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光田健輔論(17) 建て前と本音(2)

近藤祐昭氏の『ハンセン病隔離政策は何だったのか』と題した論文について検証している。

最近、国賠訴訟後の検証会議や藤野豊氏による詳細なハンセン病問題に関する著書が明らかにした日本のハンセン病政策の大きな誤りに対して、特にハンセン病問題の元凶である<絶対隔離>に関して「その時代においては必要な政策であった」「隔離によって救済された」等々の時代錯誤の主張をする研究者が増えてきた。
友人も同様の危機感を持っているようで、先日送られたメールにも「古い世代の一部でも、らい予防法時代と同じ価値観がいまだに保たれていることも感じます」とあった。

さらに光田健輔に関しても、彼の人格や人間性をクローズアップして、彼の業績を一方的に誇大評価する向きがある。私には近藤氏もその一人のような気がする。

最近、わが国のハンセン病医療の流れは光田健輔一人によって誘導されてきたものでなく、光田もその歴史に翻弄された一人であり、時代の流れこそが問題であったことを強調する論文が出ている。さらに国際的流れの中で、世界の流れからの乖離を見るという日本独自の動きは、従来多くの人が主張しているようには多くなかった。それゆえ光田やその信奉者たちの責任は比較的軽いのではという議論がなされているが、これは根本的におかしい。このような論を発展させればすべての事象は時代の流れの所為で、その責任の所在が明らかでなくなる。…筆者は、歴史の一つひとつの事実に誰がどのように関わったのか出来るだけ明確にし、その責任の所在を明らかにすることこそが重要であると思う。それが何万人もしくは何十万人と言う被害者を出したハンセン病問題の検証の中できわめて重要なことであると考える。そしてその責任を問うことが大切であると思う。それでなければ政治家も官僚も医療従事者もまた同じことを繰り返す可能性が極めて大きいと考えるからである。

牧野正直『ハンセン病の歴史に学ぶ』

私は牧野氏の考えにまったく同感であり、私がなぜハンセン病問題の歴史にこだわり続けるかの理由でもある。
近藤氏が繰り返し引用する「ハンセン病の伝染力が弱いことはよく承知していたが、隔離する法律を作るためには、強力な伝染病だと言わざるを得なかった」という当時の政府の最高責任者の言葉は、私には単なる言い訳であり自己正当化以外のなにものでもない。近藤氏は、この言葉を盾に「時代の流れ」「歴史」に責任を転嫁しようとしているように受け取れる。

また、犀川氏の「対外的な先生の発言は、日本のらい行政に直接影響するだけに、先生は意識して発言しておられた。先生はずいぶん誤解を受けられた方であった…」を根拠に、「軽快退園」を認めていた光田を拡大解釈して、近藤氏は次のように光田を擁護する。

国家に対しては「伝染」を強調し、完治しないことを強調し、国費による隔離施設の必要性を主張し、他方で実際に伝染の恐れのない患者、退園して生活していくことが可能な患者の退園を認めていたであろう。

果たしてそうであろうか。光田は近藤氏の言うように<建て前>と<本音>を使い分ける器用さを持ち合わせていただろうか。私は「否」と思う。藤野氏の膨大な資料を駆使した大著『「いのち」の近代史』などハンセン病関連の著作および成田稔氏の『日本の癩対策から何を学ぶか』『日本の癩対策の誤りと「名誉回復」』などを詳細に読めば、光田の目的は「国費による大規模な療養所の設立と運営」ではなく、すべての患者の隔離収容であることがわかる。何より「軽快退園」を前提に治療するのであれば、強制的な「断種・堕胎」及び苛酷な「患者作業」、逃亡者や反抗者への「監禁」、さらに「特別病室」の開設などは不要であるはずだ。

単純に、絶対隔離を<建て前>、軽快退園を<本音>という仕分けで光田を擁護することが、逆に光田の本質を見えなくしている。

光田健輔や澁澤栄一・窪田静太郎などは、患者の救済と医療そして感染予防の必要性を強く受け止めて国策の樹立に向かったことと思う。そして光田は感染予防を強調することによって隔離の強化と拡大を政府に求めていった。

