見出し画像

岡山の部落関係史:岡山藩3

ここでは岡山藩における「穢多」に関係するできごとを略年表にまとめておく。基本的には人見昭彦氏と大森久雄氏による略年表や史料解題に基づき、私が所有する『市政提要』や『藩法集』『岡山県史』『岡山部落解放研究所紀要』などを参考にした。先学に敬意を表するとともに、彼らの功績を埋もれさせてはならないと、むしろ後学のために残しておきたいと思っている。
ここでは、池田綱政(1672~1714)の時代に関する史料をまとめておく。


◯1675(延宝 3)
 「奥市谷乞食居所」を門田村の内におく(撮要録)

◯1676(延宝 4)
 和気郡藤野村の宗門改帳に「穢多」記載がみえる(万波家文書)

◯1683(天和 3)
 村々で「請酒」を密に売っている様子、乞食払の穢多どもは見つけしだい押さ捕るように命じる(法例集拾遺)
 穢多が牛を打つこと(生牛屠殺)を禁止(法例集)
 「百姓礼儀」の掟を出す(法例集)

「請酒之事」
一 在々ニて請酒乍御法度、しのひしのひに売申由ニ御座候、ケ様之ものハ乞食払之穢多とも、見合次第ニ押取候様ニ可非仰付候

(『藩法集1岡山藩下』)

「法例集」は、岡山藩の寛永以後から文政初期までの法令・規格を記録雑書より抜出し分類した史料であり、「法例集拾遺」は「法令集」の拾遺(書物に収録しそこなった作品・話などを拾い集めること)である。

「請酒」とは、造り酒屋から仕入れて請け売りをする小売りの酒のことである。藩が穢多に禁制違反者を取り締まりにあたらせていることがわかる。

一 穢多共牛を打申事弥停止之事

(『藩法集1岡山藩上』)

穢多による生牛屠殺が改めて禁止されているが、なぜこの時期にこの法令が出されたのか、解釈が難しい。大森久雄氏は「この時期、改めて禁令が出されたのは藩支配層が穢多に注目しその統制を強め、穢多にのみ弊牛馬処理権を認める慣例を強調したためであろう」と推察している。また、弊牛馬処理権に関しては、次のように述べている。

弊牛馬処理権は藩が穢多に認めた役目の1つである。落命した牛馬を百姓から穢多が無償で引き取り、処理し皮・角・肉等を細工し売りさばいた。これが①百姓の損失が穢多の利益になる、②百姓が与え穢多がいただく、③死や血にまつわる穢󠄀れを穢多がかぶる諸点で農村での日常生活で百姓と穢多との上下関係をつくりあげた。

(「岡山県の部落問題歴史年表」)

従来より、特に「近世政治起源説」や「貧農史観」「階級闘争史観」などから結論づけられた考察であるが、現在の進展した研究からは疑問を感じる。
「牛を打」が「生牛屠殺」かどうか、そうであれば「生牛屠殺」が行われていたから「停止」を命じられたのである。「停止」であって「禁止」でないこともきにかかる。では、「生牛」はどのように入手していたのだろうか。穢多に買うだけの財力があったのだろうか。(津山藩では穢多が牛馬の売り買いをしていた史料があるが…)

この史料だけで「穢多に注目しその統制を強め」たと断定することはできない。私は、この史料は「生牛屠殺」をやめさせることが目的であり、「牛馬耕」や「荷運び」など家畜として大切な(必要な)牛馬を(年貢増収のためにも)確保すること(牛馬の不足や高騰を防ぐ)が理由であったと考える。

上記の大森氏の言う①・②の理由から弊牛馬処理をめぐって百姓と穢多の間に「上下関係」が生じるというのも短絡的である。皮革業の技術のない百姓が、弊牛馬の皮を剥いで粗皮にして売るだけ(収益は少ない)をしたいと思うだろうか。むしろ、③の理由により、百姓は穢多を排除したり排斥したりしたと考えている。
重要なのは、権力者(支配者・統治者)による巧妙な統治(支配)政策であり、民衆の差別意識である。権力者による一方的な差別政策・分断政策ではなく、民衆の差別意識もまた存在し続けてきたことである。

