズ」を否定していればと思わないではいられない。光田は、社会にある差別や偏見からハンセン病患者を救うためと言いながら、「恐ろしい伝染病」と喧伝することで、社会に差別と偏見を深く拡散し、人々の認識に植え付けてしまった。
これが現在も続く、そしてもっとも解消されなければならない課題である。

はたして光田は、そのことをわかっていたのだろうか。あえて意図的・策略的に使ったのだろうか。本当にそう思っていたのだろうか。彼の回想録や随筆、論文を読み返すたび、どちらであったかわからなくなる。

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藤田孝志
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。