近藤氏の考察は表面的な、善意での解釈を前提とした好意的かつ短絡的な発想によるものと、私は思う。百歩譲って、彼らにもそのような思いは確かにあったかもしれない。特に澁澤は、彼の社会事業家としての活動を見る限り、そうであったと私も思う。だが、窪田や後の日高六郎など内務省衛生局や厚生省の官僚、山根正次ら政治家に患者救済の意思がどれほどあったであろうか、甚だ疑問である。「患者救済」よりも「国辱の排除」「根絶」が主なる目的ではなかっただろうか。
「絶対隔離という建て前とその実態(真意)を考えるとき」という発想自体が、「善意」の眼鏡で見ているために、逆に「実態(真意)」を見えなくしている。それが、先の牧野氏の指摘する「同じことを繰り返す可能性」につながることを自覚すべきである。


ここで、近藤氏が自説の根拠とする犀川氏の考えを確認しておきたい。『ハンセン病医療ひとすじ』に「先生の国会証言」と題した項目がある。抜粋・引用して要点をまとめておく。

結局、両園長(光田と林芳信)は、この時点でハンセン病はまだ「治る時代」を迎えたとは判断しておられなかったので、その点、先生と私とでは見解を異にしていた。
…私は「プロミン」のいちじるしい効果を、毎日、患者を治療して実際に見ており、また私なりに自信を深めていた。…
そして、ハンセン病は、いよいよ治る時代を迎えたと密かに思っていた。
そんな私の考えを、光田先生は厳しく戒められていたが、先生に限らず、これまで、ハンセン病の治療に苦労されてこられた先輩の先生たちは、一様に、この病気の治療は十年の経過を見なければ、治るとはいえないと、半ば私を批判しながら、励ましてもくれていた。
…当時、(プロミン)治療を受けるためには療養所に入所するよりいたし方がなかったからである。
ただ問題は、三園長が揃いも揃って、なぜ「強制収容」とか、「消毒の実施」「外出禁止」などを強調されたのか、その真意のほどは理解に苦しむし、残念なことである。
…かつて巷の浮浪患者を保護、収容した時代を経験してこられた三園長だけに、「強制収容」を「伝家の宝刀」的な意味で残そうとされたのかも知れない。
しかし、めったには適用しないからといって、法律に明記することは問題であり、その法律自体、人権上問題をもっている。何とも弁解の余地はない。
…まだ「プロミン」時代であった1951年の時点での三園長の、患者を施設に収容して治療をする考え方も理解できないこともないが、それにしても「強制収容」は、理解に苦しむ。

犀川氏は「プロミン」以前の隔離政策、特に「強制収容」について実際には知らないと言っているが、「プロミン」について光田から研究を命じられ、その効果を確信するに至ってからは、光田が固執する「絶対隔離」「強制収容」に反対の立場をとっている。そして、療養所での「隔離」から「外来治療」に移行するべきとの見解も表明している。それゆえ、光田を中心とする三園長の国会証言は納得のいくものではなかった。

もし近藤祐昭氏が本論文の骨子として論を展開する、光田健輔が<建て前>と<本音>を使い分けているのであれば、犀川氏が「理解に苦しむ」ことも「残念なこと」と思うこともなかったのではないだろうか。まして、「法律に明記すること」は「人権上の問題」であって「弁解の余地はない」と言い切る犀川氏が光田の「真意」をはかりかねることもなかっただろう。

光田の<建て前>と<本音>というのであれば、患者や職員に向ける<建て前>の顔と、政治家や官僚に向ける<本音>の顔との違いではないかと私は思う。患者や職員には患者思いの優しく温厚な医師の顔を見せながら、政治家や官僚には自らの信念である<絶対隔離>の必要性を硬軟両面から訴えた園長の顔を見せたのだと思う。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。