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光田健輔論(12) 権力と人権(5)

ある教頭に言われたことがある。彼はかつての同僚であったが、私が勤務する学校に教頭として転勤してきた。そのあまりの変貌ぶりに驚いたが、その時に彼が言い放った言葉が今も記憶に残っている。「立場が人をつくる」と自らの高慢さを正当化して言い放った。彼は「教頭」という「立場」が<権威>をもつと思っているらしい。そして<権威>が<権力>を公認するとでも勘違いしている。

邑久光明園入園者自治会編『風と海のなか-邑久光明園入園者八十年の歩み』もまた、他の療養所で入園者が編纂した「自治会史」と同じく、入園者の苦闘の生活と施設側の理不尽な管理の実態を赤裸々に描いている。<事実>ほど確かな証左はない。入園者の<実体験>と見聞した<事実>が、入園者の筆で書かれている。

堅田、上田は、あの風水害(外島保養院が台風によって壊滅したこと)に共にあい、そしてその後も看護婦として親しまれた者たちであり、田中は大島療養所から来た看護婦で、よく患者の面倒をみた人であった。この送別会で一同は涙を流しつつ別れを惜しんだのであるが、その場に居合わせた婦長溝渕マサエの態度は、実に冷ややかで、患者を見下げたような言動、また別れ行く三名に対しても意地悪く見えた。居合わせた者たちは、婦長があの三名を追い出したに違いない、と暗い霧のようなものがその辺にただよっているのを感じた程である。
 溝渕マサエはもと阪大病院のヘルテル外科におり、後、全生病院から光田に従って愛生園に移り、そこから当園の婦長として前年(昭和13年)の6月7日に栄転して来たのだった。
この婦長に出会って以来10か月、入園者は皆、患者を馬鹿にしたような婦長の目の下で治療を受けていた。患者に対して意地悪く冷ややかな態度は決してこの4月1日が始めてのものではない。
…室長会が開かれ、溝渕婦長排斥運動が提案された。
室長の間からは異口同音、婦長に対する憤懣が語られた。即刻行動を起こすべし、と言う者あり、園長に厳重に抗議せよ、本人に猛省を促せ、と言う者も出た。しかし一方、溝渕は光田の子飼いの人であり、神宮園長もまたそうであるので、排斥運動はかえって光明園にしっぺ返しを喰うことになろう、と言う慎重論もあって、室長会は意見をまとめることが出来なかった。…
外島時代、村田正太、原田久作院長らはこのように患者を見下げる職員を見過ごしはしなかった。またそういう患者の訴えを聞き入れて敏感に対応した。…
事は起こらなかった。しかし恨みは入園者の胸にしこりのように残った。…こうして昭和20年9月、溝渕が退職するまで患者はいつも冷ややかに看取られ続けた。

邑久光明園入園者自治会編『風と海のなか』

患者の証言は<事実>であるがゆえに厳しく、その洞察は鋭い。「光田の子飼い」と言われていたことが何を意味するのか。
<権威>ある立場にある者が<権力>を自由に行使できると勘違いしたとき、下の者もまた自らを<権威>ある者と勘違いし、<権力>を行使する。それが借り物の<権威>であっても…。そして、その<権威>を借りるために<阿諛追従>したり<忖度>したりする。いつの世も同じである。だからこそ、<人権>は社会的弱者から学ばなければならない。<被差別の立場>に身を置いて考えなければならない。<差別者>の立場から<人権>や<被差別>を論じることは欺瞞でしかない。


「特別病室」の顛末を書いておきたい。22名もの患者を虐殺した「特別病室」事件であるが、その始まりは偶然からであった。

1947(昭和22)年8月15日、群馬県で参議院議員の補欠選挙の投票がおこなわれた。この占拠には、日本共産党から除村吉太郎が立候補し、結果は惨敗であったが、その選挙運動をとおして、共産党の遊説隊が、8月11日、栗生楽泉園に入ったのである。そこで、彼らが見たものは、患者労働の実態や「特別病室」の存在であった。その夜、開かれた入所者と共産党の懇談会で職員の不正や「特別病室」の問題が入所者から次々に訴えられた。これを契機に入所者が立ち上がり、8月15日には患者大会が開かれ、共産党の支援のもとに園当局に対する人権闘争が開始されていった。

藤野豊『「いのち」の近代史』

舞台は国会へと移った。1947(昭和22)年8月28日、第1回国会の衆議院厚生委員会で取り上げられ、日本社会党の武藤運十郎(群馬県選出)が「毎日新聞」の記事をもとに、政府の見解を糾した。武藤の質問に、一松定吉厚生大臣(民主党)は、実地の調査を行い、真相を報告すると約した。「特別病室」については、「将来絶滅せしむるとともに、今までやった責任についても明らかにしなければならぬ」と決意を表明している。

9月18日の厚生委員会で、調査は共産党の妨害で十分に出来なかったかのような説明をしている。これに対して、武藤は国会として独自の調査団を派遣することを提唱し、これに対して一松大臣は「今御調査に相なるような事実が実在いたしておったといたしますれば、それはまことに重大な国家の不祥事でありますから、私は断固としてこれの責任を問うことはもちろん、将来再びさようなことの起こらないように、もし蜂起の上で欠陥がありますれば、それらの改正法を国家に提出して皆様の御審議を仰いで、再びそういうことの起こらないように努力する」と述べている。

