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「重監房」に学ぶ(6) 暴力装置

光田健輔の著書『回春病室』に「ライ刑務所」と題した一文がある。光田の考えがよくわかるので、抜粋して引用するとともに、私見を述べてみたい。

はじめて公立療養所ができたとき、五つのうち四ヶ所まで警察出身の警視所長でそれを「取締る」方針であったけれども、取締る何の権限も與えられていないから、丸腰になった警視には何の力もなかったのである。むしろその無力を嘲笑するように質のわるいいたずらや、一般社会であれば当然懲役を課せられるような障害、暴行、窃盗、姦淫などの犯罪や、衆をたのんでの集団的暴行も行われたけれど、これに対しては訓戒によって反省を求めるほか何の防禦の方法もなかった。しかもその人々は訓戒によって素行が改まるような生優しいものではなかった。
1916年にようやくこれに対する規定が改正せられて、公立療養所長は「命令の定むる所により入所患者に懲戒、もしくは検束を加うることを得る」ようになった。この一項が加えられたために療養所の気風は一変した。絶えたのではなかったが風潮としての不徳はかげをひそめ、善良な患者がのびのびと各々の善行の萌芽を生長させたので、制裁の制度は秩序を整えるために著しく役立ち、療養所改善に積極的な意義をもつものであった。
しかし、その反面にこの懲戒検束という軟禁的な制裁は、兇暴なものに対してはほとんどききめがなかった。…ことに療養所外で行われた犯罪は、ライとわかれば「刑」の対象にならないため多くは刑務所へ行かないで療養所へ送り込まれる。かれらは療養所の規定に反しないかぎり、社会における罪は一應帳消しになるので、軟禁もしないで普通の患者と同じ自由さである。

光田健輔『回春病室』

当時の療養所に実情として、全国各地より「浮浪患者」が送り込まれてくる。さらに「癩予防法」(1931年)により在宅患者を含むすべてのハンセン病患者の絶対隔離が始まり、あらゆる患者が収容されてきた。当然、犯罪者も麻薬(モルヒネ)中毒者もいたであろう。ハンセン病を恨み自暴自棄になっている患者も少なくなかったであろう。さまざまな患者に翻弄される施設管理側の困憊は想像にむずかしくはない。光田の苦悩や苛立ちも理解できる。

結局、ライは刑の対象にならないという誤解が改められ、ライ刑務所ができなければライの兇悪犯は絶えず、可憐な、多くの善良な病者がこうむる苦痛や迷惑はひと通りでない。ことに管理の上からみても常に大きな困難の種となっている。

同上

この文章だけなら至極もっともな意見であり、実態を知らなければ誰もが賛同するだろう。しかし、実態はちがう。光田の愛生園も他の療養所も実態は「療養所」ではなく、まるで「人足寄場」「タコ部屋」であった。

周囲を海に囲まれているか、でなければ高い隔壁を巡らせたハンセン病療養所では、逃走防止のために厳しく監視されていた。加えて、入所時の所持金はウムを言わさず「保管」されるか、「園内通用券」に交換された。こうして、施設に厳重に縛りつけておいて、入所者たちにはほとんど強制的ともいえる所内労働が課されたのであった。
軽症者が重病患者のめんどうを見る看護にはじまって、洗濯、ほう帯巻きやガーゼのばし、給食運びなどの病院や療養所での不可欠な労働、さらには耕作、養豚・養鶏、炭焼、大工、道路工事、掃除、死者の火葬など生活のためのありとあらゆる作業が、入所者(患者)によってまかなわれるといった有様であった。当然のことだが、このような所内強制労働は、ただでさえ病気の身に大きな負担となり、病状をいっそう悪化させたり、ひいては死に至る原因ともなった。

田中等『ハンセン病の社会史』

患者は狭い部屋に何人もが押し込まれて住まわされた。断種処置により夫婦生活を許されても、同じ部屋を仕切りで分けただけで複数の夫婦が雑居させられた。何より「療養所」でありながら医療や介護する職員が圧倒的に不足していた。本来あり得ない患者作業も、光田は患者の「慰め」であり、患者にも「恩恵」があると考えていた。

ライ療養所では看護婦も手不足で一般経費も乏しいので、付添、洗濯、土木、木工、家畜の飼育などに軽症者が働いて、健康者の労務をはぶくと同時に、それが患者自身の日常の慰めともなっている。

光田健輔『愛生園日記』

光田の「大家族主義」の考え、儒学的家父長制の倫理が反映されている。それ以上に、医師としての責務や自覚はなかったのだろうか。同じ疑問を、宮坂道夫氏は『ハンセン病 重監房の記録』で、次のように書いている。

光田は、「犠牲奉仕の精神」を体現するように働く患者を賞賛し、「指の脱落した手にホウタイでノミをくくりつけて働いた患者さえある」と誇らかに述べている。当時の医師たちが患者作業について述べたものを読んでも、ハンセン病患者が指先などの感覚を失い、外傷や火傷を負いやすいことについての言及がほとんど見あたらない。重労働によって外傷を負い、しかも本人が容易に気づかず、悪化させる可能性がある-こうした可能性を、光田やほかの医師たちは、想像もしなかったのだろうか。

