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光田健輔論(1) 独善性

私は他者の人格や人間性を軽率に批判することは愚かしいと思っている。
その人物を論じるならば、少なくとも著書や論文、その人物に関する論評や評論、さらに自伝・伝記の類いを詳細に読み解いた上で、彼の生きた時代背景を検証して関係や影響を明らかにし、さまざまな視点から検証して考察すべきである。

これから光田健輔を論じるに際して、彼の自伝(回想・随想)である『回春病室』と『愛生園日記』及び彼に関する記述や論考には一応は目を通したが、それらによって彼の人格や人間性を批判することを「目的」とする気はない。まして光田の功罪を列挙して単純に批判する気もない。そのような論考はすでに多く書かれている。
ハンセン病問題の元凶は光田健輔および彼によって考え出された政策や手法にあることは疑いようもない事実である。しかし今更、死んだ人間についてあれこれと批判しても始まらない。

私の目的は、光田健輔を通してハンセン病問題の核心を明らかにすることである。ハンセン病問題の歴史的背景と関わった人間それぞれの思惑(立場・役割・意図・忖度など)による言動とその影響が相互にどのように連関しているかを検証することである。
ハンセン病問題は「国家の犯罪」であると言われるが、その国家を動かしたのは人間である。法律を制定したのは人間である。


栗生楽泉園に設置された「特別病室」(重監房)を「日本のアウシュビッツ収容所」と呼んだのは谺雄二さんであるが、ハンセン病問題を調べれば調べるほどに、ナチスによるユダヤ人迫害の構図と似ていることに気づく。この類似性はどこからくるのか。私には人間の自己中心性、自己主義がその根源にあるように思えてならない。

ハンセン病患者を排除・排斥・隔離する思想的背景に優生思想や人種主義があることは、藤野豊氏や黒川みどり氏などによる詳細な研究で明らかである。私が問いたいのは、それを信じ込み、それに基づいた排除・排斥の究極の形態として「終生絶対隔離」を推進し続けた「独善性」であり、他者の意見や国際的な見解に耳を貸そうともしなかった「頑迷さ」である。
その光田健輔に翻弄された周囲の人間もまた責任がある。ハンセン病問題の元凶が光田であっても、彼一人に責任を求めるべきではない。彼に「権威」「権力」を与え支持した人間、彼に盲従した医師たち、彼の権威を借りて患者を抑圧した施設職員たちの「人間としてのあり方」も考察しなければならない。

ここで重ねて言う。光田はやさしかっただろうか。光田は絶対隔離のために猛進し、しかも恐らく、それを一代のうちになし遂げたいと願ったろうが、そこの誤りに早く気付いていれば、よい医者でありやさしい医者でもあったに違いない。それにしても、外出や逃走を黙認し旅費まで手渡したのが、必ず戻れというサインだったとすると、絶対隔離を願うあまりの自己中心的な行為ともいえる。

成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』

本書の中で成田氏は、光田健輔に関する逸話を多く引きながら光田の人間性にまで踏み込んで考察している。「余談かもしれないが」と断りながら、次のような逸話を書いているが、成田氏の本音と私は思う。

…光田の絶対隔離への執念は偏執的だったように思える話もある。光田の四男(三男)横田篤三によると、父の入浴は最後だった。病院で消毒して帰宅しても、どこかに癩菌が付着しているとも限らず、家族に伝染させてはならないという配慮からだと追憶している。光田が思ったように、癩菌が付着していないとは断言できないにしても、これほどまでに癩菌の存在を恐れるのはやはり異常といえる。

同上

続けて、次のように結論を下している。

要するに光田は、対人的には、すぐれた物覚え、するどい気付き、そして涙もろさなどといった本質的な性向をよく現し、対社会的には癩の病理に対する脅迫的な恐怖感から、完全主義的かつ非情な絶対隔離を唱道して止まなかったといってよいだろう。例外はあっても、一般か患者かにかかわらず、光田との直接なかかわりを持ったものと、間接的にしか知らないものとで、光田の評価に大きな差があるらしいのは、このあたりに基因するのかもしれない。

同上

光田の本質をよく捉えていると思う。光田の自伝的回想などを読むと、案外と単純でわかりやすい人物なのかもしれない。直情型であり、好き嫌い(自分に従順かどうかが基準であるが…)が激しく、依怙地な人間であると思える。だからこそ、信念を曲げることなく、誰の声にも耳を貸さず、己の信ずることに邁進したのであろう。信念と情熱の医師であったことは事実であろうが、逆にそれが我が国のハンセン病対策を大きく歪ませ、何十年も遅らせることになったのである。


