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沈寿官と金泰九

20年近く前の拙文である。時折思い出すのは金さんの笑顔である。日々の中で行き詰まってしまったとき,思い煩うとき,金さんの人生を思い起こす。
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第十四代沈寿官氏から金泰九さんに渡すよう託かった品を持って,勤務校からの帰りに愛生園の金さん宅を訪ねた。いつもの金さんがいつものように温かく迎えてくれた。
先週末に本校三年生がお世話になった現地研修のお礼を述べ,その翌日に金さんから預かった品を携えて「薩摩焼窯元 沈寿官」を訪問したこと,運良く第十四代沈寿官氏に会うことができたことなどを一息に話した。少しでも早く金さんに渡したかったし,沈寿官氏との出会いを報告したかったからだ。

鹿児島には学年団の解散旅行で行くことにはしていたが,その目的は『知覧特攻平和会館』であって,沈寿官氏を訪ねることは当初の予定にはなかった。
本校三年生に金さんが講演した中に,自殺を思いとどまらせてくれた一冊の本との出会いについての話があった。その本が,司馬遼太郎著『故郷忘じがたく候』であり,その主人公である第十四代沈寿官氏との出会いであった。恥ずかしながら,私は『故郷忘じがたく候』をまだ読んでいなかったので,早々に買い求め,一晩で二度読み返した。

秀吉の朝鮮出兵の折り,強制的に拉致され,途中で放逐された朝鮮陶工たちが,漂着した鹿児島で窯を築き,薩摩藩の厚遇を得て薩摩焼を大成したことに,表面的な歴史事象としてしか知らなかった自分の浅学を恥じた。
拉致された朝鮮陶工が二度と故郷に戻れぬと覚悟しながら生きぬいた姿に,同じ朝鮮人として,またハンセン病のため強制隔離されたことを同じ境遇と共鳴し,勇気づけられた金さんの思いが心に伝わってきた。この本に救われたと語る理由がはっきりとわかった。
また,この本の後半に描かれている第十四代の生き様に心引かれ,御前黒と言われる黒薩摩を再興した沈寿官氏に是非にも会いたいと思うようになり,急遽旅程を変更し,沈寿官氏を訪ねることを決め,その旨を金さんに伝えた。
金さんの講演を聞いた本校三年生を連れて現地研修に訪れたとき,金さんは「沈寿官氏は多忙な方だから会えないかもしれないが,もし会えたら渡して欲しい」と,金さんから紙袋を手渡された。

美山ICを降りて数分,沈寿官氏の窯場はあった。駐車場に車をとめ,雑木林に続く坂道を歩くと,右手に中国や韓国の庭園で見かける円形の見晴台があった。その先に,木立の中に佇む和風の工房があった。ひっそりと静まり人の気配はない。家に沿って小道を歩き,右に続く坂道の先
に,作品展示場と販売所の案内表示があった。中に入ると,美しい作品が整然と並べられていた。その奥,ひげを蓄えた柔和な顔が迎えてくれた。瞬時に,第十四代沈寿官氏その人であることがわかった。ゆっくりと,まるでその柔和な顔に引き寄せられるように近づき,自己紹介と訪ねた理由を述べ,金さんのことを話し,託かった品を手渡した。沈寿官氏は,しばしその品を捧げ持ち,やがて深く一礼した。その所作は,まるで金さんが眼前にいるかようであった。

立ったままだった私たちに椅子を勧め,小一時間ほど,私の話を静かに頷きながら聞いては,一言一言をかみ締めるように語ってくれた。時折雑える冗談もその場を和やかにしてくれた。私は沈寿官氏に魅せられてしまった。飛行機の時間が刻々と近づいているのも忘れ,もっともっと話しを聞きたかった。

金さんのことを尋ねられ,その過酷な半生を伝えたとき,沈寿官氏は目を閉じ,大きく頷かれた後,店にいた女性に一冊の本を持ってくるように伝え,徐にその豪華な本の表紙裏に筆を走らせた。見事な達筆であり,人柄が滲み出るようなやさしい文字であった。『薩摩焼 沈家歴代作品図録』に書かれた文字は,次のものであった。

金泰九学兄
    咲く命一つなり  萩も朝顔も
                陶工十四代 沈寿官

金さんへの心のこもったメッセージであった。金さんとは一歳違いの83歳,お互いの人生を讃え合う言葉である。私はすぐにでも金さんにこの沈寿官氏の思いを伝えたいと思った。二人の人生が交差した瞬間に立ち会えたことに,心がふるえ,魂が共鳴した。もはや言葉にはできない感動に包まれ,時空を越えて金さんの運命と沈寿官氏の祖先からつながる歴史が私の脳裏を駆け巡った。過ぎゆく時間をこれほどに惜しんだことは久方ぶりだった。私はこの出会いを残すべく一対の黒薩摩のコーヒーセットを買い求めた。別れの時,手の不自由な金さんのために取っ手の付いたカップを奥より出して渡してくれるよう頼まれた。

