光田健輔論(13) 権力と人権(6)
1916年5月11日、全生病院は、北海道庁および各府県に対して、市郡体位で「私宅療養癩患者調」の実施、さらに翌12日には「特種部落調附癩村調」の実施を依頼している。この調査に関しては、藤野豊氏が詳細な分析と考察をしている。私も藤野氏の論考をもとに、私見を述べている。
ここでは、藤野氏の『ハンセン病と戦後民主主義』ならびに関連論文を参考に、光田健輔の考えと動きについて検証してみたい。つまり、自らの主張である<絶対隔離>の必要性と正当性を裏付けるための調査であると同時に、その調査結果に基づいて政府や厚生省に強く働きかけることで、自らの社会的立場(ハンセン病対策の第一人者という権威)を確立していった。
なぜ「特種部落」と「癩患者」「癩村」を同時に調査する必要があったのか。部落差別とハンセン病の関係について、藤野豊氏は「部落問題をめぐる差別の連鎖」(『福音と世界』2022年3月)に、次のように述べている。
少し余談になるが、本多慧孝のハンセン病患者に対する「認識」を例に、当時の療養所の職員がハンセン病者をどのように見ていたかについて、藤野氏は次のように述べている。
藤野氏が言うように、当時の療養所は患者にとって監獄に等しいものであった。全生病院初代院長池内才次郎や外島保養院長のように、所長や職員のほとんどが警察官出身者であり、患者に対する対応も犯罪者扱いに等しいものであった。実際、池内は就任に際して「どの程度にお前達を扱ってよいかさっぱり未だ分からぬ。兎も角、監獄より一等を減じるという位にやって行く」と患者に述べたという。
因みに「禽獣」とは、鳥や獣の意味であり、要するに自分たちと「同じ人間ではない」という意味である。この言葉は、明治以前の穢多や非人などの賤民や明治以後の被差別部落民に対しても用いられた賤視・蔑視の際の表現である。
本多は、将来に対する絶望感から自暴自棄になっているハンセン病患者の様子、あるいは世間から見捨てられ排斥された状態、物乞いなどでその日を辛うじて暮らす浮浪者となった姿などから、「精神的堕落」「哀れな心的情態」と感じ取って「禽獣」と思うに至ったのかもしれない。
しかし、全国を歩いて実際に調査する中で、そのような悲惨なハンセン病者を多く目にしたのは事実だとしても、また当時のハンセン病患者に向けられた社会的認識がそうであったとしても、「禽獣以下」との表現で「癩患者は死亡に依って、癩菌は絶滅」できるという発想は許せない。その後、本多のような考えがハンセン病対策の中心となっていく。本多の影響は少なからず光田健輔にも及ぼしたであろうゆえに、ハンセン病患者を感染源として、絶対隔離と断種の果てに「癩菌」を根絶させる発想が生まれたのである。
光田は東京市養育院の医官であったとき、「癩村」の調査を自ら出向いて行っている。
光田は近県だけでなく遠くは「ライの多いといわれる愛知県の知多半島、四国三十三ヵ所や四国遍路の順路などを尋ねて回ったが、熊本ではリデル女史の『回春病院』に滞在して、有名な清正公のライもつぶさに調査した」という。
「養育院に奉職してからまる四年」の歳月を費やして「全国のライ部落行脚」を行った光田が、なぜ「私宅療養癩患者調」および「特種部落調附癩村調」の実施を行ったのか。
それは<絶対隔離を図る>ために、可能な限り実態を把握しておく必要があったからである。
「癩予防ニ関スル件」は1907年に成立し、2年後の1909年4月1日より施行された。この法律により、全国を5区に分け、第1区・全生病院(東京・定員350名)、第2区・北部保養院(青森・定員100名)、第3区・外島保養院(大阪・定員300名)、第4区療養所(後に大島療養所・香川・定員170名)、第5区・九州療養所(熊本・定員180名)の療養所が開設された。しかし、当時は約3万人と数えられていた(光田5万人と想定していた)全国の患者数からも、5療養所の定員合計1100人では総数の約4%程度である。しかも、療養所は国立ではなく、それぞれの地方の連合道府県立であった。日清・日露戦争を経て軍国主義国家へと邁進する政府には軍備拡張のために財政をまわさなければならず、そのために財政負担を道府県に押しつけたのである。さらに、この法律が対象としたハンセン病患者は自費で療養できない、つまり浮浪患者である。
光田は1915年、内務省に「癩予防に関する意見」を提出している。この意見書で、光田はすべての患者の絶対隔離を強く求めている。藤野氏の要約を引用する。