本書に成田氏は「<光田イズム>再考」と題した一項を書いている。成田氏の「再考」を基に、<光田イズム>を明らかにしてみたい。

成田氏は「<光田イズム>とは、光田による絶対隔離のための癩療養所の基本的な運営理念」であると定義している。

<光田イズム>を、光田自身の論説(『光田健輔と日本のらい予防事業』)から拾って並べると、次のようになろう。
「癩の予防は絶対隔離に近づくほど目的を達するのは明らかであり、たとえ軽快・治癒したと思わせても院外の不規則な生活によって直ちに再発する。それに一旦癩と診断されたものは家庭も社会も歓迎しない。むしろ同病相憐の精神をもって家族的療養所を建設し、ここで終生を過ごすのが最もよい。それを人権侵害というかもしれないが、個人の人権を守る以上に人類全体の福祉が優先する」

同上

成田氏は長島愛生園の入所者島田等氏の<光田イズム>について述べた一文を引用している。的確な指摘なので、孫引きになるが転載しておく。

…<光田イズム>なくしては絶対隔離の想定もむつかしかったろう。様々な矛盾と軋轢が、<光田イズム>の根底を揺るがすほどの反発にならなかったのは、主に、癩の病状から受ける社会の反応に患者は抵抗力を殺がれていたからであり、それに患者の多くが光田イズムを承伏していたかのような時期もあった。ただ、隔離中心の<光田イズム>は、社会からの患者の抹殺を医学の名のもとに主張したが、この世に自らの病の治癒を願わないものはいないし、それに隔離の強行は逆に逃亡を仕向けることになって、早期診断と早期治療を目標とする医療のあり方に背いてしまう。

島田等『病棄て 思想との隔離』

同じく入所者の立場から「光田健輔論」を展開した野谷寛三氏の指摘を、孫引きで転載しておく。

…祖国浄化の真意は、癩患者の根絶であって医療は第二義的だった。…いつの頃からか、癩患者にとって癩療養所こそが唯一の安住の地とわかってきたが、ここで患者の倫理観が成立しわけではなく、それには光田理念と光田の親心とが密接に絡み、さらに貞明皇后の仁慈に恐懼感激した情念も加わっていた。…患者は祖国浄化の闘士であり、一身を犠牲にして民族を癩から守ること、そこに療養所に生きる意義があるという光田の論理による。しかしこの論理の欺瞞性は、一身を犠牲にする、つまり患者自身の存在が無価値になるところにあり、それは一般社会の安全のための手段的価値でしかなく、これでは癩患者の最高善は自殺ということになってしまう。

野谷寛三「光田健輔論 ライ療養所社会の論理」

この2人の入所者の発言は重い。当事者である彼らが<光田イズム>をどのように受けとめていたか、当事者であるからこそ感じてきた「賛否両論」が端的に表されている。島田氏の「癩の病状から受ける社会の反応」が、野谷氏の「癩患者にとって癩療養所こそが唯一の安住の地」と思わせたのであり、その療養所を造った光田健輔の「親心」に感謝する患者は多い。特に、初期の頃は「浮浪患者」がほとんどであり、彼らは各地を転々としながら日々を物乞いによって食いつないでいたのである。流転生活よりも衣食住のある療養所の方がどれほど満たされたであろうか。何よりも世間からの排除、社会の冷酷な仕打ちに比べれば、差別や偏見に晒されなくてもよい環境はどれほど心が落ち着いたことであろうか。実際、私が接してきた入所者の方々からは「救われた」という思いを多く聞かされた。

反面で、「絶対隔離を国策に結びつけ、患者に自らを犠牲にするように教えたのが<光田イズム>であ」(成田『前掲書』)ると、人間として当然の「権利」と「自由」を奪ったことへの激しい怒りを持ちながら死んでいった者も多い。

