見出し画像

「生類憐みの令」と作州津山藩

五代将軍徳川綱吉が「生類憐みの令」(貞永四年:1687年)を出し,特に犬を愛護し,犬を傷つけたり殺したりした者を厳しく罰したため「犬公方」と渾名されたのは周知のことである。

生類憐みの令は,特定の成文法として存在するものではなく,複数のお触れを総称してこのように呼んでいる。また,「犬」が対象とされていたかのように思われているが,実際には犬だけではなく,猫や鳥,さらには魚類・貝類・虫類などの生き物にまで及んだ。ただ,綱吉が丙戌年生まれの為,特に犬が保護された。このため,江戸市中に野犬が蔓延り人々が大きな迷惑を受けたことから,幕府でも対応に苦慮し,大規模な犬屋敷を建てて野犬を収容することにした。

この工事の普請を命じられたのが,作州津山藩十八万六千五百石の森家である。この史実はあまり知られていないが,この手伝普請により津山藩は財政難に陥ってしまい,やがて取潰しとなってしまう。「生類憐みの令」が招いた悲劇は,郷土の歴史にも深い関わっていたのである。

津山藩が受け持った犬小屋は,児玉郡中野村(現東京都中野区)に,建坪五万坪及び六万坪の大屋敷,三千坪の中屋敷二ヵ所,一千坪,五百坪,三百坪の小屋敷多数で,延べ十二万二千六百坪に達した。

津山藩がこの工事で費やした経費は,人件費だけでも七万七千五百両,このほかに荷車二万七千四百両,荷馬九千九百両,これらは購入費であり,他に借上げ代も加わる。材料費も巨額であるが,さらに食費に道具代,雑費等々の出費も加わる。合計すれば,軽く数十万両はかかったと思われる。1石=1両がだいたいの相場ですから,米10㎏=5千円として,1石=米150㎏=7万5千円です。約10万円と考えれば,数百億の出費であったと考えられる。事実,この出費は津山藩の財政を大きく脅かすことになり,後の森家廃絶の遠因になったといわれている。

-----------------------------------------------------------------
手伝普請
幕府が巨大な犬小屋を作ったように思われているが,事実はこのように「手伝普請(大名普請)」として,津山藩にその建造を命じたのである。

手伝普請は,江戸城下町建設のために,千石夫(役高1000石につき1人の人足)を徴発したことに始まる。その後,江戸城,彦根城,篠山城,丹波亀山城,駿府城,名古屋城,高田城などの築城が続き,大名が普請に動員された。

江戸時代初期の諸大名は,幕府の普請動員に応えるために,自らの領内の支配体制を整える必要があった。将軍が諸大名に対して強大な権力を誇示したように,藩内においては藩主自らを頂点とした体制を固めさせられることになったのである。家老・一族と藩主との権力闘争は軋轢を生み,多くの御家騒動を引き起こした。また,外様大名は手伝普請に動員されることを通じて,幕府の軍役体系に組み込まれていった。

江戸時代中期になると,河川の普請が多く行われるようになった。宝永の大和川改修工事,寛保の関東水損地域の河川・堤防改修工事,薩摩藩による宝暦期の木曾川・長良川・揖斐川の治水工事(宝暦治水事件)などが有名である。築城・治水の他に手伝普請の対象となったのは,日光山の諸社,徳川家の菩提寺である寛永寺・増上寺,将軍および家族の霊廟,禁裏・御所などの造営・修復である。江戸時代の初期には,各藩が費用を負担し,実際に藩が取り仕切って普請が行われていた。しかし,時代が下るにしたがって,落札した町人などが現場の責任を負う請負形式が多くなり,さらには金納化も進行した。そして,安永四年(1775)以降は完全に金納化が通常の形となった。基本的には,各藩は費用を負担するだけとなり,幕府が直接担当役人を派遣して指揮監督するようになった。

手伝普請による各藩の負担は過重であり,藩の財政を逼迫させる要因の一つとなった。ただし,他の課役・重職を担っている藩には,手伝普請を軽減あるいは免除する処置がとられた。中後期の例では,尾張藩・紀州藩・水戸藩・加賀藩,老中などの要職在任中の藩,溜間詰の大名,長崎警固を担う佐賀藩・福岡藩は免除されていた。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。