◯1685(貞享 2)
 熊沢蕃山が「されば出家は、よき分が、死たる者の皮を取り集めて富貴とす、穢多をきたなしといへども、それよりも猶まされり…大穢多ならずや」と僧侶を批判する(蕃山全集)

◯1687(貞享 4)
 諸郡の穢多が犬を殺しに岡山城下町へ出向くことを禁止(法例集)
 嵐山角右衛門、浅口六条院東村より御野郡竹田村へ移り「目明し役」を務める

◯1689(元禄 2)
 小商人が定の売物以外を持参したとき、肝煎作奉行が押え取り村へ預け穢多へ遣すよう命ずる(法例集)
 邑久郡幸田村百姓忠兵衛、年貢米隠し置きのため入牢中を国中引廻し。穢多が同行、翌年に処刑(則武家文庫)

  穿鑿留廿六番
一 幸田村忠兵衛此者御年貢米少払、残分隠置、御代官吟味之節透と無之由申切候付、屋さかし仕候得は、御年貢米に余り候程俵数大分隠置候付、卯十二月籠舎、巳十一月廿一日より御郡々引渡又籠へ入、午三月廿一日御成敗、
一 巳十一月廿一日より廿四日迄、御野・上道口分村々日帰ニ引渡、
 右御奉行御徒岸九八郎御足軽十人・小頭一人・棒突百姓十人宛村送、
一 同廿五日より津髙・赤坂・岩梨・和気・邑久・上道奥、泊所富原・建部・市場・町苅田・津原・金谷・伊部・鹿忍・西隆寺村
 右御徒岸九八郎・松山惣四郎御足軽十人、小頭一人・棒突百姓十人宛村送、
一 泊所々にて不寝番百姓十人宛添番、
一 右御徒弐人へ大役人四人被下、
一 同在より賄軽ク一汁二菜、下人へ一汁一菜、
一 御足軽へ荷持大役人一人被下、自分之相夫も召連参、
一 同小頭共一汁一菜、
一 囚人穢多共ニ在賄一汁一菜、
 右何も昼は焼飯ニシテ、前泊りより持参申付ル

元禄初め、幸田村百姓忠兵衛が年貢米の残りを隠したことを咎められて処刑(1690)された事件である。相当に広範囲な村々を引き回していることがわかるが、年貢米の確保を目的とした「見せしめ」であろう。引き回しや籠入れ、夜中の番などに穢多を使った記録であるが、御徒や足軽・小頭など下級武士(役人)だけでなく村々より百姓も動員され御用を務めている。

◯1690(元禄 3)
 穢多にあやしい小屋などを見つけたら申し出るよう命じる(法例集)

〇1693(元禄 6)
 上道郡土田村百姓新九郎、年貢不足米等を隠したため御野郡等を引き廻し、籠舎。穢多同行

◯1695(元禄 8)
 上道郡沖新田の掃除場を竹田村の角右衛門に与える(撮要録)

◯1698(元禄11)
 竹田村の嵐山角右衛門が岩田町へ引越した件につき、それを嫌った家持たちに町奉行が「穢多の所作致さず」と注意する(市政提要)

一 竹田村角右衛門岩田町え引越候義、岩田町家持共嫌候て、往来之人角右衛門居申ヲ聞候ハゝ、茶屋なとへも立寄申間敷、其上何角指支申様ニ申候、先年より石塔屋・荒革屋など町方ニ居申候得共、別に嫌申事も無之候、角右衛門事ハ穢多之所作致さす候得ハ、嫌ひ申筈にてもこれなく候、引越申以後指支申儀有之候ハゝ、嘆申上候共被仰付候義、はや嘆申上候段推参ニ候、家持共ニ何廉不申候様申付候得と三間屋勘兵衛え申渡候

(「市政提要」)

