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光田健輔論(15) 権力と人権(8)

光田健輔のハンセン病対策は「ハンセン病患者の絶滅」である。
患者の「死」をもって「根絶」するためには患者に「子孫」をつくらせないこと、そのための「断種」である。「断種」するためには、すべての患者を「絶対隔離」する必要がある。「絶対隔離」し、そこで「断種」をおこない、隔離施設で終生を過ごさせ、死を待つ。患者がすべて死に絶えることで、日本のハンセン病は絶滅する。
その目的の実現において、療養所からの逃走と施設管理への反発が最大の問題であり、その対応として所内に「監禁所」と栗生楽泉園に「特別病室」を設置、さらに菊池恵楓園に「ライ刑務所」を設置し、患者への威嚇と抑圧に利用した。
経費削減と所内整備を目的に「強制労働」を導入したり、「所内結婚」を認めたり、所内の芸術文化活動を奨励したり、所外から宗教者や文化人あるいは芸能人の慰問を招聘したりすることで、患者の精神的な安定を図るとともに療養所の生活環境の充実を図ることで、逃走を防ごうとした。
これが光田の描いた「ハンセン病(患者)撲滅の構図(シナリオ)」である。


1951年、光田は第12回国会参議院厚生委員会において、基地恵楓園長宮崎松記、多摩全生園長林芳信ととも参考人として招かれ、「癩予防法」の改正に関して意見を述べている。いわゆる「三園長証言」である。その席で、光田は「断種」の必要性を強調し、幼児感染を防ぐためにも家族への断種さえ求めている。この時の発言について、長島愛生園入所者自治会が彼を追究した。藤野豊氏の『ハンセン病 反省なき国家』より抜粋して引用する。

光田は、患者に断種を強制しているとされることについて、「園内では皆の賛成を得てやったのできょうせいしてやったのではない。自覚的にやり許可の形になっている」と弁明し、断種の理由については「園内で子供が多く生まれる事は癩予防上の意味に於いても非常に危険である。子供が生まれる事によって母胎を危険にさらす事にもなるし病状を悪化させる。だから手術を行うのである」と説明した。…
しかし、患者が自主的に断種を申し出て、それを園が許可しているというのはあまりに実状とかけ離れている。隔離された状況下で、患者には断種を拒否する自由はなかった。…光田は、国会では、患者の家族への断種の理由として「幼児の感染を防ぐため」と述べているからである。この点を追究されると、光田は「癩でも体内伝染があり血液にも精液にも潜んでいるから幼児感染の懼れがある」と発言、「体内伝染する事は証明されている」とまで断言した。
…患者家族への断種の根拠を追究され、光田の答弁は明らかに混乱していた。
そして、光田は苦し紛れに、断種は患者への「好意」だとまで言い出す。「好意」を強調する光田に対し、自治会側は、それならば「強制はしないのか」と畳み掛けるが、光田は「好意を奨めねばならない」と答えるのみであった。強制を「好意」だと平然と言ってのける光田の詭弁には驚くほかはないが、では、なぜ「好意」になるのか。光田は「妻子の病気の悪化を防ぐ為に好意の必要がある」と、その意味を説明する。そのため、再び「精液中に菌があって胎内感染する場合がある」との論を持ち出さざるを得なくなる。

藤野豊『ハンセン病 反省なき国家』

プロミン治療によって完治する病となったハンセン病であるにもかかわらず、なおも執拗に「断種」に固執するのはなぜか。医学的な根拠として光田が繰り返すのは、体質遺伝の可能性や精子・胎盤からの胎児感染の可能性である。つまり、「感染源の根絶」のためには「ハンセン病患者の絶滅」と「子孫を絶やすこと」が不可欠であったからである。
その証左が「胎児標本」であると藤野氏は言う。

今でも光田健輔を「救癩の父」と敬うひとびとがいる。では、かれはハンセン病の治療法を確立したのかというと、そうではない。光田が確立したのは、強制隔離と強制断種・堕胎による患者と子孫の撲滅体制である。光田が残したものとはそれに尽きる。そうした光田の「業績」を象徴するものこそが、胎児標本である。

国賠訴訟、検証会議によって闇の底から白日の下に明らかにされた一つが「胎児標本」である。全国の国立ハンセン病療養所など6施設で合計114体のホルマリン漬けの「胎児標本」が放置されている事実が公表された。

