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岡山の近代部落解放運動史(1)

明治維新がある日突然に起こったのではなく,新しい社会体制を目指した動きが社会の中で進行していた結果として起こったように「賤民廃止令(解放令)」もまた唐突に出されたのではない。幕末期に被差別身分の人々は様々な身分解放の努力をしていた。身分制度の維持を不可能と考える為政者も生まれてきた。そのような社会体制の揺らぎの中で,「解放令」は生まれるべくして生まれたのである。すなわち,解放への動きが「解放令」を出させたのである。「水平社」もまた解放令以後に各地における被差別部落の人々による積極的な努力と挫折の繰り返しの延長上に生まれたのである。

歴史は「流れ」である。人々の意識の変化や努力が歴史を動かしている。マルクスは「意識が存在を規定するのではなく,社会存在が意識を規定する」というが,人々の差別意識によって社会存在が規定されたのが被差別民であり被差別部落である。
マルクスの唯物史観に欠落しているのは,人間心理の作用であり,差別意識に基づく差別関係が「排除の関係」であることから下部構造と上部構造の規定・被規定の関係に左右されず「枠外の存在」として残存し続けていることである。

被差別民の生産する皮革製品や細工物の需要は大きく,大名や領主にとって武具や馬具の確保から自らの支配下に彼らを置くことは必要不可欠であった。また死牛馬処理や行刑など社会的に必要な「役負担」は生業とは別に彼らに負荷された役割であり,生産関係の変化に対応しないものであった。つまり,一方で「社会外の存在」として排除された差別関係でありながら,支配層や社会に必要な特定の役負担を命じられたことで生産関係を固定化された社会存在が被差別民であった。
そこには,生産関係よりも差別関係や差別意識の作用や影響が強い。たとえ支配層からの差別意識を強化させる巧みなイデオロギー操作がおこなわれたとしても(それも支配者の意識であるが),人々の差別意識が被差別民という社会存在を規定していることは確かである。このことは,同対法以後に貧困などの生活改善施策がおこなわれ生活環境面ではほとんど格差がなくなっても,なお人々の差別意識の克服が大きな課題として残存していることが証明している。

江戸時代は身分制度に縛られた社会である。身分によって生活様式が他身分とは異なるように仕向けられ,身分という枠組みの中での生活を余儀なくされていた。
ただし,それは支配層である武士身分と被支配層である民衆との身分上の大枠においてであって,民衆における身分差はそれほどではない。その中にあって被差別民は「社会外の存在」「人外の存在」と規定され,身分差よりも賤視感によって排除されていた。その理由を身分のちがいにしていたのである。
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明治維新により江戸幕府が崩壊し,政治体制が改編されていく中で,「四民平等」により身分制度が改められ「解放令」により賤民制度も含めて消滅した。ここで「解放令」の意義を通して「解放令」前後の社会的変化をまとめておきたい。

① 江戸時代の被差別民に対する差別が幕府や藩の出す法律によって定めら   れた法制的制度的差別であったのに対し「解放令」によって合法的な差別ができなくなった。すなわち,差別の法的根拠がなくなった。
差別の形態から考えた場合,「解放令」以降の部落差別は,法制的・制度的な差別ではなく慣習的な差別,すなわち社会的差別である。
② 「社会外の存在」として<排除>されてきた被差別民が,「平民」身分に編入されることで,「社会内の存在」として平民と同様の権利が国家(法)により認められた。すなわち,今まで村などの共同体社会から<制限され,排除されてきたこと>への参加(参入)ができるようになった。
③「解放令」によって,封建社会と近代社会が区分される結果となった。
すなわち,法的根拠によって身分差別が強制され,固定化された身分にはそれ固有の役負担が結びついていた封建社会が終わった(解体した)のが「解放令」の発布によってである。
権利でもあった役負担と結びついていた皮革業などの職業がだれでも自由に従事できるようになった。被差別民は賤業を拒否するようになり,逆に商業資本は皮革業に進出した。

