見出し画像

光田健輔論(20) 浄化と殲滅(1)

かつて全国には大小のハンセン病患者が集団で生活していた場所(地区)が多く点在していた。その中でも大きな集落を形成していたのが、熊本県の「本妙寺集落」と群馬県の「湯之沢集落」であった。この2つの集落は、1940年と翌1941年に「強制収容」によって消滅させられた。その背景にあったのは「無癩県運動」であった。まず、「無癩県運動」についてまとめておく。

『ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書』(2005年)によれば、「無癩県運動」とは、次のように定義されている。

「無癩県」とは文字通り、ハンセン病患者がいない県、すなわち、すべての患者を隔離して、放浪患者や在宅患者がひとりもいなくなった県を意味する。この語が初めて使用されたのは、1929(昭和4)年、愛知県であったが、広く使用されるようになるのは、1931(昭和6)年の「癩予防法」公布により絶対隔離政策が実施されてからで、特にハンセン病患者の「二十年根絶計画」が開始された1936(昭和11)年以降に強調されていく。

佐藤労氏は、「無癩県運動は、愛知県から始まった」という定説への疑問から「無癩県運動」に関して歴史的調査を行い、その成果を『ハンセン病「無癩県運動」の発端について』(『ハンセン病市民学会年報2007』)にまとめている。

佐藤氏の研究を引用しながら、「無癩県運動」と光田健輔の関わりを検証していく。

佐藤氏によれば、この定説が一般の書物に数多く引用される理由は、「権威ある文献に登場する」からであり、「その典拠となる文献」を推察すると、『日本らい史』(山本俊一)に依拠した『熊本地裁判決文』、それに依拠した『検証会議 最終報告書』であるという。そして、この2つの資料より10年ほど先行する『日本らい史』に「記事を裏づける事実が記されて」おり、「長くハンセン病に関ってきた医師の山本俊一の見解は、説得力があった」ために、典拠とされたのだという。山本氏の『日本らい史』より引用する。

昭和4年(1929)愛知県の方面委員数十名が愛生園で患者の生活を視察し、帰県してから愛知県よりらいを無くそうという民間運動が始めたことが発端となり、その後岡山県、山口県などでも無らい県運動が始まった。

山本俊一『日本らい史』

しかし、佐藤氏の検証によれば、1929年には愛生園は開園しておらず、この記述は「年」が間違っている。この記述の根拠となったのは、山本氏自身が「注釈」に示しているように、光田健輔の『愛生』昭和14(1939)年4月号に掲載された「愛知県の無癩運動に就て」である。そこには、次の一文がある。

兎に角熱田署管内及知多方面の浮浪者の減少は著しきものがある。これは昭和九年以来衛生局と方面委員団体との密接なる提携による啓蒙運動に端を発し、当時愛生園医官たりし林文雄博士は一ノ宮市其他の各市に於て熱弁を奮い、岡本衛生主事の努力奮闘と大石社会主事の協力は偉大な結果を齎らした。彼らの主張は十坪住宅を建設し一戸平均五人を収容するときは当時現住した四百人の癩を収容するには八十棟即ち八百坪の住宅を国立癩療養所に寄附して全部療養所に収容し、国庫によって此四百人を救助すべしと云う計画であった。此を名づけて無癩県運動と云い、全国の救癩事業を風靡するの観があった。…
昭和九年から昭和十二年かけて岡本大石両主事の勧誘により愛知県方面委員の愛生園訪問団が組織せられて救癩事業の認識を高めると同時に郷里に於て二階や物置に閉籠められ日の光をも拝む事の出来なかった患者が次々と救われた。

『光田健輔と日本のらい予防事業』

ここに、愛知県から訪問団が愛生園を訪問したのは「昭和九年から昭和十二年」とはっきり書かれている。また、佐藤氏の「裏づける記述」という光田の文章が『回春病室』にある。佐藤氏が「山本は光田のこの文章を典拠にして書いたのだ」と言うように、私もそう思う。


ここで、佐藤氏の検証から「無癩県運動と光田健輔の関わり」に焦点を当てて、まとめてみる。

1 「無癩県運動」の最初は鳥取県か愛知県か。
光田健輔の『愛生園日記』によれば、「まっさきに無ライ県運動を起こしたのは鳥取県で、昭和十一年に鳥取ライ予防協会を作って、六万円の基金募集をした。うち二万五千円を愛生園に寄付して「鳥取寮」を建設し、鳥取県患者の優先収容を約束した。」とある。その一方で、「愛知県の無癩運動に就て」には「愛知県によって最も先に主唱せられたる無癩県運動を継続せられん事を希望するものである」と書いている。この光田の「一貫性がない」ことについて、佐藤氏は「光田の記述を信用して、無癩県運動の始まりの県や年代を確定することはできない」とする。

