見出し画像

光田健輔論(58) 「三園長証言」の考察(7)

前回、ハンセン病を「恐ろしい伝染病」を喧伝したことの罪過は大きいと述べた。もう少し、このことについて考えてみたい。

「伝染病」が「恐ろしい」という表現は、二重の意味を持つ。一つは「病気」自体が「恐ろしい」ことである。それは「不治」(治らない、治療薬がない、病因が不明)、「病状」(身体の変形、痛み、苦しみ)などから「恐ろしい」のである。もう一つは「感染力」が「恐ろしい」ことである。この二つによって、ハンセン病が「恐ろしい伝染病」であると人々に認識され、人々はハンセン病を忌避したのである。

…第一回国際癩会議が1897年、そのあたりから浮浪癩患者を国辱的として取締りを強めた。癩は伝染病であり危険な存在だと強調し、さらに「癩予防法」を制定(1931年)して絶対隔離に踏み切ったあとは、遺伝を否定しながら伝染性を一層力説した。これでも遺伝という一般の認識が改まらなかったのは、…癩という病気の特質(特に家族内伝染)に基づくにちがいないが、そこを踏み込んで伝染性は弱いように説くと、一般の癩患者に対する排他的志向に水をさすことになり、隔離へと大衆を煽る妨げになるとでも考えたのだろうか。寛容された常套句、伝染性とも病状とも区別のつかない「恐ろしい伝染病」の一言は、庶民の理性よりも感性に強く響き、一層人々にとって寄り付けない除けられる病気にしてしまった。つまり、親譲りとか血筋といった漠然とした心証に伝染の恐怖が重なり「遺伝する伝染病」のような奇怪な二重病観を生み、その不確かさが基で、今も多くの人々が本音に忌避的な心情をひそめている。

成田稔『日本の癩対策の誤りと「名誉回復」』

コロナが世界中に蔓延し始めた頃、マスコミは連日「感染状況」「死者数」「重症化」などから「恐ろしい感染症」と報道し続けた。感染力ではハンセン病など足下にも及ばないが、それでも消毒や隔離の様子の映像は、無らい県運動や強制収容を思い起こさせた。そして繰り返された「恐ろしい感染症」という言葉は、人々の脳裏に刻み込まれた。だが、ワクチンの登場で潮が引くように報道も少なくなり、いつしか人々の生活も元通りの日常に戻っている。
これも同じく、ハンセン病もまた、プロミンの登場と化学療法の進歩普及によって「恐怖の観念」は消えたように静まった。だが、人々のハンセン病およびハンセン病患者への忌避感は消えてはいない。それは、残念ながら後遺症による「見た目」が要因の一つだ。

「恐ろしい」という表現こそが「恐ろしい」と私は痛感している。このことに誰よりも敏感であったのは当事者であるハンセン病患者であった。1951年1月に、多摩全生園に置かれた全癩患協事務局は業務を開始し、第1回書面会議をもって当面の議題を募集し、第2回書面会議には応募された議題を掲げて各自治会の意見を求めた。その議題の一つに、「癩予防法の根本的改正は必要でも、現状の社会事情を配慮して保護法的なものとし、法文の中の人びとの恐怖心を煽るような語句を科学的に見直すこと」を望んでいる。

時代は流れ、1995年7月、専門家・入所者代表・有識者による「らい予防法見直し検討会」が厚生省に設置され、その「報告書」が12月に発表された。この「報告書」については別項で検証するが、この「報告書」の問題点を<差別>の視点で批判している藤野豊の文章を引用する。

「報告書」は、ハンセン病患者への差別について「らい(癩)は、一見して外見に明らかな変化を来す皮膚病の特徴と身体障害を引き起こす神経病の特徴などに加えて、特に治療法の確立されていなかった時代には、慢性の経過をたどりながら重症化するために、特殊な病気として取り扱われ、これに遺伝病であるとの迷信や因果応報思想にもとづき『天刑病』と考えられていたことなど種々の社会的要因が加わり、患者本人はもとよりその家族に対しても、仮借なき様々な差別や偏見が加えられてきた」と述べる。
…しかし、重大な差別の要因を書き落としている。すなわち、ハンセン病患者への差別・偏見は単に「遺伝病」であるとか「天刑病」というもののみであったのかということである。…近代に入って、内務省衛生局は、ハンセン病の感染力を誇大に宣伝した。隔離しなければならないような恐ろしい感染症というイメージがこうして成立させられた。これこそが、現代に至るハンセン病患者への差別の根本である。
「仮借なき様々な差別や偏見が加えられてきた」と述べるが、その差別や偏見は誰が加えたのか。たしかに、直接には患者の周囲の国民だろう。しかし、国民に恐ろしい感染症であるという虚偽にもとづく恐怖感を植え付けたのは誰か。国家ではないか。