「解放令」は制度上の変化でしかないが,その変化を受けとめた人々の意識が新たな歴史を生み出していったのである。
端的に述べるならば,明治政府も人間の集合体であり,その政策は個々人の「意志」の集約によってなされたものである。つまり政府の役人であれ,資本家,地主,隣村の百姓,町民であれ,同じくその時代に生きた人間である以上,その時代を支配している社会通念,社会慣習,社会規範の影響下にあった。それゆえ,江戸時代の身分制度によって植え付けられた「差別意識」を払拭していない人々が「解放令」以後の状況という「歴史」を生み出したのである。

差別を当然と考え,今まで「排除すること」を当たり前としてきた人々にとって,「社会外の存在」としか思わなかった被差別民が「解放令」を契機として,自分たちの社会に入ってくることは恐怖と嫌悪しかなかった実態と,「解放令」を自らの「身分(立場・状況)からの解放」ととらえて実際に行動にうつした被差別民との間の確執が,資本主義が発展していく社会状況において,今日の部落差別の温床を形成したのである。

すなわち,江戸時代において被差別身分固有の仕事であり,特権的な権利として保障されていた「死牛馬処理」に付随する皮革業,さらに雪駄草履の製作などの産業は決して安定した収入ではなかった。しかも「解放令」によって職業の自由が認められた結果,資本家によって部落産業が侵食されていった。
(賤業に対する拒否の動きをとった部落も多くあり,そのことが資本家の進出を容易にさせた原因でもあるが)その結果,わずかな農業収入や雑業による収入しか生活の糧を得る手段のなかった多くの部落は窮乏化するしかなかった。
また,江戸時代において権力が中心となって,公然と法的に差別政策をおこない,民衆の「差別意識・賤視観念」を増幅させ,洗脳し教化してきた歴史的経緯を考えれば,「解放令」の一文だけでは,真の対等な社会関係を結べないことは容易に予想できたはずである。
にもかかわらず,明治政府は,そうした社会通念あるいは慣習的に差別意識を日常生活化させてきた民衆への教育や啓蒙をおこなわなかった。このことが,現在も部落差別が残存する最大の要因である。
さらには,濃厚に植えつけられた「差別意識」が民衆の中に浸透している以上,差別事件が起こることは予想できたにもかかわらず,差別を受ける側に対する救済措置や人権保障が用意されなかった。ただし,これらは現代の人権思想に基づいた価値観であって,当時にはなかった価値観である。
 
明治政府の政策意図にもかかわらず,「解放令」は被差別民に大きな喜びをもたらした。その喜びは,有名な『五万日の日延べ』の前段によく表されており,同様の喜びは各地の史料にも残されている。さらに,「解放令」を契機に,死牛馬処理,皮革製品の製作や売買」といった賤業の返上や拒否を積極的に行っていった。
このことは,江戸時代の身分制度において身分と役目の固定化のために否応無しに従事させられていた仕事や役目からの脱却をどれほど強く希求していたかという被差別民の「思い」の具現化と理解すべきである。
また,氏神祭礼への参加など,従来より排斥されてきた共同体の行事に積極的に参加しようとする動き(要求)は,脱賤化と同時に「解放令」の明示した「平民と同様」を周辺に認めさせようとする「思い」の表れであった。

他方で一般民衆は,被差別部落民の積極的な脱賤化の動き,すなわち「平民」と同様の扱いを要求する行動に対して,自分たちの職業を奪い,生活を脅かすと受け取った。
つまり,「社会外の存在」と認識していた被差別民の脱賤化の動きは,「社会内」である村社会=共同体への侵入と写ったのである。その結果,彼らの侵入=「平民」と同様の扱いの要求に対して拒絶し,従来どおりの「排除の関係」を守ろうとしたのである。具体的な例としては,入浴や髪結の拒否,商品販売の拒絶,日雇いや小作の拒否,入会地の利用を拒否などがある。
さらには,被差別民の脱賤化による平等を求めた行動は,民衆には「増長している」「傲慢である」としか写らず,「解放令」の布告そのものの取り消しを求める「解放令反対一揆」をおこし,被差別部落を焼き払い,多くの被差別民を殺傷するまでに至っている。

