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光田健輔論(24) 浄化と殲滅(5)

ハンセン病患者への絶対隔離政策は、「無らい県運動」と「十坪住宅運動」を両輪に全国各地に急速に拡大していた。それは国だけでなく地方自治体、警察、さらに日本MTLなどの民間団体の尽力が大きかった。その背景には、地域社会や住民に対して、一方でハンセン病への恐怖心を煽動しながら、他方で「救らい思想」を喧伝するという計略があった。

1931年に「癩予防法」が公布された後に、隔離のためのさまざまな施策がとられた。光田健輔は、癩予防法の施行後「十坪住宅運動」と「無癩県運動」を発案し、政府の後押しを得てそれを推進した。それゆえ、ハンセン病無癩県運動の発端は、愛知県でもその他の県の側でもなく、光田健輔の側にある。各県は法を守り政府の命令に従って、県内の患者を療養所に送り隔離政策を推進させた。各県の責任は、始めた責任ではなく、同調し促進した責任というべきであろう。

佐藤労「ハンセン病『無癩県運動』の発端について」『ハンセン病市民学会年報2007』

和泉真蔵氏は「絶対隔離政策」を「世界でも類例を見ない苛酷な」「絶対隔離絶滅政策」であると断じ、「この政策は、全ての患者を終生療養所に隔離して絶滅することで日本のハンセン病問題を最終的に解決しようとする政策である」と述べている。

この政策目標を達成するためには、官の力で療養所を拡充して収容人員を増やすだけでは明らかに不十分で、患者が療養所の外では生きられない社会を創り出すことが必須であり、そのために行われたのが「無らい県運動」である。官が主導して多くの国民を動員し、患者と家族の人生を根底から破壊したこのような運動は日本独特のものであり、わが国のハンセン病政策の残酷さを象徴するものである。

和泉真蔵「無らい県運動と絶対隔離論者のハンセン病観」『ハンセン病 絶対隔離政策と日本社会』

「無らい県運動」の目的が「患者狩り」「強制収容」だけでなく、「患者が療養所の外では生きられない社会を創り出すこと」であったからこそ「絶対隔離政策」の一翼を担ったのである。
入園者からの聞き取りで語られる入所理由は、「家族に迷惑がかかる」「住む所がない」が最も多い。なぜ「園名」を使うのか。これも実名がわかって自分が療養所にいることが知られると「家族に迷惑がかかる」からである。入園者と親しくなっても本名や出身地を語ってくれる方は少なかった。
ハンセン病患者であることがわかると、職も家も捨てて他所に移らなければならない。その前にできるだけ隠して生きなければならない。「療養所の外では生きられない」状況があるのだ。世間の目が「監視の目」になっているのだ。

この運動には、地方行政などさまざまな人びとが参加したが、とりわけ重要な役割を果たしたのが絶対隔離論を信奉していたハンセン病専門医たちであった。彼らは医師という社会的地位の高さと専門家という権威とを利用しながら、ハンセン病について誤った疾病観を国民に植え付け、無らい県運動の“必要性”を国民に信じ込ませる上で決定的に重要な役割を果たした。…
無らい県運動の中で絶対隔離論者が国民に植え付けようとしたのは、ハンセン病を恐怖する心と患者を憐れむ同情の気持ちであった。前者については伝染性を過剰に強調し、不治を宣言し、家族を含めた社会的地位の喪失の可能性を喧伝した。また後者についてはもっとも悲惨な人生を約束された存在として患者に同情するように呼びかけるとともに、皇室、とくに貞明皇后の御仁慈が強調されたが、同情心と偏見差別は表裏一体の関係にあるため国民の差別意識はいやが上にも高まった。

和泉真蔵「無らい県運動と絶対隔離論者のハンセン病観」『ハンセン病 絶対隔離政策と日本社会』

「救らい思想」による使命感からハンセン病医療に自ら従事した専門医の多くが、先駆者である光田健輔の専門知識と実践、何より政治家や官僚を後ろ盾にした巧妙な計略に積極的に加担していった。療養所に入ることが患者のために最善の道であると信じて無らい県運動を主導し、患者本人だけでなく家族をも説得し、強制収容と絶対隔離を推進した。彼らは自らの罪過に気づきもしない。なぜなら自らの言動は<善意>であるからだ。和泉氏は、それを「同情心と偏見差別は表裏一体の関係にある」と看破している。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。