藤野豊『「いのち」の近代史』

私は「国家」「内務省衛生局」「厚生省」以上に、責任を問うべきは「医師」であり、「癩予防協会」および「日本MTL」などの宗教組織である。光田健輔らの「医学的権威」を妄信し、彼らの<スピーカー>となって国民に「恐ろしい感染症」であることを植え付けていったのだ。


ハンセン病関連の本、特に光田健輔の擁護あるいはハンセン病医療に献身的に尽力した医師や看護婦を称賛する書籍には、キリスト教徒であることも理由だが、救癩の思いから自主的にハンセン病医療を志した医師が多くいたような印象を受ける。だが、実際はどうであったのだろうか。

国立ハンセン病療養所はすべて「税金」で運営され、入所している元患者は医療も生活においても何不自由なく過ごしていると思っている人々も多く、それを根拠に心ない誹謗中傷を投げる者もいる。

医師の不足は深刻な状態にあり、…それはわが国のらい学会が医学の世界でどういう扱いを受けてきたか、ということでもある。(大島青松園)野島園長は「青松」に「差別待遇が元来公平であるべき真理探究の学問の世界にも根強く存在」したと書いている。

日本らい学会の発会式は昭和三年、東大法医学教室で行なわれ、以来、昭和四年を除いて毎年同学会は開催されたが、四年目毎に開かれる日本医学会総会の分科会としてはなかなか認められなかった。らい学会の演題は百を越えるというのに、演題が十に足らない医科器械学会などは分科会として認められるというはなはだしい差別が実状で、らいは皮膚科学会と合同か、その一部として開催されたにすぎない。独立の第三十五分科会として正式に承認されたのは二十八年四月東京での第十三回日本医学会総会からであり、一人前に扱われるまでに二十三年を要し、他にこんな冷遇を受けた学会はない。

大竹章『らいからの解放』

「三園長証言」の「国立癩研究所の設置」に関する意見も、このような医学会の実状や医師不足(医師の関心の低さ)が背景にあったと考えられる。「自負心の強い…北里が、私学済生学舎卒の細菌学(衛生学)に疎い光田に注意を払うよしもなく、光田が癩の絶対隔離をいかに揚言しても、結核をさしおいて容認しなかったろう」と成田稔が推測するように、日本医師会の初代会長など日本の医学会のトップに君臨した北里であるから、彼がもし結核と同等の興味あるいは重要性を持っていれば、もっと違うハンセン病医学が展開されたかもしれない。

日本医師会が調査した昭和三十五年三月末現在の医師の配置状況は、百ベットにたいして一般病院は10.3、結核は3.2、ハンセン氏病は1.0であった。
全患協が同年の状況について調査した結果によれば、医療施行規則第十九条の医師定数は三百十九名であるのにたいし、定員は百六十三名にすぎず、しかも四十一名が欠員となっていた。医師の不足は慢性的なものであり、不治とされてきたのは治らなかったからではなく、治せなかったのであり、これは治そうとしなかった証拠ではないだろうか。

やたら市井の医院にかかるわけにはゆかないため、専門医のない病種については、療養所は「無医村」ということになる。また、医局に殺到する患者をくじでさばき、診療に追われる医師はどこで休んだらよいのだろう。勉強する時間も必要だろう。補充もされず、医師に限っては不老長寿である、という保証もないとすれば、多くの実験的な犠牲を重ね、整形の技術が発展してもそこまでは手が回らないことになる。

大竹章『らいからの解放』

昭和30年代において、この実状であった。看護婦にしても全国で129名が不足していたという。「五千余名の不自由者の看護は依然として患者同士の『相愛互助』と軽症患者の低賃金労働に押しつけられてきた」という。

今更ながら、あくまでも臆測としてしか思いたくはないが、医師の多くはハンセン病医療を専門とすることに抵抗感があったと思う。ハンセン病を専門とすれば療養所での勤務となる。プロミンが発明される以前、不治の伝染病と言われ、「恐ろしい伝染病」と宣伝されていた時代、キリスト教の救らい思想を信じ使命感に燃えた医師が多かったというが、事実は彼ら以外いなかったからではないだろうか。

