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差別の罪過(3) ハンセン病と部落問題の連関

前近代において、ハンセン病患者の一部は重度の皮膚疾患患者とともに「癩者」として、「青癩」「物吉」などの賤民身分を構成し、「非人」の支配下で勧進などに従事していたことはよく知られている。こうした「癩者」の集落は、1871年のいわゆる「賤称廃止令」により、その多くが解体させられていった。しかし、旧賤民のなかにはハンセン病患者が多いという偏見は残された。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

当時,被差別部落には近親結婚・血族結婚により「天刑病」(ハンセン病)が多いという俗説が流布していた。藤野が「部落問題とハンセン病」(『ハンセン病と戦後民主主義』)において引用している資料を転載しておく。

「往日封建ノ世ニハ士農工商穢多非人各階級ヲタテテ容易ニ相婚スルヲ許サズ穢多非人ニ至リテハ之ト火ヲ一ニセズ況ンヤ結婚ノ沙汰に於テヲヤ階級ノ区別斯ク厳重ナルニ…(中略)…今日ニテハ旧時ノ穢多非人モ既ニ平民ニ列シテ人間並ノ交際ヲ為スニ至リタレバ此輩ノ血統モ亦社会ニ広マル可キナリ」
「下流ノ人民中ニハ癩病遺伝ノ家少ナカラズ」

高橋義雄『日本人種改良論』(1884年)

「明治四年穢多非人の称を廃し,平民に列せられて,常人と雑居するに至れりと雖も,祖先以来不潔なる生活に甘ぜし彼等の習慣は,清癖なる日本人種の擯斥する所となる,且や彼等は一村内近親結婚をなせし結果として,又丐社会の不潔なる食物を食ふ結果として,穢多乞丐間には往々癩病の血統あり」
「部落中に於いて相互に娶嫁婚姻し、倫道亦自然に紊れて殆んど同族結婚を重ね来り、一種の血統絶えず連続遺伝せられ、醜汗なる廃疾不具のもの交々相出で、両眼爛れたるあり、頭髪全く無きあり、口鼻全く腐れ落ちたるあり、尚ほ甚きに至りては四肢全く無きものさえありて、実に宛然たる怪物屋敷、人世悲境の極度と言うべし」
「近族結婚の弊として一種悪病の資質を有せざるもの蓋し稀なり」

森貞三郎「穢多と戦敗者」(1905年)

「癩病患者の生するは其源因確ならざれども近時専門家の唱ふる所によれば同族最近の血族結婚又は早婚或は花柳病患者の子孫等に多しと云ふ」

徳島県内務部編『特殊部落改善資料』(1910年)

高橋義雄は福沢諭吉門下の『時事新報』の記者であり、森貞三郎は古代史学者であるが、当時の世間に流布していた「俗説」を拾い集め、それを根拠として、こじつけとしか思えないようなもっともらしい自説を展開している。彼らは医学者ではなく、科学的あるいは医学的に検証しているとは思えない。どれほど実地に見聞しているかは定かではないが、いくつかの「部落」や周辺の集落からの「俗説」を基に、ハンセン病患者の症状が外見上に表れた容姿と、差別(周囲からの排斥)による劣悪な生活環境、貧困による栄養不良などを無理矢理に結び付けて、予断と偏見で書いたものである。
だが、記者や学者が断定的に書いたことで、「俗説」に信憑性が付加され、事実(真実)として人々に信じられて広まっていった。「俗説」が「定説」と化して「事実」であると一人歩きを始め、尾ひれをまとって、人々の口を通して広まっていく。「俗説」がさらなる「俗説」となっていく。

『部落解放研究』に掲載された宮前千雅子の論文「前近代における癩者の存在形態について」は,前近代におけるハンセン病者の実態を概観しながら,近代のハンセン病隔離政策を支えた「差別意識」の歴史的背景を明らかにしている。
特に,古代から近世までのハンセン病者がどのような存在として社会の中で位置づけられていたか,近世の身分制においては「穢多」「非人」身分との関わりはどのようなものであり,身分としてどのように社会的に位置づけられていたかを考察している。