ここでいう「穢多之所作」とは何か。
「所作」を辞書で引けば、いろいろな意味を持つが、大別すれば、① おこない。ふるまい。しわざ。所為。所行。② 仕事。生業。職業。である。ここでは、仕事・生業と考え、穢多固有の役目(負担)であることから、弊牛馬処理あるいは捕亡・処刑に関することと推察できる。
角右衛門は穢多の上層出身であり「穢多頭」であることから、穢多の支配・統率(監督)を行う立場で、自らが弊牛馬処理を行うことない。ただし権利は有していた。このことから、「角右衛門ハ穢多之所作致さす候得ハ」ということになる。
また、この史料を逆に読み解けば、家持ら町人が穢多を嫌っていた「実態」が証明できる。その理由が「穢多之所作」であることも明らかとなる。つまり、居住区域が異なっていれば、直接の交わりがなければ問題はないが、同じ町内に居住することは「嫌」(拒否)である。このことから、「ケガレ」への拒絶、自分たちとは異質な存在(人外)という認識があり、交われば「ケガレ」に触れてしまうという考えからであると推論できる。

◯1702(元禄15)
 万成の磔の取り捨てについて、次郎九郎・新兵衛が国守の多左衛門と争論。町奉行は穢多にやらすという(市政提要)

かわた(穢多)である国守村の多左衛門が万成での「磔」(処刑)の後始末(死骸取り片付け)の役目を拒否している。その理由として、多左衛門は罪人の処刑・拷問は「穢多」の役目であると主張し、おんぼう(非人)である次郎九郎は磔・獄門・断罪・火罪の者の取り捨ては乞食(非人)の役ではなく穢多の役であると主張して対立した。

やむなく乞食(非人)頭の次郎九郎が配下の乞食に頼み、乞食は二度としないと言いながら取り捨てている。

◯1704(宝永 1)
 津高郡上加茂村穢多次郎兵衛らが乞食払いで村廻り中に山伏と乱闘。一人殺害(池田家文庫)

◯1707(宝永 4)
 嵐山角右衛門へ遣す米は郡割。非人留給は村割(法例集)

◯1708(宝永 5)
 国守村穢多頭屋敷・御野郡西古松説教屋敷の年貢免除(撮要録)
 嵐山角右衛門の使っている穢多への給米を決める(法例集)
 岡山城下町が火事のとき、牢舎作廻に穢多50人を動員すると決める(法例集)
 「丹波守様御知行所備中窪屋郡小位庄村御百姓帳」に、穢多50軒、人数535人、牛13疋、馬1疋が家族ごとに記載されている(池田家文庫)

◯1712(正徳 2)
 嵐山角右衛門が死んだので、角右衛門の持っていた上道郡沖新田東西の落牛取捨を神下村などの穢多が譲り受けたいと要望。藩はすでに国守村の多左衛門へ売っていて、多左衛門のものと返答(撮要録)
 穢多・隠亡の役目を確定(穢多は罪人の作廻・死骸取捨・番等死罪一切、隠亡は行倒れ等の死骸片付けなど)(市政提要)

  穢多おんぼう共え可申聞口上
一 只今迄罪人之作廻并死骸片付又ハ番等仕候儀ニ付、穢多おんぼう共互に取捨等之儀ヲ何かと申書付指出し候付、大坂表之趣承合候上を以、向後左之通か相心得候
一 罪人之作廻并死骸取捨又ハ番等仕候義、共ニ一切刑罰被仰付候分ハ穢多とも相勤可申事
一 行倒れ逆死人有之候節、死骸片付ケ之儀并番仕候儀、又は牢屋ニて無縁之者致病死候節之取捨、一切おんぼう共相勤候事
 右之外ニも勤来り之儀有之品は仕来り之通ニ心得、御用指支不申候様ニ相勤可申候、以上
  辰九月
 右は御郡代・町奉行伺之上、両方え十一月三日申渡ス

(「市政提要」)

1702年以来(それ以前より)、穢多とおんぼうの間で処刑役(死骸の取り片付けなど)をめぐる対立が続いていた。この史料から、その決着がつけられたことがわかる。
岡山藩は、刑罰関係の役目(負担)を穢多に限定し、おんぼう(次郎九郎に統制された非人)はそれ以外の死骸取り片付け等と決めた。
これより、岡山藩における「穢多」と「非人」の棲み分けと分担が明確に決められ、両者が互いに(「別の存在」として)意識はしても、共闘することはなかった。(「渋染一揆」は穢多による闘争である)

以上から、岡山藩においては、穢多の役目は①弊牛馬処理、②目明し役、③処刑役であることがわかる。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。