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「重檻房」に学ぶ(1) 絶対隔離の象徴

今夏、積年の悲願であった、群馬県吾妻郡草津町に位置する国立ハンセン病療養所栗生楽生園に隣接する「重檻房」を訪ねることができた。

ハンセン病問題に関わるようになり、「重檻房」の話を聞き、「とがなくてしす」「日本のアウシュビッツ」を読んでから40年近くが過ぎてしまった。今更のように、もっと早く訪れるべきであったと後悔している。
本や写真で見るのと、現地に立つのとでは、ここまでちがうのかと、胸に迫るものを強く感じた。大きさ、広さ、周囲の状況など、現地でなければ知ることはできない。
何よりも、「重檻房」に入られ、この地獄を何ヶ月も絶望の中で過ごした人々の無念を思うと、憤りだけでなく、さまざまな思いが脳裏を過った。「重檻房」には、国家のハンセン病政策、その本音が集約されている。それはまさしく、谺雄二さんが言い表した「日本のアウシュビッツ」である。

重檻房資料館」のHPより転載する。

「重監房」とは、群馬県草津町にある国立療養所栗生楽泉園の敷地内にかつてあった、ハンセン病患者を対象とした懲罰用の建物で、正式名称を「特別病室」といいました。
しかし、「病室」とは名ばかりで、実際には患者への治療は行われず、「患者を重罰に処すための監房」として使用されていました。
ハンセン病隔離政策の中で、多くの患者が入所を強制されたこともあり、患者の逃亡や反抗もひんぱんにおきました。このため、各ハンセン病療養所には、戦前に監禁所が作られ、「監房」と呼ばれていましたが、この特別病室は、それよりも重い罰を与えたという意味で通称「重監房」と言われています。
重監房は昭和13年(1938年)に建てられ、昭和22年(1947年)まで使われていました。この、およそ9年間に、特に反抗的とされた延べ93名のハンセン病患者が入室と称して収監され、そのうち23名が亡くなったと言われています。60年以上を経た現在、この建物は基礎部分を残すのみとなっています。監房への収監は、各療養所長の判断で行われていました。これは、ハンセン病療養所の所長に所内の秩序維持を目的とする「懲戒検束権」という患者を処罰する権限が与えられていたからです。正式な裁判によるものではなく、収監された患者の人権は完全に無視されていました。

「重檻房」への投獄を簡単に命じた園長や職員、傍観していた職員、大義名分ばかりの無関心な政治家…あらためて彼らの姿を通して、我々が学ぶべきことは多い。


自宅に帰り、早速に知人よりいただいた『ふれあい福祉だより』(21号)を読んだ。
宮坂さん、藤野さん、黒尾さん、関さん、それぞれに的確な視点からの解説と提起である。あらためて「重檻房」設置の歴史的・思想的・政治的背景を検証すべきであると痛感した。
ただ「凄惨なできごと」が残るだけの「過去の記念碑」のような資料館や活動であってはならないと思っている。何より他人事、終わったこと、そして忘却では、同じことが繰り返されていく。
以前は「ハンセン病とは何か」を正確に伝えることが授業や啓発の目的であった。それでは不十分であると前々から思ってきた。

将来に向けての検証すべきは、「なぜ絶対隔離政策が行われたのか」をさまざまな視点から考察し、「なぜ長年にわたって継続されたのか」、「なぜ檻房・重檻房がなぜ作られ、運用されたのか」を、光田健輔の思想や人物像、彼の弟子たちの「忖度」などから検証すべきであると考えている。
特に光田健輔と彼の弟子たち(各療養所所長)の関係、光田の存在が彼らに「免罪符」を与えると同時に、光田への「忖度」が深く影響しているように思う。大なり小なり、権威や権力が引き起こす人権侵害には同様の背景があるからこそ、同じ悲劇が繰り返されているのだと思う。

「見せしめ」として重檻房に15名も送った長島愛生園園長であった光田健輔、それに「忖度」あるいは「忠実の証」として送った他の療養所所長(園長)たち、さらに各療養所の職員、関係した者たち、彼らは患者を<人間>とみていなかった。自分に反抗する「敵」「異分子」であり、自らの「正義」にとっての「邪魔者」であり、逆らう者でしかなかった。
だから残酷な行為も非人間的な扱いも、管理する側の人間には平気であったのだろう。「目的のために手段を正当化する」論理こそ人間を狂わせてしまう。この論理が自己正当化のため使用されたのである。


絶対隔離政策については、ハンセン菌が発見される前、プロミンが発明される前、その後の3段階で、特に光田の意向と国家の対応を考察する必要を感じている。私は、やはり光田健輔の意向が大きいと思っている。

重檻房に入れる理由ばかりに注目されているが、出された経緯や理由について、楽泉園の所長が決定を下したとは考えていない。送ってきた先の療養所所長、さらに光田健輔への「お伺い」があったのではないかと推察している。何も証拠は残っていないけど、光田の考えや動きを見ていて、そう思う。

「重檻房資料館」には、重檻房に入れられた人々の「収監者の記録パネル」が掲示され、「証言映像ブース」には入所者が実際に見聞してきた「重檻房」に関わる証言を知ることができる。
生々しい遺品、理不尽な収監、残虐な扱い、なぜこのような非人道的な行いがなされてきたのかを考え込んでしまう。

私は、現地で重檻房を見る中で、光田を含めて他の所長たちは実際に見たことがあるのかと疑問を感じる。どのような「報告」が光田や所長たちになされていたのだろうか。
光田健輔の「人物」については、愛生園の入所者においても評価は大きく二分される。私が実際に聞き取った中でも、彼に救われたという方もいれば、彼を厳しく非難する方もいる。
私は光田の考えの背景と影響を検証する必要を感じている。なぜなら、同様の人間は今もこれからも現れてくるだろう。

宮坂道夫さんが『ハンセン病 重檻房の記録』で、光田について考察をしているが、私は光田という「権威」「権力」を個人として考察する以上に、光田が与えることになった「免罪符」こそが重檻房を生み出し、運用させたのだと思っている。彼の「正義」(パターナリズム)が、弟子である他園の園長や職員に対して、ハンセン病患者への「仕打ち」(扱い)を正当化する「免罪符」となったことを問題としたいと考えている。その事実は、「国会での三園長証言」など読むと痛感する。もちろん、「免罪符」はそれを手にし保持するために、光田への「忖度」を生む。
この権威・権力のもつ驕りこそを明らかにし、今後への警鐘にしなければならない。コロナ騒動を見ていても、同じことを強く感じている。

部落差別はケガレに対する「排除」の差別であり、ハンセン病も同様である。自らに「うつる」ことがないのが最優先事項になる。人道主義など、この論理を前にすれば簡単に無力化する。

重檻房が我々につきつけるものは、人間の弱さと他人事の非情さであり、誰もがその危険性と自己正当化に走る脆さをもっていることだ。


部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。