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松本良順と弾左衛門(3)

次の史料は,前回の引用した『論集 長崎の部落史と部落問題』(長崎県部落史研究所)収録の姫野順一「貴賤観と身分」の附録「松本良順による賤称廃止の画策」の続きである。

丁卯の冬,慶喜公は京都にありて大政を返上せられ,旗下の士粗暴の挙動あらんことを慮り,大阪に退去あり,密かに京都の状況を伺われたるに,戊辰の正月に至り,さらに上洛すべしとの命あり,依って行装を整え上洛せられんとせしに,先発の士山崎に至るや関門を鎖して通行を許さず,論争数時に亘る。薩藩の士野津嘉七,意を決し大砲を発せしに,滝川某愴惶大阪に走り帰る。その怯懦歎ずべし。また会津藩の一隊伏見にありし者も,狼狽して兵を出だすも,その戦端何に因って起こりしを知らず,ために進軍に策略なし。旗下の兵士は平生の弁口にも似ず,ただただ先を争うて走り,陸続来たりて大阪に集合す。慶喜公に対って直ちに帰府あらんことを上申す。公はもとより臣下の頼むに足らざることを知る故に,直ちに軍艦に搭じて帰府せらる。江戸にある者これを聞くや,その何事に因るを知らず,周章狼狽するのみなり。予は直ちに登城して公に謁す。時に公はひとり深く心労せられ,不安の状なりし。予ひそかに言上すべきことありと言いしに,公すなわち板椽に出でら,何事なりやと問わる。依って弾左衛門醜名除去の事を請うに,公曰く,在京中多事なるを以てこれを裁するの時なかりし,遷延今日に至れるは敢えて怠るにはあらず,願書は今誰が手中にありやと問わる。予,立花出雲の関するところなりと答えければ,直ちに出雲を召され,明日これを許可すべしと命ぜらる。すなわち町奉行河内守より弾左衛門父子を召喚ありて,弾およびその臣の鎌倉以来従いし者六名,みな穢多の称を除き士籍に列せらるの命を伝う。弾左衛門等あたかも暗黒界より出でて天日を見るの思いあり,その喜び知るべきなり。拝命の帰途我が家に来たり,大いに謝して去りたり。予この時またさらにその管下の者に諭し,年十六歳より六十歳に至る者より一ヵ年金壱円の税を納め国家用途の中に加うべければ,希わくは弾父子および従臣六人の者と同じく穢多の称を除かれんことを請うとの願書を出ださしむることとせしが,この時すでに官軍東下の風聞ありて,多事の際なりければ,しばらく中止したり。維新後は新平民の令あり。然れども習慣の久しき,一朝これを改むるあたわず,今日すでに三十余年を経るも,世人なお人外の如き思いをなせり。政府に益なく,その民もまた特恩を感ぜざるに似たり。

このことの顛末は今なお弾左衛門が家の記録に存せりという。

過日に入手した柴田宵曲編『幕末の武家』(青蛙房)に,松本良順の聞き書き(「松本蘭疇」)が所収されている。本書は『旧事諮問録』の姉妹編として,明治20~30年代に出版された旧幕人の手による「江戸会誌」「同方会誌」「旧幕府」等の雑誌より談話に近いものを選んで編纂された。
本書の「幕末の話」として一括されたものの中に「同方会誌」所載の記事があり,その一つに「松本蘭疇」がある。内容は上記のものとほとんど変わらないが,聞き取りでもあり,昔を想起しての話だから,少々自慢も誇張もある。
塩見鮮一朗氏も「松本良順の回顧録である『蘭疇』はかなり疑ってかからねばならない」と書いているように,脚色した話と考える方がいいだろう。

ただ,この一文を読みながら,『蘭疇』が書かれたのが明治になってからだとしても,松本の言葉の端々に,江戸時代に「穢多」がどのように社会から見られていたかを感じることはできる。