ここで考えるのは、彼(光田健輔)が善人だったか否かというような「人物」の評価ではなく、彼が日本のハンセン病政策に関わるなかで行った「行為」の評価である。なかでも特に注目したいのは、光田健輔という一人の医師によって、国政策のおもだったアイディアが発想されたことである。
特に重要なのは、「強制隔離」「強制労働」「断種」「懲罰」という、日本のハンセン病政策の核心であった四つの強権的な制度である。この四つは、いってみれば医師や医療行政に関わった人たちが手にした強大な「権力」であり、それによって患者たちの「人権」は著しく侵害された。これらは、いずれも光田のような第一線の医師たちが唱道し、政治的に働きかけて制度化に成功し、自らの手で患者に対して実践したものだった。この四つの権力の組み合わせが一連のものとして制度化されたのが、日本のハンセン病政策だった。患者を「強制隔離」し、療養所で「強制労働」をさせ、子どもを作らせないように「断種・堕胎」を行い、反抗的な患者には「懲罰」を与えるー。

宮坂道夫『ハンセン病 重監房の記録』

以前にも宮坂道夫氏の一文を引用して私見を述べた。再掲しておく。

私も同感ではあるが、調べれば調べるほど、光田健輔という人物の思考や判断、さらには「頑迷」な「独善性」がハンセン病問題の元凶を生み出したと思えてならない。彼の思考の根底には、自らの「行為」を「正当化」するための論理、すなわち<目的のために手段を正当化>できる、<大義のために>犠牲はやむを得ない、という論理があった。

日本からハンセン病を根絶するという、社会から排除・排斥され苦しんでいるハンセン病患者を救済するという<目的>と<大義>のため、彼は自らの思考と判断に確信をもって<手段>を正当化したのである。

何度この宮坂氏の一文を読み、あるいは他のハンセン病問題に関する本を読みながら思い返したかわからない。それほどに、この一文は衝撃的であり、光田健輔の「罪過」を端的かつ正確に言い当てている。だが、この四つの根源的な思考は一つに集約される。それは<癩の根絶>である。

誰の本であったか、神谷美恵子さんの本であったか、光田が白衣も着ず手袋も着けずに患者を診察しているのを見て驚くとともに深い愛情を感じたという一文を読んだ気がする。似たような話を他書でも読んだ気がする。光田が気さくに患者に話しかけたり、手を置いたりする姿に、ハンセン病を恐れない勇気、医者としての気骨、患者への深い同情…賛美と尊敬をもつ逸話として語られていた。しかし、先に引用した光田の三男横田篤三氏が述べている逸話に象徴されるように、本心は「癩への異常な恐怖」であったと思う。光田ほど、長きに渡りハンセン病と直接に関わり続けてきた医師はいない。何千体と解剖し、毎日顕微鏡を覗き込んで癩菌の蠢きを目にしてきた医師である。ハンセン病を知り尽くしてきた医師である。だからこそ、本心は「恐怖」であった。だから、家族を守りたかったのだろう。そしてハンセン病の専門医であるという人一倍の自負心が家族からの発症を恐れたのだろう。

すべての患者を<終生絶対隔離>することで「ハンセン病の感染源」を封じ込める。一人も療養所から出さず、すべての患者を「収容」する。そのための予算と職員が不足すれば、患者自らに<強制労働>をさせる。逃走や反抗を防ぐために、見せしめを兼ねた<懲罰>を与える。この世から「感染源」を完全に断ち切るために<断種(堕胎)>を行い、子孫を断つ。すべては「癩の根絶」という目的のため、<絶対隔離>を完遂するためであった。

私が歴史の教訓として未来に向けて「史に刻み込む」べきであると思うのは、光田健輔の「独善性」と、彼を批判できなかった周囲の人間の「黙認」であり、権威や権力というものの恐ろしさである。

私が尊敬する林力氏が述べる、次の一文が心に突き刺さる。

このような法(「らい予防法」)の制定と長期間の存在を許したのはわたしたち国民の人権意識の乏しさである。そして、法の存在そのものが国民の「らい」への偏見と差別、それを支える無知をさらに増幅させた。国家権力は、それを利用し、拡大すらしてきた。
権力を背景として民衆にのしかかってくる人間の愚かしさを教えられた。エイズをめぐる問題でも同じだが、社会的に高い地位や栄誉をもった人間であればあるほど、権力を背に、民衆の前に立ちはだかるとき、たとえその人の個人的な善意努力を認めるとしても、歴史的にはとりかえしのつかない過ちをおかしてしまうものだ。その時、犠牲者はいつの世でも名のない民衆であり、社会的弱者である。

林力『父からの手紙 再び「癩者」の息子として』

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。