部落史の諸説Ⅱ
黒川みどり氏の『近代部落史 明治から現代まで』を再読している。
新書版ということもあるが,「近代部落史」の通史的概説書としてはコンパクトに全体的な要点と流れを描いており,誰にでもわかりやすく概観を理解しやすい良書と思う。章立ても内容をうまく表していて,読みやすい。
解放令以降の近代部落史を,黒川氏が提起してきた「徴」(差別の徴表)の変化・変遷を時代背景や社会変動などと関連させながら,またその影響を受けて変貌していく被差別部落の容姿や状況を端的にまとめている。
新書版ゆえに解説の不十分な部分,結論の性急さも否めないが,私としては教科書的な概説書として評価したいし,このようにスマートに全体史を描いた黒川氏の手腕を認めたい。
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私は,部落史だけではないが,他の諸学問においてもさまざまな学説や意見があって然るべきと思っている。また,学問的な立場や主張,意見に関して相互に批判があって当然であり,それを通じて学問は発展していくと思っている。
ただ,相互の批判や意見交流は各個人の意志によるものであって,無理強いするものではない。批判は自由であるが,自らの主張や意見が相手にされないことをあれこれと憶測したり自分勝手な理由をこじつけたりして恨み言を書き連ねるのは見当外れである。
相手にするか無視するかは当人の自由である。
私にしても,ネット上で,私の見解や論考について憶測と曲解・歪曲により都合よく改ざんされて非難されているが,正確な解釈に基づく批判とは認められないと判断し,また発展性の皆無な議論しか生まないと思ったので,一切相手にはしていない。
現在も引き続き,迷惑この上ない誹謗中傷や名誉毀損の数々を書き続けられてはいるが,根拠のない抽象的な非難,虚偽でしかないので無視している。
「批判」において守るべきルールは,相手の論考の内容を正確に解釈・理解し,自分の考えとの相違を的確に述べること,そして相手の論考や意見,人格及び人間性を揶揄・愚弄する言葉や表現を自重することである。特に,自分では正当な表現・的確な言葉と思っていても,社会的通念や良識からは甚だしく逸脱し,他者の品格を貶めることもある。
また,引用や要旨においては正確でなければならない。相手の意図に反する解釈を施したり,改ざんしたりした「引用」はしてはならない。
どこにも書いたり言ったりしていないにもかかわらず,「引用」の形式で書かれて,まるで私が書いているように偽造されている場合も多々ある。同様に,「自負」「自認」という言葉や「差別者」「似非」「権化」という形容など,本来の意味とはちがった使い方をするのも大きな問題である。
私は「論考」の内容はそれぞれの立場や意見があって当然と思っているが,文章作法や表現は社会通念・良識を守るべきと考えている。
実際,ゴシップ記事の類の他には,ネット上の「誹謗中傷」以外,学術論文・評論において,文章作成上の最低限のルールが守られていないものを私は知らない。
そのような類の文章の多くは,悪意をもって意図的・作為的に書かれたものである。
そのような文章を書いて,相手を攻撃し,他者(読み手)にも不快な思いを抱かせて自己満足する「愉快犯」を誰が正当に相手にしようと思うだろうか。実際に「され続けている」者として,私は相手にする気はまったくない。迷惑なだけである。
例えば,本書に登場する学者や研究者について,黒川氏が意見や主張が違うからといって「差別者」とか「似非」とか口汚く罵っているだろうか。決してそのような他者を愚弄することはしていない。それは,文章を公開する者として当然のことである。
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本書は,畑中氏の言う「部落問題史」である。
「はじめに」で,本書の意図を黒川氏は次のように述べている。
部落問題をめぐる今日の社会のありようは,制度的には存在しない差別を社会の構成員が支えているという点で,まさに「解放令」を起点とする連続線上にある。したがって部落問題の<いま>に迫るためにも,近代の歴史を振り返り,「解放令」以後の社会が被差別部落と部落外の間にどのような線引きをつくり出し,あるいはどのような理由付けによってその境界を補強し,部落差別を保持してきたのかを明らかにすることは重要であると考えられる。
…(約140年間部落問題が存在してきた)その間に社会は大きな変化を遂げており,そのなかで部落問題が存続しつづけてきたことを丁寧に考察していく必要があろう。そうすることによって,今日の部落問題に向き合う手がかかりが得られるのではなかろうか。
本書を通読したかぎりにおいて,黒川氏の意図は貫徹されている。
明治から現代まで社会が発展していく過程において,近代社会が部落問題をどのように内包してきたのかを伝えている。
黒川氏が「おわりに」に述べているように,現在は社会一般においても学校教育の場においても部落問題が語られることは少なくなってきている。その理由についても平明にまとめている。そのとおりだと思う。
この時期に,本書のような明快な「近代部落史」が出版されたことを歓迎したい。そして,学校教師にこそ読んでもらい,活用していただきたい。
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「解放令」以後の近代社会における部落問題を存続させてきた重要な要因に,人種主義と言い表してきた「生まれながらの」線引きがある。それは生物学的人種のちがいを見出すものから文化的差異によって説明するものまでさまざまあり,またその二者択一ではなく,力点の置き方のちがいを伴いヴァリエーションをもちながら,今日に至るまで部落差別の底流を支えてきたといえよう。
「人種主義」というタームだけで論じきれるとは思っていないが,黒川氏の切り口には以前より強い関心を寄せて著書を読んできた。
黒川氏の切り口は,「なぜ今日まで部落問題は解決できていないのか」「なぜ部落差別は残存しているのか」という命題を解明する指標の一つであると思っている。
近世から近代へと移行し,近代社会が成立・発展・変貌していく過程の中で,さまざまな社会的・時代的な要因と絡み合いながら,人々の意識の変容と相関しながら,部落問題もまた変貌しつつ現代まで残存している。
その過程を時代史として明らかにしたいと私も思っている。
机上に,『和歌山の部落史 史料編近現代Ⅰ』がある。
本書は,1879年から1969年までの和歌山県内で発行されていた地方新聞と全国紙の地方版などより被差別部落及びハンセン病などに関係する記事を項目別に分類したものである。
本書に収録された記事を読むと,黒川氏の労作の根拠を理解することができる。
1879年は明治12年である。解放令が出されたのが明治4年,わずか7年後の記事を読むとき,江戸時代以来(以前)からの差別であると思わざるをえない。
確かに部落差別は明治以後の近代が生み出したものであると考えるが,その要因や根拠,影響は中世・近世からのものである。
記事の文言もそうだが,記事に挿入される談話からも,そのことがわかる。