光田健輔が「特殊部落調附癩村調」を実施した背景について,宮前は次のように述べている。

おそらく癩者を見つめる人々の眼差しは,…癩者と接点のあった「穢多」身分や「非人」身分に向けられたものと同質のものであったのではないだろうか。その眼差しが近代以降の部落差別につながっていったのと同様に,その眼差しがあったからこそ,そしてその眼差しが厳しかったからこそ,近代に入ってからのハンセン病者の徹底的な隔離政策も可能であったのではないか。 …「偏見と誤解」を生んだ背景に,近世における癩者と「穢多」身分,「非人」身分の接点があったとしたらどうであろうか。「穢多村」を調査すれば,かつてその支配下にあった「癩村」の実態がつかめる―そのような調査者側の認識が存在したのではないか。
支配者・支配構造・政治形態などは時代の変遷によって変わっていくだろうが,人々の認識や意識はなかなか変わるものではない。それが偏見や先入観であれば尚更だろう。差別意識が払拭されにくい理由の一つもそこにある。

宮前千雅子「前近代における癩者の存在形態について」

光田がハンセン病患者を救済したい,ハンセン病を撲滅したいと決意・実行したことは称賛すべきことであるとは思う。だが,その方法論に大きなまちがいがあった。その方法論の背景には彼のハンセン病に対する認識の中に差別意識がなかったとは言えないだろう。

(真宗大谷派僧侶)本多は、1912年9月より全生病院の教誨師となり、1913年3月から5月まで大谷派の命により、「全国の癩病療養所と私立癩病院と癩村とを視察して、西は鹿児島県より北は北海道に至る迄、大小隈なく巡歴せり。此際特に地方に於て癩病発生の病竈地えお調査し」、その結論として「一に落武者の土着せし者及び遠来の帰化人の土着せし特殊部落にして自ら他と婚姻を避けて血族結婚をのみ為せるを以て同族間に伝染したれども、幸に穢多と称せられて社会より度外視せられしを以て、社会に伝染する事少なかりき」と述べている。
本多がこの視察をおこなった当時、光田健輔は全生病院医長であった。また、本多の視察には全生病院長池内才次郎、同病院機関士中野辰蔵も同行している。院長の同行ということから、本多の視察は単に真宗大谷派の命ずるところだけではなく、全生病院の活動の一環でもあったと考えられる。そうであるならば、「癩病発生の病竈地」として被差別部落を特定する本多の報告は、ハンセン病患者の絶対隔離を目指す光田にとり、無視できないものとなっただろう。光田が全国の被差別部落の所在地を把握しておこうと考えたとしても、それは自然であった。

藤野豊『ハンセン病と戦後民主主義』

光田は自らが歩いた全国の「癩村」で患者から聞き取った「情報」を、さらに本多からの「報告」をより詳しく把握するために「特殊部落調附癩村調」の調査を実施したのである。一体、光田は何を確認したかったのだろうか。

一つには、絶対隔離のための「候補地」を確認するためであったが、二つには、「特殊部落調」でわかるように、被差別部落にハンセン病患者が多いという「俗説」を確認するためであった。しかも、1919年の「癩部落、癩集合地等ノ状況調査」では「現在癩患者ナキモ口碑伝説等ニ存スル癩部落、集合地等」も報告するように求めていることから、光田が「俗説」の確認をしたかったのではないかと考える。すなわち、「法規ニ依ル患者ナキモ古来ヨリ癩血統部落トノ風説アルモノ」として「婚姻忌避」されている「癩村」を調査することで、ハンセン病の「遺伝」説を確認したかったのではないだろうか。

光田は、ハンセン病を「感染症であって遺伝病ではない」と、「俗説」を一蹴することができなかったのではないだろうか。それほどに「癩血統」「婚姻忌避」の「俗説」が流布され、古来よりの被差別部落との深い関わりもあり、光田には「癩血統」「近親婚」を医学的・科学的に完全に否定することができなかったのではないか。それが「体質遺伝説」ではなかったか。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。