見出し画像

岡山の部落関係史:岡山藩1

手元に『部落問題 調査と研究』(岡山部落問題研究所)に掲載された「岡山県の部落問題歴史年表(前近代)」(大森久雄)、「岡山・津山藩びおける部落問題関係略年表」がある。簡略ではあるが、要点をよくまとめているので、これをベースに、私が所有する岡山藩に関係する史料も参考にしながら、岡山藩・津山藩に関係する略年表を作成してみたい。

歴代の岡山藩主は、宇喜多直家(1573~1581)・宇喜多秀家(1581~1600)、小早川秀秋(1600~1602)、そして池田忠継(1603~1615)・忠雄(1615~1632)を経て、池田光政(1632~1672)となる。以後は、章政(1868~69)まで、池田家当主として10人が岡山藩主の在に就いていた。
まずは、江戸幕府の成立期であり、岡山藩を確立した3代池田光政までをまとめておく。


◯1593(文禄 2)
文禄の役のとき、香登本村百姓新兵衛が唐臼を、同西村長吏六介が六介膏をもたらす
(備前国唐臼の由来:紀伊家文書)

抑御百姓唐臼之儀は、文禄年中大閤秀吉公朝鮮征伐之時、軍将備前宇喜多宰相秀家卿之家老長船紀伊守御供出陣之砌、異国人々英気を取挫く計策ニて、大兵強力之旗持を撰ひ、国中を御吟味之処、香登本村百姓新兵衛、同西村之長吏六助といふ者、身之長六尺弐寸、力飽迄強、為紀伊守被召出、朝鮮江御供仕、元来新兵衛カ先祖ハ、奥州仙台之浪人成しカ、民間ニ落て、代々百姓業と仕、此処ニ住居す、彼地之御合戦日本勝利、凱歌を唱へ、帰国之時ニ、新兵衛日本に帰重宝にも可成品覚帰度思ひ、被唐臼を習来、又焼物細工人三十人召連帰しかば、此事秀吉公被聞召、新兵衛百姓専一之器を朝鮮より習来よし、我朝末代迄之重宝也と、台命によりて難有も御墨付頂戴仕、爰を以香登を唐臼之元祖と申也、此器異国より習来故、俗に唐臼と言伝ふ、其後諸国浦々迄残る処なく所持重宝す、又長吏六助名(  )を煉習、鍋杯取帰り、六助膏おて世人是を賞賛す、右焼物師三十人之内、十五人は筑前之国嶋ニて焼物ヲさせ、余り十五人ハ京都に登し焼物させ、末世迄是を賞翫す、是皆明徳良将之秀吉公朝鮮征伐ニよりて、新兵衛唐臼之由来今に残りぬ

紀伊家文書

「唐臼」とは、上臼に取り付けた遣木 (やりき) を数人で回し,籾がらをのぞいて玄米にするための道具。寛永初年(16世紀前半)に中国からもたらされ,従来の木の臼より能率がよく,享保(1716~36)ごろから普及。つき臼系統の唐臼もあり,これは臼の部分を地面にすえ,杵にあたる部分を足で踏み,脱穀する。

秀吉の朝鮮出兵(文禄の役:1592~93)の時、宇喜多秀家の軍勢に和気郡香登本町百姓新兵衛と同西村長吏六介が「大兵強力之旗持」として動員され、新兵衛が「唐臼」と焼物細工人(30人)、六介が膏薬(六介膏)を持ち帰った。

◯1594(文禄 3)
赤坂郡矢原村の又兵衛を岡山城下国守へ引越しさせ、「国中穢多頭」に任命した
(撮要録)

又兵衛と申者、赤坂郡矢原村に居申候所、遠方に居御ては御用之手筈あひ不申候間、御城下近所江罷出申様にと被為仰付、国守江罷越申候

撮要録

この史料の出典であるが、1708年(宝永5)に下伊福村大庄屋猪左衛門が提出した「伺い」に見られるもので、100年以上後のものである。このことから、「穢多(頭)」の表現(17世紀半頃より使用されたと思われる)がこの当時に使用されていたとは考えられない。

当時の領主宇喜多秀家が領内の“かわた”を統制し皮革を収集・確保するため、また同時に捕亡・刑吏役を務めさすために、岡山城下に移住させたものと考えられる。以後、岡山城下の西北と街道筋の要所に“かわた村”を固定していく。

◯1604(慶長 9)
 検地のとき、国守「穢多頭」又兵衛は屋敷畑免地(撮要録)

◯1606(慶長11)
 上東郡久保村畠方御検地帳に「河田、下々畠」が3例見える。

◯1614(慶長19)
 大坂夏の陣に、和気郡働村の地侍沢木藤右衛門が藤野村の穢多佐右衛門・九郎をつれて参加し武功が多かった
(吉備温故秘録)

◯1643(寛永20)
 池田光政が「彼等も我百姓なり」「穢多も一統我百姓なり」といった
(仰止録・率章録)