「解放令」反対一揆が起きたのは,一部の民衆が遅れた意識に災いされたのではなく自分たちこそ世の中を支えている百姓だという,みずからの権利を主張する根拠となった意識が,同時に百姓ではない被差別部落を差別して当然とすることにつながったという,当時の多くの民衆の意識のあり方にこそ求められるべきでしょう。
…そう理解しないかぎり,現代に通じる深刻な結婚差別や就職差別,それを建前としては批判しながら実際にはなくならない,私たちの意識のあり様を厳しく問い直すことはできません。そうした民衆の意識を私たちはどれだけ克服できているのでしょう。
(渡辺俊雄 『いま,部落史がおもしろい』)
もとの穢多に戻るということは,たとえば,道で農民とすれ違うときに,道をよけて土下座して,通り過ぎるのを待たなければならないんです。…ちょうど武士に対して農民がやらなければならないようなことを,被差別部落の人は農民に対してやらされていたんです。
…いわゆる水のみ百姓であってもそうなんです。あるいは,農民の前では下駄を履いてはならない,あるいは雨でも傘をさしてはならない。…草履を脱いで家の中に入るんです。
…そういうことを明治の四年までやらされていたわけです。しかし,賤民廃止令(解放令)以降,みんなそれをやめました。道であったらぺこりとおじぎをして,立ったままあいさつして通り過ぎるわけです。…「わしは水のみ百姓だけども,あいつとは違う。あれは穢多じゃ。見てみろ。道で会ったら,あいつらは土下座をしてわしの通るのをよけてくれる」と思っていた人たちは,体の血が逆流するような思いです。
(上杉聰 『天皇制と部落差別』) 

このような意識が「差別意識」である。部落差別の本質とは,部落や部落出身者を自分たちと同じ仲間と見なさない意識,自分と同じ人間とさえ見なさないから部落出身者を「排除」して当然と思い,さらには殺傷しても「人外」「畜生と同じ」と意識するのである。
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1 部落の自覚 … 部落改善運動の胎動

1871年(明治 4) 8月28日 
              太政官布告第44号(「解放令」)  公布
             9月15日 岡山藩 「解放令」布告
1872年(明治 5) 1月14日 上房郡中津井村・有漢村で騒動
            2月12日 北条県 「解放令」布告
1873年(明治 6) 5月26日 美作騒擾(血税一揆・明六一揆)
1887年(明治20)       修身社創立(和気郡藤野村坂本)
1890年(明治23)       正風社結成(都窪郡子位村)
1896年(明治29)       正心団結成(久米郡福岡村大字出)
1898年(明治31)       青年清進社(川上郡手荘村領家)
1902年(明治35) 8月 7日 備作平民会結成
 三好伊平次,岡崎熊吉,三浦哲夫、宰務正視,野崎重逸らが結成

開盛社結成(上道郡津田村)羽納柏造が中心岡山の解放運動もまた「解放令」を契機に,部落改善運動として始まった。和気郡藤野村坂本では,青年たちが「修身社」を結成し,風俗矯正や村民の気力向上を申し合わせている。都窪郡子位庄村では,「正風社」が結成され,村民多数が「民約書」を作成し,犯罪防止・風俗矯正を警察署長に誓約した。
各地で青年層を中心に部落問題の解消を目的とした部落改善組織が結成された。これらの背景には,自由民権運動の影響や帝国憲法下の地方統治政策のもとでの村落編成の反映がみられるが,その根底には「解放令」の実行化=部落解放の願いが強くある。

実に既往に於ける我徒は社会の冷遇と虐待とを憤慨しながら,此冷遇と虐待とに克つべき方法を講ぜざりし也。恰も是れ堤塘の堅からざるを謂はずして洪水の氾濫を論ずるが如きのみ,之れ豈逆境に処するの途ならんや。
故に吾人の期する所は先づ内に我徒同族間の積弊を廓清し,進んで外に社会に対して鬱屈を伸べんとするにあり。即ち県下の同族を打て一丸となし協力同心以て風教を改善し,道義を鼓吹し殖産教育を奨励し斯の如くして自主独立の基礎を鞏め,然る後外に向かって其反省を促し力めて止まずんば吾人の志向ひ難からん哉」
(「備作平民会設立之趣旨」三好伊平次)

2 部落の闘い … 部落改善運動の拡がり


部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。