光田は(大風子油の注射治療は)「効果は非常に明瞭」といっていたが、入所当時は熱心に注射に通った者でも、次第に針の痛ささえ我慢できなくなってゆく。特別な例を除けばほとんど効かず、効いても初期のうちだけであり、ことに油性のため、冬期は白濁して固まり、体内での散りが悪く、腐って切開手術でもすると、もう金輪際嫌になってしまう。
そのため、注射の回数を記録し、年末に成績良好の者に商品を与えたり、浴場まで出張っていって裸で出てくる者をつかまえ、無理に注射させたところもあった。

そばによると臭かった。放っておけば蛆が生じ、繃帯が汚れたままだと、夜、寝てからねずみにかじられた。誰でも、外科治療だけは熱心だった。
それでも指を脱落させ、足を断ち、日増しに顔形が変わり、顔なのか、何なのか、わからなくなっていった。神経痛に切りきざまれる思いをし、熱こぶの汗が負担を貫ぬき、畳が腐るほど病み、すべての部位をおかされた挙句に視力を失い、そこから蛆が生まれても、ただ、無抵抗に祈っているしかなかった。
祈りとは、苦痛のなかのうめき声でもあった。

大竹章『らいからの解放』

ハンセン病元患者たちが書き残した多くの自伝やエッセイに綴られている<事実>を読み込めば、まさに<この世の地獄>としか言い表せないことがわかるだろう。その苛酷な日々を生き抜いた姿と思いに感動を覚える。彼らの姿を通して、彼らの思いを受けて、人間として学ぶべきことは多い。ハンセン病問題を教材に人権教育として教えるべきことも多い。
だが、私はまだ<帰着点>を見いだせないでいる。

大竹だけではない。書き残された「証言」には、生々しい病状が克明に描かれている。病気の進行に不安を募らせ、後遺症によって無くした四肢や戻らぬ感覚に涙する。

多くの医師や看護婦も、やはりハンセン病を恐れただろう。病気に苦しむ患者を救いたい、病気をなくしたい、患者の傍らで助けたい、彼らは純真な心で思ったことだろう。だが、決断するには「壁」は大きかったことだろう。この意味においても、光田健輔など「決断」した医官や看護婦に心から敬意を表したい。

もし光田たちが「恐ろしい伝染病」と喧伝せず、絶対隔離政策や無癩県運動においても「恐ろしい伝染病」というキャッチフレーズを使わなければ、何より絶対隔離に固執しなければ、決断した医官や看護婦も多かったのではないだろうか。


最近、ハンセン病患者に「実験的試薬」として<虹波>が大きな問題としてマスコミに取り上げられているが、今更なのかという気持で、ハンセン病問題に対する無関心に唖然とする。
1970年発刊の『らいからの解放』(大竹章)に、次の一文がある。

昭和十七年、「新薬が出た」とジャーナリズムの鳴り物入りで登場したセファランチンは、かえって症状を悪化させる例さえ示し、続いて出現した虹波とともに、見るべき効果を発揮しなかったばかりか、患者を「われわれはモルモットではない」という心理に追い込んでしまった。

大竹章『らいからの解放』

大竹は『らいからの解放』のなかで、ハンセン病問題の核心を端的に言い表している。

「プロミン以後」の特徴とは、絶対的なものへと祭り上げられた隔離方式が、破綻をきたしてゆく過程を示すものである。
もともと隔離政策が予防の方法として維持されるには、医学的自己検討が必要であったのに、その厳しさに欠け、福祉にたいする配慮も不十分なまま、安易に、臆することなく、目的と方法がすりかえられてきたのであった。

国家権力を後盾に、科学も良心の捻じ伏せて進められてきた、この方式は、患者や患者の家族の貧困、権力の強制、社会的な迷妄と患者への圧迫などがあってはじめて成立つものであった。したがって、その一角が崩れれば、たちまち破綻すべき運命にあった。強制隔離撲滅政策は、ハンセン氏病患者の人間性を回復すべき逃走の時代を迎え、音高く、劇的な形で崩壊することになった。

大竹章『らいからの解放』

予言とも思える、この一文に接して、あらためてハンセン病問題を解決へと導いた患者たちの不屈の闘争を思う。彼らが闘い続けてきたものは、人間の「頑迷さ」ではないだろうか。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。