藤野村を御通りなされ候節、農民の体なるもの、遠く並居たるを御覧なされ、如何なるものよと御尋あり、穢多どもにて候と申上ければ、彼も我民也、獣を屠るを業とする事、誰にてもなすまじきにあらねば、彼等に限り遠ざくべからずと仰せられ、其年の暮御年貢納申候節、彼穢多の事被思召出候哉、役人共へ、穢多共の作り差出す米は如何致候哉と御尋ね成しに、御役人共、穢多と申す者は不浄なる者故、御蔵入御家中知行へは拂はせ不申由申上ければ、夫は心得違也、穢多も一統我百姓也、何として其通分け隔て致候哉と仰せられ、其年より御蔵入にも、御家中知行にも納申候様に被仰出し也

『仰止録』

『仰止録』は、文政年間(1818年以降)に、岡山藩の督学(学校奉行?)早川助右衛門が池田光政の言行録を編集したものであり、150年以上も経た後に編集されたものである。
また、同様の言が『率章録』にもあるが、この史料は、1772(安永初)年、藩士近藤四涯が編集して、5代藩主治政に提出したものである。これも100年以上経っている。光政の言葉がそのままに載っているかどうか、編集の際に意図的に改編されてはいないか等の疑念も否定しがたい。一例を挙げれば、『率章録』では「彼等も我百姓なり」が『仰止録』では「彼も我民也」となっている。

光政は鳥取藩主から岡山藩主池田忠雄の死去により、寛永9年(1632年)に岡山藩主となった。(忠雄の嫡男光仲が幼少のためであり、光仲は鳥取藩主へと移封となった)光政の在位期間は1632~72年である。

この史料は有名で、さまざまに解釈されてきた。光政の「仁政」の証左だと、この史料を根拠に<封建的平等>の論理を展開しているのが『渋染一揆論』の著者柴田一氏である。
また、柴田氏とは逆に、光政の年貢増徴を「部落差別を強化拡大していく作用を推し進めていくもの」であるという大森久雄氏や人見彰彦氏の批判もある。

柴田は、岡山藩初期(17世紀)、池田光政は、「封建的平等」によって「部落差別を許さず、積極的になくしようとさえしており」光政死後もその政策は定着していたとしている。柴田は光政の「穢多も一統我が百姓」という言を最大の拠り所としているが、この光政の言自体、すでに、岡山藩の身分秩序の中に、「百姓」とは異なる身分として「穢多」が位置づけられていること、同時にその中には、農業経営に従事していた者が存在していたことを示しており、それ故、わざわざ光政が「一統」といわねばならなかったのである。むしろ、光政がそう言った真のねらいは何なのかという点こそ、支配者光政の立場を前提にしてさぐらねばならないといえる

(真岡二郎『歴史評論』261号)

私も柴田氏の『渋染一揆論』を読んだとき、この表現(「穢多も一統我百姓也」)を根拠にする「御百姓意識」には必ずしも賛同できない違和感をもった。また、大森久雄氏は、この表現を「それまでのかわたに注目し穢多との呼称でまとめ、それからも年貢収奪を厳正に行う政策をとったことを示すと解釈する」と述べているが、これも強引な階級闘争史観を感じる。

◯1644(正保 1)
 次郎九郎(先祖は御野郡銭屋敷浪人)が常盤町へ引越す(市政提要)
 東山峠の乞食屋敷、東照宮勧請のため奥市へ移転(撮要録)

1643年(寛永20)のものと思われる「備前備中両国石高帳」には「高壱千七百五十七石四斗壱升、下伊福村、枝村 三門・石井寺・国守・西崎 かわた」と記載がある。
正保年間の地図(「備前国郡絵図」)には「かわた」「かわや」「ゑつた」の呼称で12か村がみえる。「備前国九郡之帳」(1624~43)には備前国内10村(下伊福村・二日市村・西原村・神下村・周匝村・篠岡村・久保村・一日村・東須恵村・久志良村)が「枝村 かわた村」と記録されている。
このことから、岡山藩では“かわた”が集落(村)をもち、農業を生業としながら皮革や行刑などを役目として担当させられていたことがわかる。

◯1656(明暦 1)
 煙亡次郎九郎、「偽金事件」で賞賜(留帳:池田家文庫)

「偽金事件」(にせ銀作り)に関しては、拙ブログ(「岡山藩の目明し役」)を参照されたい。

◯1667(寛文 7)
 「町在々男女奉公人并浮人牛馬改帳」に「穢多」記載(「穢多次郎九郎、葬之節穴を掘候事を肝煎申候」)がみえる(池田家文庫)

「穢多」の記述がみえる早い時料である。
1666(寛文6)年から、池田光政はキリシタン神道請を強行し、神道を清浄なものとして尊重し、反対に非清浄なもの、ケガレを蔑視している。
次郎九郎は「おんぼう(隠亡・煙亡・陰亡・陰坊)」身分であるが、この史料あるように、“かわた”や“おんぼう”など賤民身分を“穢多”呼称に改めて把握しようとする意図を感じる。

「キリシタン神道請」とは、光政が「神儒合一」の立場から、産土神または信仰する神社の神主に「宗門請」を行わせるように公布したものである。これにより、武士だけでなく良民すべてが従来の寺(檀家寺)を離れ、葬式も「儒葬」が一般化していくことになる。そのため、多くの寺院が廃寺となり、寺僧が還俗したり立ち退いたりしたため、やむなく寺子屋に代わるものとして「郡中手習所」を置いて、読み書き・儒道・算法を教えるようにしている。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。