光田健輔論(58) 「三園長証言」の考察(7)
前回、ハンセン病を「恐ろしい伝染病」を喧伝したことの罪過は大きいと述べた。もう少し、このことについて考えてみたい。
「伝染病」が「恐ろしい」という表現は、二重の意味を持つ。一つは「病気」自体が「恐ろしい」ことである。それは「不治」(治らない、治療薬がない、病因が不明)、「病状」(身体の変形、痛み、苦しみ)などから「恐ろしい」のである。もう一つは「感染力」が「恐ろしい」ことである。この二つによって、ハンセン病が「恐ろしい伝染病」であると人々に認識され、人々はハンセン病を忌避したのである。
コロナが世界中に蔓延し始めた頃、マスコミは連日「感染状況」「死者数」「重症化」などから「恐ろしい感染症」と報道し続けた。感染力ではハンセン病など足下にも及ばないが、それでも消毒や隔離の様子の映像は、無らい県運動や強制収容を思い起こさせた。そして繰り返された「恐ろしい感染症」という言葉は、人々の脳裏に刻み込まれた。だが、ワクチンの登場で潮が引くように報道も少なくなり、いつしか人々の生活も元通りの日常に戻っている。
これも同じく、ハンセン病もまた、プロミンの登場と化学療法の進歩普及によって「恐怖の観念」は消えたように静まった。だが、人々のハンセン病およびハンセン病患者への忌避感は消えてはいない。それは、残念ながら後遺症による「見た目」が要因の一つだ。
「恐ろしい」という表現こそが「恐ろしい」と私は痛感している。このことに誰よりも敏感であったのは当事者であるハンセン病患者であった。1951年1月に、多摩全生園に置かれた全癩患協事務局は業務を開始し、第1回書面会議をもって当面の議題を募集し、第2回書面会議には応募された議題を掲げて各自治会の意見を求めた。その議題の一つに、「癩予防法の根本的改正は必要でも、現状の社会事情を配慮して保護法的なものとし、法文の中の人びとの恐怖心を煽るような語句を科学的に見直すこと」を望んでいる。
時代は流れ、1995年7月、専門家・入所者代表・有識者による「らい予防法見直し検討会」が厚生省に設置され、その「報告書」が12月に発表された。この「報告書」については別項で検証するが、この「報告書」の問題点を<差別>の視点で批判している藤野豊の文章を引用する。
私は「国家」「内務省衛生局」「厚生省」以上に、責任を問うべきは「医師」であり、「癩予防協会」および「日本MTL」などの宗教組織である。光田健輔らの「医学的権威」を妄信し、彼らの<スピーカー>となって国民に「恐ろしい感染症」であることを植え付けていったのだ。
ハンセン病関連の本、特に光田健輔の擁護あるいはハンセン病医療に献身的に尽力した医師や看護婦を称賛する書籍には、キリスト教徒であることも理由だが、救癩の思いから自主的にハンセン病医療を志した医師が多くいたような印象を受ける。だが、実際はどうであったのだろうか。
国立ハンセン病療養所はすべて「税金」で運営され、入所している元患者は医療も生活においても何不自由なく過ごしていると思っている人々も多く、それを根拠に心ない誹謗中傷を投げる者もいる。
「三園長証言」の「国立癩研究所の設置」に関する意見も、このような医学会の実状や医師不足(医師の関心の低さ)が背景にあったと考えられる。「自負心の強い…北里が、私学済生学舎卒の細菌学(衛生学)に疎い光田に注意を払うよしもなく、光田が癩の絶対隔離をいかに揚言しても、結核をさしおいて容認しなかったろう」と成田稔が推測するように、日本医師会の初代会長など日本の医学会のトップに君臨した北里であるから、彼がもし結核と同等の興味あるいは重要性を持っていれば、もっと違うハンセン病医学が展開されたかもしれない。
昭和30年代において、この実状であった。看護婦にしても全国で129名が不足していたという。「五千余名の不自由者の看護は依然として患者同士の『相愛互助』と軽症患者の低賃金労働に押しつけられてきた」という。
今更ながら、あくまでも臆測としてしか思いたくはないが、医師の多くはハンセン病医療を専門とすることに抵抗感があったと思う。ハンセン病を専門とすれば療養所での勤務となる。プロミンが発明される以前、不治の伝染病と言われ、「恐ろしい伝染病」と宣伝されていた時代、キリスト教の救らい思想を信じ使命感に燃えた医師が多かったというが、事実は彼ら以外いなかったからではないだろうか。
ハンセン病元患者たちが書き残した多くの自伝やエッセイに綴られている<事実>を読み込めば、まさに<この世の地獄>としか言い表せないことがわかるだろう。その苛酷な日々を生き抜いた姿と思いに感動を覚える。彼らの姿を通して、彼らの思いを受けて、人間として学ぶべきことは多い。ハンセン病問題を教材に人権教育として教えるべきことも多い。
だが、私はまだ<帰着点>を見いだせないでいる。
大竹だけではない。書き残された「証言」には、生々しい病状が克明に描かれている。病気の進行に不安を募らせ、後遺症によって無くした四肢や戻らぬ感覚に涙する。
多くの医師や看護婦も、やはりハンセン病を恐れただろう。病気に苦しむ患者を救いたい、病気をなくしたい、患者の傍らで助けたい、彼らは純真な心で思ったことだろう。だが、決断するには「壁」は大きかったことだろう。この意味においても、光田健輔など「決断」した医官や看護婦に心から敬意を表したい。
もし光田たちが「恐ろしい伝染病」と喧伝せず、絶対隔離政策や無癩県運動においても「恐ろしい伝染病」というキャッチフレーズを使わなければ、何より絶対隔離に固執しなければ、決断した医官や看護婦も多かったのではないだろうか。
最近、ハンセン病患者に「実験的試薬」として<虹波>が大きな問題としてマスコミに取り上げられているが、今更なのかという気持で、ハンセン病問題に対する無関心に唖然とする。
1970年発刊の『らいからの解放』(大竹章)に、次の一文がある。
大竹は『らいからの解放』のなかで、ハンセン病問題の核心を端的に言い表している。
予言とも思える、この一文に接して、あらためてハンセン病問題を解決へと導いた患者たちの不屈の闘争を思う。彼らが闘い続けてきたものは、人間の「頑迷さ」ではないだろうか。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。