9月26日、調査団の報告が厚生委員会で行われた。武藤は「フランス革命時のバスチーユ監獄を思わせるようなもの」であると述べて、取り壊すことを当然とした。ただ一方で、完全隔離の必要性、「特別病室」に代わる施設の必要も述べている。
これに対して、一松大臣は、11月6日の厚生委員会において次のように発言している。

特別病室ができたがために、ずいぶん人権蹂躙というそしりもありますけれども、非情に功績をあげておることがある。何かというと社会秩序がこれによって大分保護された。今までは癩病患者が何をしても斬捨御免だからというので天下に横行したものだ。ところがそんなことをすると、お前は草津に送るぞというと、草津に送られては困るという。草津という声を聴いてふるえあがって悪いことをせぬということになる。

藤野豊『「いのち」の近代史』

この一松の答弁の変化は、事の重大さに気づき、さらに「特別病室」の設置を含めた今までのハンセン病政策が光田健輔ら療養所長の意見を鵜呑みにしてきた「厚生省」であることを知ったからであろう。つまり、先のように責任を追及すれば自分で自分の首を絞める結果となることに気づいたからであろう。<権威>や<権力>は、自己保存のために容易く手の平を返す。

一松の発言は光田の主張そのものであり、加島の自己正当化と同じである。藤野豊氏は一松の発言について、次のように批判している。

…一松は大きな認識の誤りをふたつ犯している。ひとつは、「特別病室」には、刑法に違反した患者のみが送られたのではないということである。療養所当局の恣意的判断で、単に療養所に反抗的という理由だけで「特別病室」に送られ、死に至らしめられた者もいる。そして、もうひとつは、「特別病室」の待遇は通常の刑務所以下であったということである。
…結局、「特別病室」の問題を、「癩刑務所」設置へと、論点をすり替えてしまったのである。

藤野豊『「いのち」の近代史』

「日本のアウシュビッツ」である「特別病室」問題は、結局はうやむやにされてしまった。職員の無法の所行を見て見ぬ振りで放置し、追及されて自己弁護に終始した古見園長も休職(のちに医官として邑久光明園に転勤)、直接の責任者である霜崎清庶務課長と加島正利分館長、山口馬吉炊事主任、菅野コト子保母は懲戒免職という幕引きであった。
なお、霜崎と加島は不正行為で儲けた金とともに行方を晦ました。

…園当局の態度は横暴で、「特別病室」への監禁の現場責任者である分館長加島正利は「警察と厚生省の許可を受けて承認を得てやっていることだ」と居直り(『上毛新聞』)、園長古見嘉一は「監禁所は必要に応じ不良患者を収容しているが、患者達のいうような虐待による死亡事実はないと信ずる」と事実を隠蔽する虚偽の談話をおこなった(『毎日新聞』)。彼らは、自らが犯した医学犯罪、すなわち、不当な患者監禁による事実上の虐殺という事実が暴露されたことに狼狽し、必至にその事実を否定しようとしたのである。

藤野豊『「いのち」の近代史』

加島の開き直りとも責任逃れとも言える発言は、ハンガリー系ユダヤ人約44万人を絶滅収容所送りにした指揮者であるアイヒマンの「命令に従っただけだ」という弁明に重なる。アイヒマンの裁判を傍聴した哲学者ハンナ・アーレントは、命令を実行しただけと弁明するアイヒマンについて、アイヒマンは組織の論理に従い、自分の行為を他者の視点から見る想像力に欠けた凡庸な人間だったと分析し、そんな人間が巨悪に手を染めたことを「悪の陳腐さ」と表現した。

霜崎清も加島正利もアイヒマンと同類の「小役人」でしかない。それが人里から離れた療養所において、「懲戒検束権」という絶対的な権限をもつ立場に立ち、国からも社会からも疎外されたハンセン病患者という社会的弱者に対して、監禁所さらに<極限の恐怖>である「特別病室」という手段をもって暴言・暴行を行使し、理不尽な患者労働を命じ、不正行為の数々を行ったのである。

「涼しい所」とは、もちろん重監房のことだ。そうやって重監房への収監をちらつかせると、患者は恐れおののいて平身低頭彼に謝った。その様子がK(加島正利)を増長させていったと、当時の様子を知る人は述べている。
K看護長の名前は、重監房の壁の落書きにも残されていた。重監房が使われなくなって、建物が取り壊されてしまう前に、谺雄二さんも内部を見学した。板壁に日付が横棒で刻まれていた。「かあちゃん」「おれはだれだ」「ウラミ」といった落書きもあった。谺さんは、Kのことを書いた一群の落書きを読みながら、心底から恐怖をおぼえたという。「Kはオニ」「出たらただじゃおかねえぞ」と書かれたそばに、同じ筆跡で「Kさん、許してください」ということばが書かれていた。この暗い部屋のなかで、人間が怒りを失い、生きる力を失い、尊厳を捨てて哀願している-そんな様子がしのばれたという。

宮坂道夫『ハンセン病 重監房の記録』

私はこの情景を想像して言葉を失った。極悪の環境下で精神が自己崩壊していく様を思い、人間の限りなく両幅へと揺れることができる<無自覚の善悪の振り子>を考えてしまう。そして、時空を超えて今も繰り返されている悲劇を思う。繰り返される戦争と残虐な非人道的な行為、制御不能の欲望が大義名分と正義を後ろ盾に監禁も虐殺も正当化してしまう。
いったい人間は歴史から何を学んできているのだろうか。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。