佐藤氏は、この光田の記述には別の意図があるという。

光田には、最初の県を名指すことに、事実を書き記す以上にの意味が他にあったのではないかと推測される。それは、光田自身が計画した無癩県運動を推進している県を褒め称えるという意図ではないだろうか。…
つまり、光田の計画を実行し成果を上げている両県を讃え褒めることで、「無ライ県運動」が全国に拡大されていくことをねらったのではないだろうか。特に患者が減少していけば国民は予防の面から安心し、患者は浮浪・徘徊せず療養所で治療を受けることができて救済されていくことを、両県をモデルとして宣伝する目的があったと考える。つまり、宣伝することで多くの「寄付金」を得ること、ハンセン病の感染力を宣伝することで恐怖感を煽り、患者摘発と収容を容易に進められること、そして最終的には自らが権威と権力をさらに得ることであった。

2 「無癩県運動」と「十坪住宅運動」
佐藤氏は、光田の記述から「無癩県運動」の内容を次のように解釈する。

無癩県運動という言葉を使い始めたのは光田健輔であると推定される。光田がこの言葉の名づけ親であろう。さて、この記述には無癩県運動と名づけられている運動の内容が明示されている。それは、自分の県の患者を療養所に送り込み、そこで住むための十坪住宅を県が建て、国に寄付することである。自分の県に癩病患者を無くそうとするときに、治療して無くすことができないのであれば、患者を他所の県に収容することで目的は達せられる。だから、無癩県運動は十坪住宅運動と密接に結びついた運動なのであると解される。

つまり、全国のハンセン病患者を療養所に収容するためには、国民の理解と協力を得る必要がある。そのためにはハンセン病の専門医と政府や地方の官吏による喧伝が必須であり、名目としてはハンセン病は遺伝病ではなく感染症であることを広く国民に周知することであるが、その実際はハンセン病の感染力を殊更に強調することで恐怖心を煽り、患者の摘発と収容に協力させる。さらに、「無癩県」「患者数の減少」という称号を賞賛することで、府県同士を競わせる。収容した患者の住居として「十坪住宅」を宣伝し、寄付金を集めることで、収容人数の増加に対応する。患者収容においても患者の住居においても国民の関与が必要であった。

ハンセン病をなくすためには、患者を県から送り出す「無癩県運動」と、患者を療養所で受け入れる「十坪住宅運動」という組み合わせを、「官民一体になって」取り組むべきだと光田は考え、訴えていたのである。

3 光田の計画
「無癩県運動」にも光田健輔が深く関わっていることが証明されたわけだが、当初から光田はこのような計画を周到に練っていたのだろうか、それとも政治家や官僚を巻き込みながら徐々に方法を練り上げていったのだろうか、今となっては知る由もない。だが、「癩根絶」という目的のために様々な立場の人間が集結して協力体制ができあがっていった中において光田の考え出した計画が遂行されていったとしか思えない面がある。光田のハンセン病の専門医あるいは第一人者として周囲が認めた上での彼に付与された政治力の結果だと私は思う。
佐藤氏は次のように述べている。

さまざまな施策を推し進めてきたのは誰であろうか、誰か一人が、個人の力で日本の政策を動かしてきたというのは言いすぎだろうけれども、光田健輔の影響力が最も強かったと考えるのは妥当であろう。重要な局面で光田は政策を推し進めている。彼は1902年と1906年に論文を書き隔離政策を訴え、それが反映されて1907(明治40)年に「癩予防ニ関スル件」が公布され、府県立連合の療養所が設立された。また光田は1919年に私案を書き、内務省は1921年1月に「癩予防に関する意見」としてまとめた。ハンセン病患者実数を1921年3月に発表し、この調査に基づき1930年10月に内務省衛生局は『癩の根絶策』の二十年計画を採択した。同年3月に当局は『癩の話』を作成し、自宅療養患者・家族に配付した。翌年3月に長島愛生園に患者達が入園し、同年3月に「癩予防法」が改定され、全患者が強制隔離の対象になった。また同年3月に財団法人「癩予防協会」が設立され、民間の力を動員することになった。
こうして光田健輔は、最初の国立療養所である長島愛生園の園長になった。そして患者を収容する住宅が不足していることを痛感して、受け入れ側としては「十坪住宅運動」を、送り出す側の各県には「無癩県運動」を考案した。

佐藤氏は「無癩県運動の発端は、県側にあるのではなく、光田の側にあると考えられる。光田の計画を国が推し進め、各県が同調したにすぎない。」と結論づけている。私も同感である。

藤野氏は「無らい県運動は、絶対隔離を目的とした法律(癩予防法)、絶対隔離のための施設(国立療養所)、そして絶対隔離を是とする世論を喚起しる団体(癩予防協会)の三者が整備されたことで実施が可能になったといえよう」と述べ、「まさにハンセン病患者への絶対隔離政策は官民挙げておこなわれた無らい県運動なしでは遂行しえなかったと言っても過言ではない」と断言している。


