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下作

随分と昔、もう20数年ほどになるが,友人から私の文章表現が「下作」になってきたとの厳しい指摘を受けたことがある。確かに,当時、ブログやBBSに書く文章表現が粗野になってきたように私自身も感じていた。元々,文章は上手な方ではないが,表現内容に用いる語句や修辞が独り善がりになり,決めつけたような文章になってしまい,伝えたいことが正確に伝わらず,誤解や曲解を生むことも多くなっていた。

出版目的の論文や職務上の公用文では上司や同僚からの指摘もあるが,私的な文章に関しては指摘を受けることは少ない。ブログやSNSの文章では書きっぱなしになってしまい,読み直したり推敲したりすることがほとんどないため,その時の思考や感情に流されてしまいやすい。これらのことも言い訳に過ぎない。友人が言うように,Web上に公開することは不特定多数が読むのだから尚更に文章表現はわかりやすく的確でなければならないのは当然である。友人の鋭い指摘は手厳しいが,ありがたくもあった。文章作法は実用書や専門書でも学習できるが,それを使いこなすための文章習練には他者に読んでもらい判断してもらうことが最も有効である。

年々、文章作法の難しさをあらためて知る。文章は良書や良文を読むだけでは身につくものではない。思考や感情を表現する手段であるとともに対象に真意を伝える手段でもあるという両輪の自覚が大切である。誰にも見せない日記ならば前者だけでもよいが,自分以外の人間を対象として,しかも対象が多ければ多いほど,対象を想定した文章を書く必要がある。
文章表現一つで読み手が離れていくこともある。誤解や曲解を招くこともある。特に批判的な文章を書く場合は注意しなければならない。不特定多数を読み手に想定する場合,多種多様な立場や思想,人間観をもつ人々を意識しなければならない。また読み手の解釈によって必ずしも意図が正確に伝わらない場合もある。当たり前のことだが,つい感情的になると筆が滑りやすくなる。

反面,文章は似てもくる。自分の好きな作家や学者などの文体や表現方法に似てくるのは,影響の強さであるが,気をつけなければいけないのは,日常において最も多く読む文章の影響を知らず知らずに受けてしまうということだ。新聞や雑誌だけでなく,Web上の記事やブログなどからの影響もある。それは,TV番組や漫画,あるいは芸能人のファッションや口調の影響を受けるのに似ている。身近なものほど強く影響を受ける。いつしか同じような表現をしていることがある。しかし,その影響は良い面ばかりではない。悪しき影響も受ける。その場合,気づくのが遅れれば,それだけ悪しき影響の被害は大きい。気づいたときには,情けないほど自分の文章表現が乱れてしまっている。


日光東照宮に有名な左甚五郎の「三猿」がある。「三猿」とは,3匹の猿が両手でそれぞれ目,耳,口を隠している像であるが,「三猿」は世界的にも"Three wise monkeys"として知られ,「見ざる,聞かざる,言わざる」という叡智の三つの秘密を示している。
日本には8世紀ごろ,漢語の「不見,不聞,不言」を訳した天台宗の教えとして伝わったという説がある。日本語の語呂合わせ(打ち消しの文語助動詞「ざり」の連体形「ざる」を「猿」にかけた)から日本が三猿発祥の地のように思われるが,「見ざる,聞かざる,言わざる」によく似た表現は古来より世界各地にあり,意味するところは微妙に異なる。『論語』の「非礼勿視,非礼勿聴,非礼勿動」やマハトマ・ガンディーの「悪を見るな,悪を聞くな,悪を言うな」という「ガンディーの3猿」などは有名である。

「見ざる,聞かざる,言わざる」は,最近では悪い意味(口封じ,見て見ぬふりなど)で用いられることが多いように思うが,本来の意味は「心を惑わすものや他人の欠点などについては,見たり,聞いたり,言ったりしない」ということである。つまり,「人の短を見ず,人の非を聞かず,人の過ちを言わず」という戒めの意味である。

情報化社会である現代,良しも悪しも混在した膨大な情報が洪水のように流れ込んでくる。自分の価値基準や感性をしっかりと持っていないと押し流されてしまう。自分を見失うことになりかねない。現代こそ,この「三猿」の戒めが重要である。悪しき情報や心惑わすもの,感情を逆撫でるものなどに関しては「見ざる,聞かざる,言わざる」が最適な対応であると考える。情報を取捨選択して,悪しき情報などは最初からshutoutすべきである。


孔子の『論語』に,次のような一節がある。

子貢問うて曰く
一言にして以て
終身これを行うべき者ありや
子曰く 其れ恕か
己れの欲せざる所
人に施すこと勿れ

弟子が孔子先生に尋ねました。
「一生の内で,忘れずに実行して欲しいことが何かありますか」と。
孔子先生は答えました。
「それは恕(思いやりの心)です。」
「自分がして欲しくないこと(言われたくないこと)は,他の人にしないことです。」

同じ教えは,「黄金律」として多くの宗教,道徳や哲学で見出される「他人にしてもらいたいと思うような行為をせよ」という内容の倫理学的言明である。

イエス・キリスト:「人にしてもらいたいと思うことは何でも,あなたがたも人にしなさい」(『マタイによる福音書』)

ユダヤ教「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな。」(ラビ・ヒルレルの言葉)

ヒンドゥー教「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」(『マハーバーラタ』)

イスラム教「自分が人から危害を受けたくなければ,誰にも危害を加えないことである。」(ムハンマドの遺言)

これほどに多くの宗教の戒律に説かれるということは,それほどに守られにくいということかもしれない。宗教家が「黄金律」を説教しながら,自らの言動を省みないことも多々ある。恥ずかしいことだ。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。