光田は、全国5区の療養所では満足できず、執念ともいえる熱意で<全ての患者の収容>を目指して「意見書」を提出し、その根拠を得るために「調査」を実施依頼したのだ。
だが、「私宅療養癩患者調」「特種部落調附癩村調」の調査結果は光田の期待した結果だけではなかった。各府県からは「癩村」=癩患者の多数集住する地区という理解による調査報告であった。そのため、内務省の保健衛生調査会の委員(ハンセン病を扱う第四部)に任じられた光田は、さらなる調査の必要性を訴え、同部として「癩患者ノ総数、病状、年齢、職業別資産ノ有無等」や「癩患者ヲ隔離スルニ適当ト認ムル土地調査」を行うことを決議し、調査を続けている。
1919年6月、地方長官に照会して「癩部落、癩集合地等ノ状況調査」を行うことを決定し、11月に実施している。この調査では、光田が行った1916年の調査では不十分であった「癩村」に関するデータを集めるため、「癩部落、癩集合地」だけでなく「現在癩患者ナキモ口碑伝説等ニ存スル癩部落、集合地等」も報告するように求めている。これは、現時点でハンセン病患者がいるかいないかに関わらず、歴史的に「癩部落」として周囲から認識されていたかどうか(「口碑伝説」)を調査することを目的としている。藤野氏は、光田のねらいを「単に患者が多数居住する『癩村』だけではなく、…『癩村』=『癩血統部落』についても所在地を知りたかったのではないか」と推測している。
1920年、この調査は、内務省衛生局調査課編『各地方ニ於ケル癩部落、癩集合地ニ関スル概況』としてまとめられた。その概要を藤野氏は表に示している。(『ハンセン病と戦後民主主義』)
その一部を紹介しておく。
この調査で明らかになったのは、「癩村」=「癩血統部落」の存在である。周囲の部落が特定の「地区」を「癩村」とみなし、各地域によって日常の「社交関係」(付き合い)は異なるものの、「縁組」に関しては「忌避」している。これは、ハンセン病が長く「遺伝病」と考えられてきた結果である。
事実、私も部落問題に関わって西日本各地を訪れたが、「癩筋(スジ)=癩病の血統」「癩の家系」という言葉を幾度も耳にした。「縁組」に関しても「嫁の来手がなく絶えた」などの話も各地で聞いた。
ハンセン病が感染症であることが明確に承認されたにもかかわらず、なぜ光田は「癩村」にこだわったのか。全国のハンセン病患者の所在地と地域別患者数を正確に把握するためであれば、「口碑伝説」も含めた「癩村」の存在把握は不要である。
光田の目的は「癩の根絶」である。日本から「癩」を絶滅することである。「癩」とは「癩菌」であり「癩患者(ハンセン病患者)」であり、「癩村」であった。それは、現在も未来も、未来永劫に絶滅させることである。そのためには、発症しているハンセン病患者だけではなく、ハンセン病に罹患しやすい要素(素因)をもつ人間もまた対象であった。つまり、ハンセン病に罹患しやすい体質をもつ人間、その体質は「遺伝」すると考えていた(体質遺伝説)からだ。それを実際に歴史的に確認するための調査であったと考えれば辻褄が合う。
そして、同時期(1915年)より光田が開始したのが「断種」「中絶」である。ハンセン病に罹患する可能性(罹患しやすい体質)を排除するための「断種」である。
権力は、国家をハンセン病から防衛・予防するために、ハンセン病患者の子孫を残すという「人権」を有無を言わさず奪ったのである。
私がこの私論で追究しているのは、ハンセン病問題を通して、権威・権力がいとも容易く人権を踏みにじることができるということである。人権とは、人が自分らしく幸福に生きるための権利であり、万人に共通の権利である。決して誰かには許され認められるが、誰かには許されず認められないものではない。にもかかわらず、社会・国家という<公共性>の前では、個人の人権など吹き飛んでしまう。果たしてそれでよいのだろうか。その<公共性>を「大義」と置き換えて、「権威」を付与された人間が、<大義>の達成のために<手段>という「権力」を自由に行使することができれば、個人の<人権>などは消えてしまう。ハンセン病患者に対する人権蹂躙の非道を甘受した者たちのことを、光田健輔ら絶対隔離政策を推進してきた者たちは記憶にも残していないだろう。それが「権威」であり「権力」の正体である。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。