ところで、前回も近藤祐昭氏の論文を例に述べたが、最近のハンセン病史に関する研究は、入所者や回復者への「聞き取り」を通して「絶対隔離政策」や療養所での生活、さらに「救癩」について検証し、従来の絶対隔離政策への批判に対する「反証」に偏向しているように思える。

藤野氏も危惧を感じて、そうした研究に批判的な警鐘を鳴らしている。例えば、『ハンセン病 絶対隔離政策と日本社会』所収の論文「無らい県運動の概要と研究の課題」において、「未隔離の患者が残されたことを強調して、それをもって絶対隔離は不徹底だったとみなす」廣川和花氏に対して次のように反論する。

廣川和花は、その著『近代日本のハンセン病問題と地域社会』のなかで、1907年の法律「癩予防ニ関スル件」は患者の救護法であった、1931年の「癩予防法」は絶対隔離を可能にする法律ではあるが、現実には群馬県草津温泉にあったハンセン病患者の集落湯之沢やそこで患者を治療した私立の聖バルナバミッションの存在も許され、大阪帝国大学などでは自宅療養患者の通院治療もおこなわれていたのであるから、絶対隔離は実現していない、すなわち国家はハンセン病患者を排除、差別することを意図してはいなかったと主張している。しかし、癩予防法の成立が即、絶対隔離の達成ではなく、国家は20年計画で全患者の隔離を目指したわけで、その期間に多くの自宅療養患者がいたのは当然であり、その自宅療養患者は警察の管理下に置かれ、隔離への恐怖のなかで暮らしていた。廣川はそのような事実を無視している。廣川は自宅療養患者や湯之沢集落のような存在を根拠に療養の多様性を主張し、絶対隔離の不徹底を主張するが、自宅療養患者をも管理し、湯之沢集落などを解体に追いやったことが絶対隔離政策そのものなのであった。

近藤祐昭氏も「軽快退園」を根拠に「絶対隔離」の不徹底と国家のよる「救癩」を正当化するが、「絶対隔離が実現」できていようがいまいが、「隔離政策」の推進されていったのであり、「強制収容」によって人権被害を受けた患者は多かったのである。確かに「救われた」という患者も多かった。路上で物乞いをしながら生活することに比べれば、ほぼ無償で、貧しくとも住居と食事を与えてもらえることに感謝する患者も多かっただろう。しかし、その代償も大きかった。「絶対隔離」が不徹底だったから国家の政策が正当化されるものではない。
廣川氏は「先行研究」を「糾弾の歴史」と批判するが、なぜ「糾弾」するのか、しなければならないのかを再検討すべきと思う。
参考までに、藤野氏の廣川氏への批判を紹介しておく。

https://www.keiwa-c.ac.jp/wp-content/uploads/2014/01/kiyo22-5.pdf

同じく遠藤隆久氏は「療養所が行き場のない入所者にとっては社会の偏見・差別からの避難場所(アジール)でもあった」と主張し、この事実を「正当に評価されてこなかった」と先行研究を批判する。そして「療養所が社会の偏見・差別からハンセン病患者を守る場でもあったというわずかな役割はほとんど顧慮されてこなかった。…そのことを認めてきた入所者は、綿々と療養所のなかには存在しつづけている。そのことを否定的な視点からだけみると、等身大の実像を見損なう恐れがある。むしろ、直視することによって、終生隔離の壁から外に出ることを諦めた入所者が仲間と助け合ってきた自治や、わずかながらも生活の張り合いを探し求めるなかから育んできた文化が浮かび上がってくる」と述べて、従来の研究に対して別の視点を提起する。

この意見は結果論である。遠藤氏も述べているように「外に出ることを諦めた入所者」が、少しでも住みやすい環境を作ろうと、少しでも園内の人間関係や職員からの待遇をよくしようとの思いから「自治会」組織をつくって活動したり、自らの人生を豊かなものにしようと文芸に勤しんだりしたのであって、「外に出ること」(外に出て普通の生活ができること)が可能であれば、社会の中に「偏見・差別」がなくなっていれば、彼らは療養所を「避難場所(アジール)」としたであろうか。彼らは「避難場所(アジール)」としたくてしたわけではない。

特に戦前の療養所の苛酷な環境を思えば、単純に「避難場所(アジール)」などとは言えないだろう。強制収容され、苛烈な患者作業に追われ、貧しい食事、職員からの暴言や暴行、理不尽な仕打ち、強制断種や堕胎、解剖承諾書に強制署名…いったい何十人、何百人の入所者が自ら命を絶っただろう。

「否定的な視点」と批判するのであれば、「肯定的な視点」からだけみると「等身大の実像」が見えなくなってしまう。遠藤氏にこそ「見損な」っているのは、藤野氏ら先行研究者は「否定」することを目的にしていない。何がまちがいであるかを明らかにするために、事実を検証し批判しているのである。決して「否定」して終りにするのではない。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。