宮坂道夫『ハンセン病 重監房の記録』

患者たちの手記を読むほどに、光田ら医師のハンセン病患者に対する冷酷さ、むしろ人間としての感覚に疑問を感じる。はたしてハンセン病者は「患者」ではなかったのだろうか。彼らは「収容者」としか見ていなかったのではないだろうか。
解剖が趣味としか思えない光田にいたっては、ハンセン病患者は「研究用のモルモット」程度にしか見ていなかったのではないか。だからこそ、「虎の威を借りた」権力によって高圧的に支配し、自分に逆らったり反抗したり、意に沿わなかったりする患者に対して<暴力>によって抑え込もうとしたのではないだろうか。そのための「懲戒検束権」であり、「監禁所」であり、「重監房」であったのだ。

草津の楽泉園ができたのち、全国癩療養所長会議によってこの困難を法の定める範囲の中で解決しようとして楽泉園内に堅固な監禁所を作って逃走を不可能にすることにした。かつて度々療養所を逃走しているような、ことに患者の平和を害するようなものを主として全国からこの監禁所へ入れるようになって、一段と療養所は明朗になっていった。

光田健輔『回春病室』

何を言っているのか、「明朗になった」のは自分と職員、同調する一部の患者だけだったであろう。<暴力>による抑圧のために「重監房」を設置し、逆らう患者や意に沿わぬ患者に対して「脅し」の手段(「草津送り」)として「抑圧」しただけである。物言えぬ患者を作り上げた結果が自分たちにとって居心地のよい「明朗な」療養所になっただけである。

上記に続けて、光田は自己正当化の論理を次のように述べている。光田の偏狭な独善性が明らかに伺える。

監禁であるから一般患者と同様には、治療や給與の行届かない点もあったことであろうが、これに対して終戦後そこに収容せられているものの中から「治療しない」「食事を與えない」したがってこれは人権の蹂躙であると抗議して関係方面へ運動するものがあった。これに対して過去数十年間の療養所管理の困難な事情や、監禁所設置にいたる長い間の研究討議の過程を知らない一部の法律家たちが法理論の上からであるのか、安價な同情からであるのか、とにかく人権の蹂躙を認めて草津監禁所の厳重な設備はとりこわされた。そしてそのとき園長は休職となったのである。永い間ライのために危険を冒して働いていた園長が、ほかの善良な幾千の患者のためにとっていた手段を非として手に負えない不良患者のために追放せられるというようなことが、きわめて最近に起こっているのである。

光田健輔『回春病室』

時代がちがい、人権に対する認識や意識が稚拙であったにしても、論理の破綻は明らかである。自分たちに都合のよい解釈、自己弁明に過ぎない。

監禁所に入れているから、入れられるような不良患者だから「治療や給與」が行き届かなくても仕方がないのか。明らかな「懲罰」であり「見せしめ」であることの言い訳、自己正当化である。「過去数十年間」の「困難な事情」や「永い間ライのために危険を冒して働いていた」ことと、監禁し「治療をしない」「食事を与えない」こととは、全くの別のことである。理由にはならない。

ここでも光田は「目的のために手段を正当化」している。
善良な患者の平安のため(目的)には、不良患者は「重監房」に追放(手段)しても構わないのか、「治療をしない」「食事を與えない」ことは構わないのか、「重監房」で死に絶えても構わないのか。独善性であり、自己正当化である。この考えは光田だけでなく、「光田イズム」に毒された他の療養所長も同じであり、園長という虎の威を借りた施設長から末端の職員まで、さらに横暴な対応は激しくなったように思う。

この一文(「ライ刑務所」)の最後に、光田は次のように書いている。

療養所にいる患者は、社会に病毒を流さないために、自ら狭い地域にいて単調な生活に甘んじている「社会の犠牲者」である。これに対しては心あるものは常に温かい同情と感謝の心をもって彼等に接し慰めているのであるが、国家は特に万全の策をもって患者を庇護すべきであることはいうをまたぬ。
しかし、今なお楽園化しつつある療養所の平和を乱す危険な犯罪者から患者を守る手段がとり残されている。残念ながらライの犯罪はあとを断たないのである。私はライ刑務所が実現しなければ療養所という限られた地域からのがれられない患者の平和と幸福は断じて守れないと思うのである。

光田健輔『回春病室』

光田の著書や彼の弟子(内田守)が書いた伝記など研究対象でなければ、高い古書代を支払ってまで買いたいとは決して思わない。自己正当化と偏狭な独善性、自慢話に終始する文章など、読みたくもない。しかし、世の中には同じような考え(あるいは性格か)の人間は少なからず存在する。

最後に、絶対隔離という目的のために正当化された「手段」(暴力装置)を年表としてまとめておく。

1907(明治40)年 法律第11号「癩予防ニ関スル件」制定
1909(明治42)年 全国5か所に府県連合立療養所を開設
1915(大正 5)年 光田健輔(全生病院長)ワゼクトミー(断種)考案・開始
1916(大正 6)年 「癩予防ニ関スル件」改正 療養所長に「懲戒検束権」が与えられる
1930(昭和 5)年 内務省衛生局が「癩の根絶策」を発表
1931(昭和 6)年 「癩予防法」が制定 在宅患者を含むすべての患者の強制隔離が開始される。「懲戒検束規定」(統一的罰則規定)が定められた
1936(昭和11)年 長島愛生園で「長島事件」がおきる
内務省衛生局が「癩の根絶計画」を実行
1939(昭和14)年 群馬県栗生楽泉園に「特別病室」(重監房)が設置される

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。