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部落との出会い

部落解放・人権教育研究所のHPに,部落問題に関する基本的な認識について様々な角度から分析・紹介する「部落問題入門」のcontentsがあり,その中に「部落との出会い」というページがある。

福田雅子氏や小森哲郎氏,上田正昭氏,坂口恵美子氏などが自らが部落問題と関わるようになった「部落との出会い」について率直に語っている。その中でも,特に寺木伸明氏の「大学闘争のさなかで」と題する「思い出」の中で語られる父親への思いは,私自身の思いと重なり深い共感を覚えた。

…高校に入学してすぐ、身上調査書を提出させられた。当時は、親の職業欄があった。そこへどう書いたらよいか、父に相談してみた。自分の仕事にあまり誇りをもてなかった父は、「大工と書くのもなんやから、建築士とでも書いといたらどうや」と言った。私も、当時、大工という親の仕事にひけめを感じるというゆがんだ職業観をもっていたので、父の言うとおりにしたことを憶えている。
(上記HP:寺木伸明「大学闘争のさなかで」より)

私は,この寺木氏の心情が痛いほどによくわかる。

私も,市役所の衛生課(ゴミ収集)に勤務していた父親の職業名や仕事内容を長く語ることができず,「公務員」あるいは「市役所職員」としか答えることができなかった。家族のために,私のために,ゴミにまみれに汚れながらもひたすらに働く姿に感謝しながらも世間体を気にして語れなかった。

「部落問題を学ぶ」というところから出発して、最近になってようやく「部落問題に学ぶ」という視点の大切さがわかるようになった。大学時代、「僕の父は、神大工や」(実は祖父が神大工に弟子入りしたにすぎないのに)とか、「大工の棟梁や」(祖父が棟梁とよばれていたにすぎないのに)と、父の職業について粉飾した言い方をしたこともあった。部落問題に学ぶ過程で、「父の仕事は大工です」と、胸をはって言えるようになった。また、貧乏が恥ずかしいのではなく、病気や「障害」や出身などの事由によって差別・疎外し、貧乏に追い込むような社会が恥ずかしいのだ、と考えることができるようになった。これは、私の得たことの、ほんの一端である。
(上記HP:寺木伸明「大学闘争のさなかで」より)

私もまた同和教育と出会い,部落問題に関わることで,自らの差別意識に気づいた一人であり,寺木氏と同じく父親の仕事を誇りをもって語ることができるようになった。父親の人生を振り返り,父親の姿を追想する中で,父親の深い愛情に涙がこぼれた。そして,先入観や偏見,差別的な価値観や人間観,職業観がもたらす歪んだ思考や認識から自由になることができた。

このように書くと,私が父親を軽蔑していたとか,父親の低学歴や職業への反発から高学歴や教師の仕事を志向したとか安直な憶測をされてしまうが,それは実際(事実)を知らない短絡的な発想でしかない。
(事実、私の「講演録」からそのように解釈して、父親を見下す「学歴差別者」と非難してblogに書いた人間がいるが…何をか言わんやである)

大学に行きたいと思った理由も教師になった理由も、父親の職業には一切関係はない。高校時代の恩師の影響である。まして父親との確執があったなど意識したことさえない。子どもの時から現在に至るまで父親は,私にとって尊敬できるすばらしい父親である。

私は父親の低学力やゴミ収集という仕事を理由に父親自身に対して一度として馬鹿にしたことも軽蔑したこともない。世間がきたない仕事と軽蔑する仕事に父親が就いていることに対して友人や周囲の目を気にして恥ずかしく思っていたことはあるが,父親を軽蔑したり父親の職業を差別したりしたことはなかった。寺木氏にしても父親をその職業ゆえに馬鹿にしたり見下したりしたことは決してないだろう。

父親に対する感謝と愛情と,父親の職業に対する世間の視線や社会の価値観を気にする(恥ずかしいと思う)こととはまったく別である。だが,世間の価値基準を鵜呑みにしてさまざまな職業を見ていたことは否定できない。

そのような世間の評価や社会意識,価値観がまちがっているとわかっていながらも,周囲や友人からどう思われるだろうかと気にし,父親の職業を語らず隠してきた。

この心理は部落問題とよく似ている。私は部落問題に深く関わる中で,自らの中にある世間や社会を気にする意識,偏見や先入観,差別意識に気づいていった。まちがった認識や価値観,社会観や人間観こそ変革していかなければいけない。このことに気づいたとき,自分の胸の中だけで,家族の中だけで抱いてきた父親の職業についての思いを誰に対しても臆すことなく語ることができるようになった。
また,語ることで社会の価値観を変えることができるのだと思うようになり,現在に至っている。

誰もが自らの内面に差別意識をもっている。劣等感をもつ反面,優越感をもつ。人より優れた人物になろうと努力する反面,人を見下し蔑む。人の業績や人間性,価値を正当に評価する反面,人を曲解し歪曲し独断と偏見で扱き下ろす。

なぜ自分の中に両極に位置する相反する感情や言動があるのか。自分の内部にあるマイナスの要素を点検すること,社会意識や世間の価値観を検証すること,それが差別意識の克服につながり,こだわりから自由になることである。長く自分にまとわりついていた呪縛から解き放たれることである。少なくとも私はそう思っている。


部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。