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岡山藩の「捕亡吏」

人見彰彦氏の「部落史のひとこま」(『調査と研究』)に紹介されている史料に「用留」がある。これは,岡山部落問題研究所に保存されている史料で,備中国の穢多頭の系譜をもつ家に残されていたものとある。「用留」とは,業務日誌あるいは備忘録のようなもので,役務上の記録や見聞したものを書き留めたと考えられる。
この「用留」に,捕亡吏についての記述がある。

徒刑人逃亡之者,探索目印之為メ,判頭申付置候ニ付,右様之者区内え立寄候ハバ,見当次第捕押え差出すべき旨,兼々触達し置候処,かえって徒刑如く頭髪ヲ剃り候者間々これ有哉之趣,案外之事ニ候,ソレ人トシテ恥ヲ戒,善ニ移ルハ古今之通義ニ候所,刑人之刑状ニ倣フハ如何之心得ニ候哉,本人之狂妄ハソレ迄ニシテモ,其父兄タル者,又ハ戸長タル者ニ於テ不怪,傍観候義,以テ之外事ニ付,これに依各区へ捕亡吏ヲ遣し,巡察セシメ,右様狂妄之者有之候ハバ,本人ハ勿論,戸長等迄品々寄,相当申付方もこれ有べく候条,急度醜躰ヲ戒メ,良風ニ移り,巡察吏ニ不被目付様,小前末々迄洩なく懇諭いたすべし,此内意相達候也
明治六年八月    小田県権令   矢野 光儀
          小田県参事   益田 包蔵

右御触書之趣,急度相守,聊心得違これあるまじき事
明治六年八月十日      戸長 三宅 染次
             副戸長 児島徳平次


徒刑人と同じように頭を剃る者がいるので,「捕亡吏」を巡回させて取り締まるよう命じる「御触書」である。

小田県は,1871年(明治4年)に備中国および備後国東部を管轄するために設置された県であり,現在の岡山県西部,広島県東部にあたる。設置当時は深津県と称した。1872年(明治5年)に小田県に改称となる。1875年(明治8年)に小田県が岡山県に統合され,1876年(明治9年)に備後国側の地域が岡山県から広島県に移管され現在に至る。

小田県は明六一揆に際して隣接する村々への波及を危惧して,県官を派遣して情報を収集し,管内へ「厳密手配」を布達したり,人民に告諭したりしている。また政府へも情況を報告している。明六一揆に関する史料として「小田県史」は重要な史料である。その中にも,次のように「捕亡吏」の記述が見られる。

六月壱日,右妄動ニ付,備中国賀陽軍宮内村及加茂村辺エ多人数集合,全ク伝染ノ趣ニ相聞,同辺戸長共,併最寄巡回捕亡吏ヨリ注進ニ付,権大属杉山新十郎ニ申含,鎮撫トシテ,今朝高松村エ差向候。然ル後,尚不容易形勢ニ付,大属尾木方倫捕亡吏壱名差出シ,百万説諭,集合ヲ解キ,尋デ毎人ヲシテ徴兵令ノ趣意ヲ説解ス。

この史料は明治六年のものであり,また「用留」も明治六年の史料であることから,「捕亡吏」に「穢多」が任命されていたことは明らかである。

人見氏の同記事には,「これとは別の史料ですが」と断った上で,穢多に「捕亡吏」の役務を申し付けた史料が紹介されている。

其方共儀,改めて捕亡吏方頭取申付候,実貞にあい勤むべく候,別段,元仲間の者共儀,一同捕亡方申付候,其方共よりあい達つすべく事

出典や年代が明記されてしないため詳しくはわからないが,穢多頭を捕亡吏方頭取に,その手下共を捕亡方に申し付けていることは確かである。
だが,「捕亡吏」の記述は,岡山では明治4年の史料から登場してくるが,小田県以外の県ではどうであったか,それは不明である。各県の実情によって違っていたと考えられる。
また,部落民が「賤業拒否」として「目明」役や「捕亡吏」の役務を拒否したことも十分に考えられる。実際,警察制度が整えられていく中で,部落民は除外されていった。


部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。