随分と以前になるが、私は「胎児標本」を見たことがある。ガラス容器の中でホルマリン漬けにされた胎児を見た。患者を解剖し取り出した病変組織や身体の一部が入ったガラス容器が並ぶ奥の一角に、まるで母親の胎内にいるかのように浮かんでいた。当時の私は、医療研究の一環としか理解していなかった。その後、ハンセン病問題に深く関わり、回復者から様々な話を聞き、歴史的経緯や実態をくわしく知ることによって、特に国賠訴訟の裁判記録や検証会議の報告書を読むことで、「胎児標本」の問題性を知ることによって、かつて自分が目にした情景が鮮明に記憶の中から蘇り、戦慄を覚え、嗚咽した。無知とは感受性まで鈍らせてしまうほどに恐ろしい。

光田は解剖数を自慢するほどに解剖を研究の中心と位置づけ、日々顕微鏡を覗き込んで病変を観察していたという。その方針は若き医官たちに指導され、入所に際して書かされた「解剖承諾書」に基づいて、彼らは死亡と同時に解剖していった。長い月日の中で、ホルマリン漬けにされた「身体の一部」は放置され、やがて忘れられていった。杜撰な管理によって腐敗や熔解が進んでいった。その中に、女性患者から堕胎された胎児もいたのだ。まるで死体の一部であるかのように、胎児は肉片としか認識されなかったのだろうか。

藤野氏は次のように問題を指摘する。

しかし、これをもって(厚生労働省の謝罪と胎児標本の手厚い法要と焼却)問題がすべて解決したわけではない。なぜならば、胎児標本がつくられた背景には、ハンセン病患者に子どもを持つことを許さなかった国策があり、さらに、その国策の下、戦前・戦後をとおして国公立のハンセン病療隔離施設で、入所者への強制断種・強制堕胎という違法な行為が日常化し、さらに新生児殺がおこなわれていた疑いが濃厚であるからである。
これらの違法行為については、たとえ個人の法律上の時効が成立しているとしても、国の道義的責任が問われるべきであろう。しかし、国側は、川崎厚労相の謝罪にもあるとおり、胎児標本を長く放置したことは認めつつも、違法行為があったことには一切言及していない。国は、ハンセン病患者から子どもを持つ権利を奪い、断種・堕胎を強制したことを認め、それに対し謝罪するべきで、それなしで、胎児標本を焼却することは、問題の本質の隠蔽以外のなにものでもない。

藤野豊『ハンセン病 反省なき国家』

ネットで検索していたとき、気になる論文があった。近藤祐昭氏の『ハンセン病隔離政策は何だったのか』と題した論文である。その論旨は、いわゆる光田健輔を擁護する立場であり、従来の光田に対する批判は光田の「建て前と本音」を見誤っていることに原因があるとするが、文献や史料、関係著書を表面的に読んだだけの軽薄な論説でしかない。

https://www.shitennoji.ac.jp/ibu/toshokan/images/in07-01.pdf

しかも、友人の編著『ハンセン病をどう教えるか』から一文を抜き出して、「そのように記述できる明確な根拠があるのだろうか。もしないのであれば、…光田健輔の人格に対する誹謗中傷ではないか」と付記している。
だが、最後に引用文献を挙げているが、犀川氏の『ハンセン病医療ひとすじ』『ハンセン病政策の変遷』や成田稔氏の『日本の癩対策から何を学ぶか』『日本の癩対策の誤りと「名誉回復」』、藤野豊氏の『ハンセン病 反省なき国家』など重要な文献がそこにはない。記載されてないだけで読み込んでおられるのかもしれないが、国賠訴訟に関係する証言記録や検証会議の記録などを詳しく読めば、自らの錯誤に気づくはずと思うのだが。他者を批判するのであれば、その論証は確認しておくべきではないかと、まったく同じことを近藤氏に言いたい。
特に、犀川氏の国会での証言(『証人調書③犀川一夫証言』)を詳しく読めば、近藤氏が論証として挙げている部分について、犀川氏は痛烈な自己批判として否定していることに気づくはずである。

根拠というのであれば、私は「断種・堕胎」で十分であると思う。プロミン治療の効果が国際的にも承認されてもなお絶対隔離に固執し、断種・堕胎を実施し続けたことも「建て前」といえるのか。

…光田は医学的真理に反して、すべての患者を障害隔離するという絶対隔離を進めた。ハンセン病患者の存在は「文明国」の国辱で、優生学上からも撲滅したいと考えたからである。

藤野豊『ハンセン病 反省なき国家』

私も同感である。光田健輔によって救われたと思う人びとも多い。彼が人情家であったことも、ハンセン病対策に真摯に向き合い、生涯尽力したことも否定はしない。彼の人格や人間性を単純に否定する気もない。しかし、彼が<目的のために手段を選ばなかった>ことと<頑迷に自説に固執した>ことによって、多くの人々が<人権>と<人生>を奪われたこと、<生命>さえも残虐に奪われたことは決して許せることではない。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。