…穢多といえば畜生同様に思うたその頃のことだから,門前から竿に願書を挟んで出したくらいだ。
…そこで,病人を診る風をして,毎晩,出雲橋の赤石屋から船に乗って,山谷堀で上がって,弾左衛門の家に行って,いろいろ話をした。そのおり系図などを見たが,元はなかなかの家柄であるので,今まで畜生同様に見なされて,人間の扱いをされなかったお前たちを,私が尽力して世の中へ出してやるが,その代わりには,今まで除地になっていた土地も年貢を納めねばならず,随って今までよりは実入りも少なくなるは承知かと言うと,日の光を見るようになれば,どんなことでもいいとの答えゆえ,それでは全国にあるお前たちの手下は,年に一両ずつの人頭税を政府に納めよ,それも年々金子にて納むることは困難ならんゆえ,日に幾らか余計に働いて,その製造物をお前が引受けて,これを売って利を得,政府に納むべき金子はお前が立替えて納めたらよかろうと言ったところ,畜生の域を脱することが出来れば,実に再生の恩とも思うとのことであった。

「畜生同様」「人間扱いをされなかった」「畜生の域」との表現は,松本の言葉ではあるが,このままに弾左衛門に伝えた言葉かどうかはわからない。だが,松本個人の認識とは考えにくい。やはり当時の社会,江戸時代の一般的な認識であったと考えるべきだろう。

松本は,続けて次のように述べている。

…小栗はお叱りを蒙った上,早速明日にも穢多悉皆庶民の取扱いをせよと仰せ出だされた。けれども急に一同を庶民にしては,幕府の威権にも関わるということで,弾左衛門ならびに諸国にあって,毎年交替してその用人を勤むる重立ちたる者六人だけ,平民に組み入るることにして,とうとうその令が出た。

庶民にすることがなぜ幕府の威権に関わるのだろうか。士族ではなく「庶民」と同様に扱うことにもかかわらず。つまり,穢多を庶民と同様にすれば,庶民からの反発や不満・不信が幕府に向けられ,幕府の威権が落ちるということだろう。

この庶民が抱くであろうと予測した不満や不信が,上記の引用文の最後にある「然れども習慣の久しき,一朝これを改むるあたわず,今日すでに三十余年を経るも,世人なお人外の如き思いをなせり。」に関係している。
つまり,庶民は,松本が言うように,穢多に対して「畜生同様」として見ており,「人間扱い」する気もなく,自分たちとは「ちがう」人々と思っていたのである。だから,今日から同じですと言われることが,自分たちが穢多に落とされたと思うほどに耐え難かったのだと思う。

慶応四年(1868:明治元年)一月三日,弾左衛門は熨斗目に麻裃という士分の礼服で長棒駕籠に乗り,羽織袴の先供徒士や,鎗や挟箱,合羽などを持った供を従えた行列で,老中や若年寄,寺社奉行,留守居,大目付などに年始廻礼を行った。

一月九日,弾左衛門は町奉行より年齢を尋ねられている。その理由は,町奉行が「身分引上の内慮伺い」を老中である稲葉正邦に出すためであった。

一月十三日,松本良順が江戸城にて十五代将軍慶喜を拝診している。彼の『蘭疇』によれば,このときに弾左衛門の件を伺っていることになっているが,同じ頃に,弾左衛門は北町奉行から「出格の訳をもって身分平人に仰せられる」との申し渡しを受けている。

一月十六日,新町の手代六十五人の身分引上げを願う。(これは二月上旬に実現している)ほかに,「弾内記」との改名,平人との結婚の許可,玄関敷台よりの年始礼の挨拶,身分引上げの市中への触れなどを町奉行に願い出て許されている。

一月二十七日,年間に五十万両を献上するので,穢多身分全員の身分を引き上げてほしいとの「内願」を両町奉行に申し出ている。長吏のつぎには猿引,非人,乞胸の順に引き上げを行い,だれから「醜名を除く」かは弾内記に任せてほしいと述べている。

松本良順との関係をみれば,良順は浅草今戸の銭座跡に病院を建てることを計画し,その手伝いを弾内記に命じている。その費用は,弾内記から「身分引上げ」の代金として三千両を出させている。

しかし,この約二ヶ月後,江戸幕府は倒れた。慶喜の恭順により,旗本や御家人は家族や家来を連れて江戸を去った。江戸屋敷にいた大名や勤番武士も故郷へと帰っていった。江戸の人口は半分近くになり,武家屋敷の多くも空き家となった。江戸に残ったのは,最後の武装集団である彰義隊であった。反対に,官軍として江戸に入ってきたのは,薩摩や長州を中心とする下級武士であった。

弾内記は,手代や手下たち,非人や猿飼とともに,囲内より外の様子を見ていたことだろう。


部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。