金さんの自伝『在日朝鮮人ハンセン病回復者として生きた わが八十歳に乾杯』より,沈寿官氏との出会いを抜粋・転載しておく。

1976年1月。50歳。
ある日,日出治療分室にフラッと入って行き,H医師に「先生,右腕がちょっと神経痛がするんですが」と言って,相談をもちかけたのが「運の尽き」であった。H医師はカルテを見ながら,「その神経痛は本病(ハンセン病のこと)の瘢痕だから,どうしようもないよ。長く治療をしてないな,DDSでも飲んでみるかい」と。
私はすぐ「飲んでみます」と答え,一日一錠ずつ服用した。これまで菌陰性だったので,長く無治療だった。だから,治療薬DDSを飲んでみる気にもなったのであった。
DDSは「治らい薬」の一つで,スルホン剤プロミンの錠剤で治療薬の主流でもあった。
   …(中略)…
そこで初めて手が下がったことに気が付いた。下がったというのは足首,または手首が垂れ下がり上に上がらない状態のことだ。一晩のうちに手と足が下垂したのだった。
   …(中略)…
私は,DDS錠剤さえ服用していなければ,こんな副作用(反応)は起こらなかったのに,と悔やんだ。泣き寝入りするしかすべはなかった。
   …(中略)…
退室して部屋に帰ったものの,変わり果てた我が身を人目にさらすのがなんとなく恥ずかしくて部屋にこもった。一瞬にして身体障害者になった自分を,気持ちの方がそれを受け入れなかった。現実の自分を受け入れることが出来なかったのである。「なぜ?どうしてこうなった?」繰り返しそう思わずにはおれなかった。
そして毎晩,寝床に入っては,自殺を考えるのであった。自殺の方法をあれこれ考えながら,堂堂巡りの末寝入るのであった。
昼間はなぜだか,自殺は考えなかった。そのくせ一度も自殺を試みることはしなかった。正真正銘のノイローゼであった。
そんな時一冊の本に出会った。司馬遼太郎著『故郷忘じがたく候』であった。
   …(中略)…
この本を読んだ後,私は何とかして,鹿児島県の沈寿官家第十四代に会ってみたい,そしてお話を伺いたい,という衝動にかられ,一途に苗代川行きを思い始めたのであった。そして,友人,安さんにも相談した。
結局一度葉書で頼んでみようということになり,「お訪ねして,お話をお聞きしたい。長島愛生園入所者 金泰九」と出したら,なんと「どうぞおいでください」という返事が来たのである。感激この上もなかった。
1979年4月,安さんと二人で沈寿官第十四代当主を訪ねる旅に出た。
安さんは私に劣らず視力も弱く,手,足の後遺症も重かった。二人三脚で列車に揺られタクシーに乗り換えたりして,ついに沈寿官窯場に到着。道中での苦労も吹っ飛び,約二時間も十四代沈寿官先生のお話を聞くことが出来たのである。本当に夢のようであった。
   …(中略)…
思うに,1979年春,列車や車を乗り継ぎ,やっと沈寿官窯場を訪ねた私の行動は,毎晩自死を考えた私を積極的に生きさせるきっかけになったことは間違いない。
列車に乗り,車に乗りして,探しあぐねた目的地にたどり着き,念願を果たした満足感は,自死の願望を遙かに凌駕するものであったからだろう。

沈寿官氏から贈られた『薩摩焼 沈家歴代作品図録』を開き,沈寿官氏のメッセージを幾度も口にする金さんは「不思議だね。人の出会いは不思議だよ。奇遇だね,俺と藤田さんが出会い,藤田さんと十四代が出会う。数十年の時間を超えて縁がつながる。」と沁み沁みと私に語った。同じことを私も感じていた。長き歳月を経て熟成され芳醇な味わいを醸し出した逸品の酒を口にしたようであった。魂の出会いである。

私は今回の旅で,沈寿官氏と出会い,一つの大きな人生訓を教えられた。それは,辛酸も悲哀もすべては人生の糧であるということだ。悩み苦しむことなど人の一生の中では数えきれぬほどあり,それらにこだわり,人を憎み,自分の境遇を恨んでも,それらは実にちっぽけなことでしかない。小さなことに一喜一憂し,わずかなことで人より優れた自分を見いだしても,それが人生の何になるのだろう。もっと大きなことに目を向けて生きることを教えられた。


部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。